アルシェの物語〜In the Beginning was the Word〜 作:Menschsein
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甲高くヒステリックな叫び声が響き、遅れて食器がぶつかり合う硬質な音がバッカスの酒蔵に広がった。
アルシェは、その女性の顔立ちに息を飲んだ。その女性の顔立ちは、美しいという言葉すら霞むほどだ。アルシェが美人であると思っている女性、レイナース。そのレイナースさんとは違ったタイプではあるが、その違いを差し置いても、その女性はとびっきりの美人である。
騒ぎを起こしているのにもかかわらず、その動きは優雅であり、気品すらあった。帝都で少なくなった貴族。それも高位貴族の令嬢であろう彼女は、長い縦ロールの髪をわずらわしげに掻き上げながら、前に置かれた料理を不満げな表情で睨み付けていた。
他のテーブルの男達も、騒ぎの主が絶世の美女であると認識すると、その騒ぎの主を責めるような視線から、欲望の色を含んだ眼差しへと変わる。
若い男性だけのテーブルなどでは、『確かに今日の料理はいまいちだな。料理人が代わったのかな?』『素材の鮮度が落ちていた。
彼女の座っているテーブルには、所狭しと食事が並べられていた。アルシェが注文をして平らげてしまった、『バハルス・ミート・ピッツァ』も、そのテーブルには載っている。しかも、アルシェの注文したミディアム・サイズではなく、ラージ・サイズである。
「美味しくないわ!」
優雅にフォークを口に運び、そして続けて放たれた台詞。彼女の不満そうな表情。彼女に注目していた誰もが予想した通りの発言であった。
「場所を変えるわよ。こんな料理、食べられたものではないわ!」と乱暴に椅子から立ち上がる。
「今からだと、おそらく他の所も満席で入れない恐れがございます。それに、帝都に着いたばかりで、この店以外を存じあげません……」
彼女の後ろに控えていた老人の執事が頭を下げながらそう言った。
「黙りなさい! 私は美味しいモノを食べたいの。分かったかしら!」と、彼女は執事を叱責している。
アルシェの耳に、先ほどの若い男だけのテーブルで、小声で『おい。食事に誘うチャンスじゃないか?』という若い男達のひそひそ話が耳に入ってきた。美しい女性を食事に誘うチャンスであるとその若い男達は認識しているようだった。
「早く行くわよ!」と彼女は乱暴に立ち上がり、椅子が倒れた。
「初めまして。麗しきご令嬢。良かったら、お口直しに行きませんか? 美味しい食事処を知っています。『食事処 舌鼓』という所でございます」
「あら、願ってもみない申し出ですわ。それに、まぁまぁ美味しそう」と、その令嬢は先ほどの不機嫌そうな表情から打って変わって、満面の花が咲いたような笑顔を、話しかけた小太りの男に向ける。
「では! ご案内させていただきます」と、美女の満面の笑顔を受けて、興奮しながら男はすっと令嬢に対して手を差し出す。この場からエスコートをするつもりであるのであろう。
「ですが、下等な存在に触れられるのはごめんです。セバス、行くわよ」と、差し出された手を、まるで汚物を見るかの如く見下し、そして踵を返して外へと出て行ってしまった。
バッカスの酒蔵に広がったのは、その令嬢を非難する声と、その無様に振られてしまった若い男に対する嘲りの笑い声。
「お騒がせしました、皆様」
嫉妬、怒り、嘲り、失意。さまざまな感情が交錯していたバッカスの酒蔵に、よく通る声が響いた。老執事の声であった。
老執事は、立ち上がった際に倒れ掛かった椅子を戻すと、執事はゆっくりと食堂にいた他の客に頭を下げる。非常に品のいい老人の完璧な謝罪を、バッカスの酒蔵で食事を楽しんでいた人々は受ける。
「――主人」
「はい」と、バッカスの酒蔵の主人らしき男が老執事の呼びかけに答えた。
「失礼いたしました。お騒がせしてしまったお詫びというほどでもありませんが、この場にいる方々のお食事代は私の方で支払わせていただきます」と老執事は金貨の入った袋を店主に渡して、バッカスの酒蔵を後にした。
そして、老執事の姿が見えなくなったあと、バッカスの酒蔵に歓声が響いた。何処かの貴族の令嬢が騒いだが、それは気にすることでもない。それに、いかにもワガママに育ったというような令嬢。その令嬢の美貌だけに惹かれて無様に振られた男がいる。
食事の席で楽しむ余興と考えれば、それは痛快である。ただ、その令嬢に手ひどく振られた男は、怒りと羞恥で体が震えていた。
「こういうことなら、もっと料理注文しておけばよかったかな」と、アルシェも、食堂の雰囲気が一気に明るくなったので、そうモモンに話しかけた。家に持ち帰るようにもう一枚、ピッツァを頼んでおいても、それは無料になっていたであろう。もしくは、ミディアム・サイズではなく、ラージ・サイズを注文しても良かったかも知れない。まだお腹は七分目と言ったところだ。
「あぁ。そうだな……あれは家令のセバスか?」とモモンはぼんやりと口を開いている。
「ん? モモン、聞いてる?」
モモンは上の空であるようだった。先ほどの令嬢が座っていたテーブルをぼぉっと眺めている。
「モモン、話聞いてないよね?」
「あぁ。そうだな」
「モモンも、あの綺麗だけど性格悪そうな女性に心奪われたの?」
「あぁ。そうだな……あれはプレアデスの……」
――ドン――
今度は、アルシェが両手で机を叩いた音が、バッカスの酒蔵に響いた。
「モモン、最低。明日の早朝、冒険者組合で待ち合わせ。明日は遅れないでね。今日はもう帰るから!」とアルシェも、先ほどの令嬢ほど乱暴にではないが立ち上がり、バッカスの酒蔵を後にした。
・
アルシェは、バッカスの酒蔵を出たあと、そこから少し離れた噴水に腰を掛けて座っていた。その噴水からは、バッカスの酒蔵の入口がよく見える。バッカスの酒蔵への出入りする人影はあるが、モモンの姿はその中にない。まだ、食堂にいるのであろう。
アルシェが噴水の淵に座って、足をブラブラさせること十分。モモンが美しい女性に見惚れるのは別に自分が責めることのできることではなかったと反省をしながらも、モモンが自分を追っかけてきてくれないことに寂しさを感じていた。
帝都の夜風に乗って、打ち上げられた噴水の水が、霧状になって自分の体に掛かる。肌寒い夜だ。
バッカスの酒蔵に戻って、カッとなってごめんとモモンに謝ろうか。だけど、それはなんだか負けた気がする。自分が謝るのではなく、モモンに謝ってほしい。だけど、モモンに何を謝って欲しいのか、自分が何に怒っているのか上手く分からない。
「散歩しながら帰ろう。明日、顔を合わせるのだし」とアルシェは、帝都の街並みから漏れる灯りを見ながら独りごとを言う。
モヤモヤとしたはっきり分からない感情を断つことはできそうにない。そしてまっすぐ家に帰る気にもなれない。
アルシェは、帝都の街並みを歩き始める。野良犬の声だろうか。遠くで犬の遠吠えが聞こえた。
冒険者組合や魔術組合がある区画。帝国魔法学院の大きな正門の前。遊郭などがある地区など治安の悪い場所を避けながら、アルシェは帝都の中を歩き続ける。
もうすぐ貴族の屋敷が集まっている区画に差しかかる頃、男の怒声がアルシェの耳に飛び込んできた。
バハルス帝国ではすっかり珍しい光景となってしまったが、貴族が平民を叱責するような言い方の口調だ。幸い父の声ではない。もっと若い男の声である。
「さっきはよくも恥をかかせてくれたな!」
争いごとを避けて回り道をするのも億劫だし、貴族の区画へ続く道の幅は広い。アルシェは、街灯の下で叫んでいる男達を避け、面倒事を避けるために、道の反対側を進んで自宅へと向かう。
「なんとか言ったらどうなのだ?」と言う再びの怒声。
横目でアルシェが観察した限り、薄暗い街灯に照らされているのは、三人組の男。そして、その三人に囲まれているのは、まっすぐと背筋を伸ばした老人と女性。
バッカスの酒蔵にいたワガママな令嬢とその執事。そして、令嬢に冷たくあしらわれた男とその仲間であることにアルシェは気付く。若い男三人で、老人と女性を脅す。まったくもって褒められた行為とは言えないが、あの美しかった令嬢の事を考えると助ける気持ちに何故だかならない。その令嬢の自業自得だというようにさえ、アルシェには思えた。
そのまま無視して進もう。
「あれだけ威勢が良かったのに今度はだんまりかぁ?」
若い男の、先ほどの令嬢と老執事を詰るような声がアルシェの耳に届く。無視しようと決めていた心が揺らぐ。
「老いぼれは帰んな! 御嬢さんは今晩付き合ってもらうぜ?」
アルシェは、その言葉を聞き、さすがに捨て置くことは人として間違っているであろうと思い直す。そして、
「若い女性と老人を、みっともない! 止めなさい」とアルシェは、杖を若い男の一人に向けながら言う。
「予定外ですが、調査対象その一と接触」と、令嬢のまったく感情を伴わない淡々とした声が響く。
その言葉の意味をアルシェが考えている間もなく、老執事が神速のようなスピードで、若い三人を気絶させた。アルシェは何をしたのか見えなかった。老執事が動いたということだけしか分からなかった。だが、その執事が何かをしたということは間違いが無かった。
固い石畳に受け身もせず倒れる三人。完全に気絶していることは確実であった。
「通りすがりの方。ありがとうございます。動こうにもこの三人、中々隙が無く、困っていたところでした。万が一にも、主を危険に晒すわけには行きませんでしたからね。申し遅れました。私はセバスと申します」と、セバスと名乗った執事は、空中に浮かんで呆気に取られているアルシェを見上げながらそう言った。