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2018-08-22

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・高校生のころ、考えたことがある。
 「ロミオとジュリエットの物語は、それはそれでわかる。
 しかし、ロミオのことを陰ながらお慕い申していた女性や
 ジュリエットを好きだった男性のことについては、
 これはもう、どうにもならないんだよなぁ」ということ。
 恋敵として物語に登場する男女なら、まだましで、
 物語のなかに一行も描かれないけれど、
 描かれぬままにふられている人物だっているわけだ。
 これは、どうにもならないんだよなぁと、
 怒りの感情さえ混じえて、高校生だったぼくは思った。
 どうにもしようがないことを問題にしたかったのだ。
 物語に登場してもいない知らないだれかの失恋について、
 どうして地方のただの高校生が心配せにゃならんのじゃ?
 ふつうに考えれば、そういうことなのだけれど、
 こういうことを考えたっけなぁという事実は、
 ずっと忘れられないままに、ぼくのなかに残っている。

 余計なお世話であり、だいたい、そんな人が
 実際にいて困ったり悩んだりしているわけでもない。
 高校生のオレは、その「どうにもならない問題」のなかに
 じぶんを見ていたのだろうか。
 物語に登場することもなく、ただ失恋している存在に、
 じぶんを重ねていたのだろうか、という気もする。
 なにか、社会常識のようなものに難癖つけたいのか、
 芸術的なテーマの一片を見つけたつもりなのか、
 いまとなっては、いや、すでに当時から、わかってない。

 考えてもどうにもならないのだけれど、
 考えれば考えられるような問題というのは、
 実はけっこうたくさんあって、
 そういう余計なことにかぎって考えたくなるのが、
 若さというものなのかもしれない。

 世界や人間というものに備わった不公平だとか、
 突き詰めても突き詰めても答えにたどりつかないこと、
 じぶんはなんのために生まれたのだというようなこと、
 こういうものについて、さらっとした単純な答えはない。
 なのに、なぜだか若いときにゃ考えたがるし、
 実は、答えにたどりつかない分だけやっかいで、
 死ぬまでずっとまとわりついてくるような気もする。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
肯定も否定も関係なく言うけど、余計なお世話だよね〜。


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