希望

吐き気をこらえながら通りを横切るようにして一生を駆け抜ける人がいる。
ほら、いつか川岸のパブで、死んでしまった友達の数を数えていたことがあったでしょう?
あの頃、きみとぼくは25歳だったのに、8人もいなくなっていた。

きみとぼくは、他人がうらやむ境涯に生きてきた。
宏壮な家。
母親の代わりに制服を着た運転手が運転するクルマでの通学。
われわれが育った、煤けて、趣味が悪い装飾がいっぱいある都会のまんなかにある公園で、霧がたちこめる朝に肩を並べて乗馬する特権。

でも、そんなことに、たいして意味があったとはおもえない。
きみもぼくも、21世紀のこの世界では、つまりは恐竜で、存在するはずのない生き物で、マジメな顔でタイトルを述べれば聞いた人は吹き出すだろう。

ドレスダウンして出かけた週末、ぼくはクラブの窓際できみがやってくるのを見ていた。

きみときたら通りをわたってくるのに右も左も、まったく見てやしないんだ!
まるでクルマに衝突されるのを望んでいる人のように、ドアを開けて入ってくると、椅子に腰掛けて、いきなり「人間にとっての、ゆいいつの福音は、死ぬことだとおもわないか?」ときみが述べた夜をおぼえている。

きみが、あのパキスタン人に人種差別の科で訴えられたとき、ぼくは知っていた。
知っていただけでなくて、どうして、この鬘をかぶったマヌケたちは、それが人種差別ではなくて、この地球上のありとあらゆる人間に対する嫌悪なのだと判らないのだろうと訝った。

知性とは常に軽薄なものだ。
ひとつの罠を避けて、「よりよい」罠にはまってしまうような性質のものだ。

すべての論理は詭弁にしかすぎない。

数学が論理を嫌悪する理由は、そこにある。三段論法にしがみついて、ラテン語へ翻訳される過程で生じた誤訳だらけの磔の神のうらみがましい視線の下で、この世界を説明しようとして浪費された知性の総量は神様の予測を遙かに越えていたのではないか。

トラキア生まれのマヌケな哲学者が「天体とは夜空にあいた穴なのだ」とおおまじめに述べていたとき、われわれの知性はどこにあったのか?
どこにいたのか。
いったい、なにをしていたのか。

ぼくは今日の午後、革を張った緑色の寝椅子に横になって、愛人の子を身ごもった幸福を記念するために、愛人のおだやかな微笑みをおもいながら、ダイアモンドの指輪を、そっと薬指にはめる美しい人が出てくる、例の物語を読んでいた。

不能の夫は、懐妊を告げられて顔色を青くして荷物をまとめて自分の愛人のもとに向かって出てゆくが、その物語はケルト人たちの物語であるのに、なんと北海の、あの物語に似ていることだろう。

生活の細部について、まったく言及されない、あの粗筋だけのような物語は、たくさんの読者を期待していない。
18世紀のものでよいから、色つけがしっかりした、マイセンのフィギュアリンに囲まれて暮らしている人間以外には読むことが出来ない不思議な物語で、もちろん、いまの世界では許されないことに、過程もなしに、たった一秒の半分のglanceで恋におちる男と女を描いている。
生活をしらない人間には恋などできないのだ、ありあまる時間のなかで暮らしている人間以外には恋などは存在しないのだと訴えている。

ああいうのを「反社会的な小説」というのではないかしら?
だって、ほんとうは、この世界には恋に堕ちる人間などいはしないのに、
あの物語のなかでは美しい女と男が恋に堕ちるんだぜ?
ほんとうは、この世界には善をもっている人間などいはしないのに、あの恋におちた男と女は善なる意思のなかで死んでいくんだぜ?

しかも、最も反社会的なことには、あの物語のなかでは、人間は人間同士で、言語を使って意思を通じている。
そんなことは、ありえないのに。

そうして、きみとぼくは、多分、この世界で最後の、生まれついて反社会的な人間なのだと思います。

いったい、通りをわたるときに、自分が通りの途中でかき消えてしまう存在でないと確信できない人間が反社会でないなんてことがありうるだろうか。

ぼくは椅子に腰掛けて、じっと自分の裸足をみつめている。
見つめていると、自分の足が爪先から、少しずつ、消えていかないのが、不思議で仕方がない。

こんなに遠くにあるのに、これがぼくの足だなんてことがありうるのだろうか?

ぼくはスキーのゲレンデに深く立ちこめた霧のなかに腕をまっすぐにのばして、自分の手のひらの指先を見ようとしている。

手のひらが現実に自分の身体の一部であることを訝っている。

ぼくはきっと、欧州には帰らない。
ここにいて、人間の悲惨をみつめているに違いない。
何億何十億という人間が悲惨に向かって労働して、彼ら自身がつくった陥穽に陥って、世界と自分達自身を滅ぼしていくのを、ただ、ぼんやりと、みているに違いない。

きみにも、ぼくにも、この世界にも、
もうどこにも希望なんてのこっていないのだから。

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