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「音楽そのもの」とはなにか?――宇野維正『1998年の宇多田ヒカル』考

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

 原稿で宇多田ヒカルについて言及する機会があったのでこの機会にと宇野維正『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書、2016年)を読んだ。Amazonレビューでは毀誉褒貶が激しくどうしたものかと思っていたのだが、渋谷系批判など気になる論点もあったので目を通したのだった。

 結論から言うと、もちろんこの本から得られる知識というものはたしかにあるのだろうが、それ以上に議論の一貫性に欠け、また著者の「音楽」観の歪みが目立つ一冊だった。いちばん言いたいことは後者なので手っ取り早く私の批判の要点を知りたい人は次の次の見出しにジャンプしてください。

浜崎あゆみMISIAが「奇跡」ではない理由

 第一に、本書が描こうとする図式の一貫性のなさについて見ていく。

 日本で最もCDが売れていた1998年をピックアップし、同年にデビューした宇多田ヒカル椎名林檎aikoの3名を「奇跡の1998年組」(第一章の表題だ)とくくってプレゼンテーションするという本書の見立てはとてもわかりやすくキャッチーだ。しかし、この三者と同様の条件(1998年デビューかつ現在でも人気を保っている)を持ち、本文でも言及されているMISIA浜崎あゆみが「奇跡の1998年組」から除外されている理由ははっきりと言及されない。加えて言えば、例の3人をわざわざピックアップして「奇跡の1998年組」というキャッチフレーズをつけたのにもかかわらず、浜崎あゆみにも第6章がまるごと割かれて頻繁に言及されているのも不自然だ。まるで、3人の「奇跡」を強調するための当て馬のような扱いに見える。

 本文の断片的な記述を組み合わせるならば、MISIAが「奇跡」から除外された理由は、「シンガーとしての才能が突出しているMISIAと総合音楽家とでも言うべき宇多田ヒカルは、まったく異なるタイプのミュージシャン」(87頁)であるためだと推察されるし、浜崎あゆみと「奇跡」との違いとは、「個人事務所に所属する宇多田ヒカル(と椎名林檎aiko)と浜崎あゆみの違い」(195頁)にほかならないだろう。つまり、第一には、ミュージシャンとして自分の関わるコンテンツに対するクリエイティヴをどこまでコントロールしているか、第二には、ビジネス面での自由を手に入れられているか、という点が著者にとって重要だったのだろう。だったらそう書けばいい話なのだが、なぜかこの最重要ポイントがはぐらかされているのだ。

 もう少し適切なプレゼンテーションさえすれば、この図式をより一貫したものとして提示することは可能だったはずだ。にもかかわらず、結果として、読者の読み込みにその一貫性を任せるような書き方になっている。どこまでこの瑕疵に自覚的だったかはわからないが、第七章での宇多田ヒカルに対する執拗な言及や第三章でのMISIAの扱いから見ると、彼女の特異性を論じるための方便のために「奇跡の1998年組」を思いつき、アド・ホックにこの図を描いたゆえの弊害なのではないかと思ってしまう。

「音楽そのもの」とはなにか?

 次に、著者の「音楽」観の歪みについて。個人的には本書でもっとも疑問に思えたのはこの点だった。

 著者は本書を執筆するにあたっての自らの姿勢を次のように表明している。

自分の関心は、今後もさらに激しい変化が訪れるに違いない「音楽を取り巻く環境」の経過報告のようなもの(そういう本にも資料的な価値はあるのかもしれないが、1年2年経ったら誰からも読まれなくなるだろう)ではなく、流行の変化や時間の経過による風化にびくともしないで、今もなお音楽シーンの最前線で鳴っているポップ・ミュージックそのものにある。(30頁)

 こうしたスタンス自体には共感しないでもない。しかし、「音楽そのもの」を語ろうという試みは常に、「音楽そのもの」とはなにかという問題にぶち当たることになる。録音物か、ライヴパフォーマンスか、あるいは楽譜に記された楽曲か、はたまた歌詞か。論じる対象を同定するだけでも一大事だ。

 にもかかわらず、本書ではその「ポップ・ミュージックそのもの」に関する反省的な視点を一切欠いている。そればかりか、この本の記述の大部分は「音楽そのもの」とはおおよそ思えないような、ミュージシャンの伝記的記述や個々のメディア戦略とかクリエイティヴ上の戦略の解説に終始しており、とてもではないが「音楽そのもの」に関心を抱いている人間の書いたものとは思えないのだ。申し訳程度に挿入される歌詞も、各々のミュージシャンが抱えるストーリーの意味を強調し、著者が頭の中で描くドラマを裏付ける道具程度にしか用いられていない。「音楽そのもの」への関心は、というか敬意はどこにあるのだろうか?

 著者の「音楽そのもの」への無関心が顕著なのは、aikoを扱った第五章「最も天才なのはaikoかもしれない」と浜崎あゆみを扱った第六章「浜崎あゆみは負けない」だ。

 第五章の終盤、「aikoと音楽ジャーナリズム」及び「Jポップのグラウンド・ゼロ」と題されたふたつの節で展開されるのは、著者の属する音楽ジャーナリズムという「音楽業界」と、aikoの属する「音楽業界」のあいだの距離だとか、いかに音楽ジャーナリズムがaikoを語る言葉を持っていないかという自嘲だ。果たして、aikoロッキング・オンだとかいった音楽ジャーナリズムをろくに相手にしないということが「音楽そのもの」といったいなんの関係があるというのだろうか。あまつさえ、「音楽そのもの」について語る能力がないことを吐露するとはどういうつもりなのか。

 続く第六章には「日本のマイケル・ジャクソンとしての浜崎あゆみ」なる節があるが、この内容も噴飯もので、MJと浜崎あゆみのどこが似ているかといえば、浜崎あゆみのアーティスト本から垣間見える「夢のような日常を送っているのにどうしようもなく空虚な姿」(198頁)が、晩年のマイケル・ジャクソンの姿と重なるのだという。音楽性でもショーマンシップでもなく、だ。せっかく西寺郷太氏の示唆に富むたとえ話を引用しておいて、あまりにもひどい記述だというほかない。

 「音楽を取り巻く環境」に興味はない、と大見得を切ったのは著者自身だ。にもかかわらず、著者は音楽業界の内輪話みたいな「音楽を取り巻く環境」にしか言及しないし、「音楽そのもの」について語る段になると、レトリカルな印象批評を言い訳のように繰り出してはぐらかす。この不調和はどのように処理されているのだろうか。端的に、「自分が属している音楽業界こそが音楽そのものである」という自惚れがあるではないか、と私は思う。

 おそらく「音楽を取り巻く環境」と言ったときに著者が想定していたのは、聴取環境や産業構造の変化のことだったのだろう。テクノロジーとカネの話は「音楽そのもの」からは除外されるわけだ。しかし、空虚なレトリックとしょうもないゴシップからなる音楽ジャーナリズムは「音楽そのもの」のなかにカウントされる。なんという傲慢だろう。

 率直に言って、『1998年の宇多田ヒカル』よりも、ヒットチャートやフェス、聴取環境の変化といった「音楽を取り巻く環境」を論じてJ-POPの現在に迫った柴那典『ヒットの崩壊』(講談社現代新書、2016年)や、同様に夏フェスシーンの成熟のかたちをRIJFの軌跡を通じて描いたレジー『夏フェス革命: 音楽が変わる、社会が変わる』(bluepring、2017年)のほうが、よほど「音楽そのもの」へのアクチュアルな思考を促す、示唆に富む本だった。

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

夏フェス革命 ー音楽が変わる、社会が変わるー

夏フェス革命 ー音楽が変わる、社会が変わるー

 あるいは、細馬宏通『うたのしくみ』(ぴあ、2014年)や 冨田恵一『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』(DU BOOKS、2014年)といった「音楽そのもの」に対する卓越した分析を前にすれば、いかにこの著者が前提とする「音楽」なるものがいびつであるかが浮き彫りになるはずだ。

うたのしくみ

うたのしくみ

ナイトフライ

ナイトフライ

 いずれにせよ、著者の根本的な「音楽」像に対する自省なり批判なりといった検討がないならば、他の著書を読もうとは到底思えない。毀誉褒貶が激しいのも当然で、Amazonレビューのほとんどは言葉足らずの罵倒にも満たないものではあるのだが、読者は敏感にこの傲慢さを察知したのではないだろうか。