メディア幼年期の終わりに
すべてはブログに帰る。
ヒントをくれたのは、またしてもjosicoはんで、どんどん参加者の程度が悪くなって、いまや「はてな」コミュニティなみの程度の悪さになったツイッタでの応酬をみていて、
と述べているので、わし「似た育ち同士英語人友」がそうしているように、外に向かっては閉じたフォーラムをつくると言っているのかとおもったら、そうではなくて、自分のブログをつくって、中学生のように交換日記をしようというのだった。
わしはネット悪意人がよく使う「厨二病」諸事が大好きなので、それはいいね、よい考え!と思います。
自分のブログをつくっておいて、コメント欄をつかって、よもやま話をすればいい。
ワードプレスにはプラグインでフォーラムをつくる機能もあるので、ブログといっても、かつてのブログではなくて、自称もCMS(コンテンツマネジメントシステム)なんちゃっていて、やる気を起こせば、SQLとつなげたりして、なんでんかんでん出来るようになっている。
普段SNSを使っていたりしているときは、どうしているかというと、デスクの前に座っているときは、目の前に27インチのiMacがあって、右側に40インチのデルモニターがある部分が不動の体制で、残りは、そのときどきで、モニターアームに30インチがふたつついたのが壁から出っ張っているとか、趣味だあー趣味だあーと言いながら、とっくの昔に日本語でいえば億の単位になってしまっている株式の売買の、クライマックスであると、ピコピコ動き回っている画面を見ながら、
なんでだー、そこでなんでさがるんだー、とぶつぶつ言いながら、売り買いをしたりしていることもある。
ビデオ会議は専用の部屋があって、これは同業者はスタンダードだと思うが、というか、同業でなくても、近所のグーグルに勤めているおばちゃん1号や、マイクロソフトで仕事をしているおばちゃん2号もおなじで、新しいシステムに変わると、うれしそーに自慢しにあらわれて、見に来いというので行くと、チョーかっこよくて、「ガメも、仕事なんだからマジメに投資しないとダメだぞ」という。
わしは、ビデオ会議、嫌いなんだけどね。
第一、 あれは、暑い日などは、男も女もマジメなスーツで机の上のPCを見ながら、深刻なたたみかけるような調子で話しているが、
「うふふ。でも、きっと机の下の見えないところは、ニッカーズやアンダーパンツだけで、もしかしたらフリチンだったりして、扇風機があたっているのでは。
『ちょっと立ってみて』とかゆっちゃおうかしら」などと余計なことを考えるので、気が散って、商売上の決断に失敗する可能性がなきにしもあらず。
自分の用事などはスカイプですんでしまうので、なんだったら電話でもいいぞ、とおもうが、最近の人は、投資家やビジネスマンが颯爽と活躍するテレビドラマの観すぎで、それはなんとなく釈然としないものであるらしい。
twitterは、そういう、スカイプやスプレッドシートや、データベースや、算数の計算に使っているソフトやなんかの、いろんなソフトの画面が散らかっているデスクトップの端っこに、ブラウザで、notificationsやlist、homeと、いくつか画面が開いていて、タイムラインが、ぞぞぞっと動いて、応えたければ応えるし、応えたくなければ応えない。
ついでにいうと、iPhoneは英語以外は、欧州語も日本語もいっさい禁止にしてあるので、英語しか呼びにきません。
ほんど全部テキストメッセージで、
「会議、また忘れてるじゃん」とか
「今度、診察日をさぼったら、ぶっとい注射を予約しておくぞ。GPより」
とか、緑色のメッセージが乱れとんでいて、あの合間合間に、ラウンジかスタジオか、夏ならば庭のガゼボかにいるモニさんから、
「ガメ、大好き♥」
「xxx ○○○」
メッセージが入っていて、知らない人のために親切心を起動すると、
xxxはキスキスキス、○○○はハグハグハグ、という意味です。
ときどき、「ガメは一日中ツイッタをにらみつけているのではないか」、と思っている人がいるが、別にそれでもいいのではないかとおもうが、現実とは異なっていて、
ほかのことをやりながらツイッタをやっているから、起きているあいだは、クルマを運転したり食事をしているのでなければ、のべつまくなし五月雨式にツイートがでてゆく。
そこのきみ、
「あっ!だからツイートが、あんなにいいかげんなのか!!」
と膝を打って納得しないように。
twitterは外国語の習得に向いているとおもう。
140文字時代は英語母語人にとっても、やや苦しい文字制限だったが、ちょうど日本語二バイトの140文字と同じくらいで、現在の280文字は、英語の練習にはぴったりではないだろうか。
これも日本語と同じで、長い文章のほうが平明な英語が楽に書けるが、逆に、英語らしい表現や、汎用性は狭いがその箇所に適切な単語が思い浮かんだりして、かえって楽しいかもしれない。
欠点は、なにしろツイッタなどは年々年々参加者の質が低下していることで、言語によらず、ふつうの人間がふつうに暮らしていれば絶対にお目にかからずにすむ、
部屋にひきこもって世間への憎悪に包まれて悶悶としている人や、ろくすぽものを考える習慣をもっていないのに、どこかで聞きかじった「自分の意見」を、連想ゲームなみの反射で並べてぶつけたい人がSNSの世界には充満していて、
日常生活では経験しない愚かな人間の相手をさせられる「ムダ」に遭遇する。
このあいだなどは、最近はよくあることだが、日本で食いつめて祖国に帰る可能性がなくなったイギリス人にまで絡まれて、UK人はむかしから悪意ばかりのバカが多いが、到頭、ここまで堕ちたかと、なんというか、やるせない気持にさせられてしまった。
わし友の晩秋が
Yep. Some of his English responses sounded like a Nova teacher who spent way too much time in Japan.
と述べていたが、そのとおりで、日本の経済低迷が罠のように働いて、祖国にもどれないでいるうちに、日本と祖国の経済の差がどんどん開いてしまって、「ドツボに嵌まる」という、そのお下品な表現どおりになって、
「このJames F. という人が、ほんとは日本人じゃなくて英語人でも、おもったのと違ってましたと謝ればすむことだ」
「ネトウヨにも、いい人はいる」と、ははははは、と力なく魂から空気が抜けそうな発言を連発して、タイムラインにいる人間全員を呆れさせた頓狂な日本人と結婚して、考えてみれば、いったいこういうカップルは、この先、どうなっていくのだろう、というよりも、日本風に発想すれば、この先、いったい何百人の人に迷惑をかけて生きていくだろうか、というような人間たちまで出てくるようになってしまった。
気が付いた人もいたはずだが、この日本人の女の人のほうは、自分がなにをやっているか、まったく自覚がない点において、はてなのおやじトロルとそっくりです
今回で懲りずに、このあともなにかあるようなら、当然、もっと厳しく考えなければならないが、あまりに気の毒なので、この嘘とはったりで世間を渡っているカップルの名前は書かないが、どうもこりゃ、ツイッタの使いかたは、そろそろ考えないといかんな、ということになった。
以前には同じ理由でマストドンに移住しようと考えたが、500字の日本語の負担というものはすさまじいもので、到底つづけられなかった。
500字という長さは日本語では、たいへん都合が悪い長さで、ツイートのようにテキトーに書いていくということが出来ない一方で、いざ文章として組み立てるとなると、身近すぎて、エンジンがかかる前に字数制限が来てしまう。
SNSそのものが、知識レベルの高い、いわば出来上がった人間同士が話すのでないと、というのはつまり、そこまでに現実世界での読書や講義や議論の積み重ねがあって、その上澄みのところで話ができる人間でないと、「ええええー。また、こんな初歩的なことから全部説明するのかよ。勘弁してくれ」というような単純な徒労から始まって、悪意のアイデアだけは豊富にある人間の侵入からタイムラインのひとびとを守る工夫まで、くたびれるだけなので、ちゃんとした議論そのものには、向かないようでした。
長く続けてきたことなので、良いことももちろんあった。
ブログを読んでくれる人は、気が付くとおもうが、現実世界では、どうも本人に訊かないとわかんないよね、とおもうと、伝手があるので、世間的には偉くてあえないことになっている人にでも、のこのこと会いに行く。
もしかして、そのたびに握手してカメラのほうを向いて笑って写真を撮っておけば、笹川良一のように、写真をずらりと並べて博物館にして、入場料で稼いでもいいのではないかとおもうが、ツイッタでも、自分が匿名でやっているのをすっかり忘れていて、本人に直截ツイートしてしまうことが時々あった。
日本の「著名人」はチョーえらそーに構えているだけで、右耳からのぞくと左耳の向こうがわに広がる景色が見えそうな人もいたりして、まさか日本語ではやらないが、英語では、ついいつもの調子で、聞いてしまう。
日本の大臣だか元大臣だかが、「大英博物館は少し前に学芸員の大量解雇をやった」と公の席で述べていたので、うっそおおおーんとおもって、「ほんとうに解雇したんですか」とツイッタで聞いたら、子供のときから大好きだった大英博物館から、すぐに返事が来て、「そんなことは絶対にありません」と返事をもらったときは、単純に嬉しかった。
子供のときの夢を裏切られないですんだ気がした。
ついさっきも、最近英語で読んだ本のなかでは、最もすぐれた本だった「Pachinko」を書いたMin Jin Leeがアカウントを持っているのに気が付いたので、たまらなくなって、ツイッタを通じて短いファンレターという以外に呼びようがないものを送ったら、返事をくれただけでなくて、しばらくして、ふと見ると、フォローしてくれている。
大喜びで、こちらもフォローする、ということがありました。
Min Jin Leeは、いま英語で書いている作家のなかでは、多分、実力最高の作家で、
地歩がゆっくりで、遅咲きの感はあるけれども、日本のマスメディアのインタビューで3枚くらいは格落ちの作家村上春樹と対等だと(言った記者のほうは、おそろしいことにほめたつもりなのだとおもうが)言われても、よく見るとやはり頬がひきつっていたが、対して腐りもせずに、光栄です、なんていっていたカズオ・イシグロの後をおそう存在になると考えられている。
なにしろ、大作家として絶頂期の川端康成に芥川賞を授賞するようなものなので、カズオ・イシグロに委員会がノーベル賞を授与したときには「その手があったか」と世界中の文学関係人がぶっくらこいてしまったが、Min Jin Leeの才能は、もしかしたらそこまでいってしまうのではないか、と思わせるところがある。
その当人からフォローされたので、いえーい!と、ぎょっとしたような顔の猫の前で踊ってしまったが、なにしろ、わしツイッタ友達は、みんな知っている、ときどき、ぬわんだとおおおー、になって、
「ケツの穴から手えつっこんで奥歯ガタガタいわしたるぞ、こら」なので、
いつまで続くか、糠喜びなんじゃないの?という気がするが、糠が臭くても嬉しいものは嬉しいので、ファンというのは、そういうものです。
そうやって楽しいこともあるのだけれども、やっぱりブログに帰るのが正しいのではないだろうか。
ツイッタはやめるというほどのことはないので、英語だけにさせてもらって、日本語で話したい人はブログのコメントやフォーラムに来てもらって、知らない人ともシェアしたいチョーかっこいい発言があればツイッタにもばらまくとか、なんだか、そんなんがいいような気がする。
ひとつには、最近は、哲人どんや、南Q太、不破大輔や一色登希彦、三田村光土里(全員敬称略)というような新しいお友達がやってきて、むかしからの友達(例:josicoはん、オダキン)とあわせて、例え明日ツイッタがなくなっても、自分がしたい議論やよもやま話に困らないようになった。
一方で、ちょっと、大ファンとしては、Min Jin Leeの前で、「こおーの嫌韓野郎が、タクアンにしてトントントントンッと切り刻んでやるから、そこに直れ」と述べたりするのは、ややかっこわるいし、いまタイムラインをみても、Min Jin Leeが知的に微笑んでいる顔のすぐ近くに、人間として尊敬している勝負師ウルフ村田の
という、わしがRTしたツイートが並んでいて、自分でRTしたくらいで、もちろんツイートとして悪いわけはないが、なにがなし、釣りあいが悪くて調和に欠ける感じがする。
いろいろ、やってみて、ツイッタの使い方を変えようとおもっているし、ブログのほうも、だんだん旧来のブログからCMSの機能群を加えていこうとおもっています。
多分、いまはやっていないコメントへの返信を、返って、しかも過去に遡って、充実させていくとおもう。
そろそろ日本語で生みだされたものにもおとなになってもらわなければ。
その過程で、一部の人が疑うような虚構ではないが、ある種類の言葉が出やすいように、やや性格を下品でエクセントリックに変えてある大庭亀夫氏にかわって、わし自身が前面にでて、英語世界のお友達たちも加わって、な、な、な、なんだこれわ、のカーニバルみたいになってしまうかもしれないが、それならそれで別にいいや、とおもう。
日本が物理的に遠くなってから、8年が経って、なんだか日本語世界全体にリアリティを感じなくなってきたからなのかもしれないけど。