植物園の人々
医学書院の某誌に投稿した懸賞論文です。今回rejectされてしまいましたので、再投稿するさきもなく、ここにアップします。自分としては今の等身大の気持ちを書けたのでとても満足しています。ここに掲載して成仏させます。
植物園の人々
浮き輪の、空気を入れるところみたいだな。
病棟の一室で、脳外科の医師になって初めて胃ろうを見たとき、そんな風に思った。ほんの少し前まで医学生だった僕は、胃ろうという言葉は知っていても、それがどんなものなのかは全く知らなかった。あの人のお腹についたプラスチックのちっぽけな部品が、実は胃につながっていて、人の命を支える大切なものだということが、何だかうまく理解できなかった。今からもう15 年以上前のことだ。
ある夜のこと、意識のないあの人が救急車で運ばれてきた。脳動脈瘤が破れた、くも膜下出血だった。この頃は、例え数パーセントの可能性でも、何かしらの改善の見込みがあれば、執刀医は手術を勧めた。Do everything、実行可能な全ての処置、手術をする。シンプルな教義だ。回復の見込みはないかもしれないと考えていながらも、「数パーセントの可能性にかけましょう」と医師が話せば、家族はお願いしますと頭を下げる。
上司も僕もただ手術がしたかった訳ではない、ましてや金儲けをしようと思っていたわけでもない。そこには、例えどんなに小さな事でも、患者のためできる事は何でもしたい、救いたい、善行を為したいという高い倫理観があった。処置の全ては、テープの貼り方から手術の道具の使い方まで、一挙一動に何かしら意味があり、それは、過去から蓄積された職人的な小さな善行の積み重ねであった。その習得こそが若い医師の修行だ。
手術は無事終わり、「うまくいきました」と上司が告げると、家族は安堵の表情を浮かべ、頭を深々と下げて感謝の言葉を繰り返した。しかし、手術室から病室に戻ってきてもあの人の意識は戻らない。確かに手術はうまくいったが、脳の障害が強く意識が戻らなかったのだ。手術の直後から頻回の診察と検査が行われ、患者のわずかな問題も見逃すまいと、僕も連日付き添った。家族も医師もどちらも同じく患者の回復を祈り続けた。家族は一家の大黒柱を、医師は全身全霊をこめて処置をした患者を、簡単にあきらめることはできなかった。死を食い止めるために皆必死だった。
しかし、小さな善行を日々積み重ねても一向に意識の回復がなく、時間ばかりが過ぎていく。そして時間が経つにつれて、点滴だけでは身体に必要な栄養を補うことができない、栄養が足りなければ回復は得られないと考えるようになり、まずは鼻からチューブを通して栄養剤を胃に送り込む。そのチューブも時間が経てば入れ替えなくてはならない。入れ替えの度に患者は喉を管でつつかれて苦しむ。いつものように、何か出来ることはないのか、少しでも良い方法はないのかと考えた結果、「管を入れ替えなくてもずっと栄養が投与できる胃ろうの処置をしましょう」と家族に説明した。家族は黙っていた。もう出来ること全てを実行しても、意識を取り戻すことはないだろうと、気がついていたからだ。だからこんな時は、どの家族もいつも同じ返事だった。「先生にお任せします。」
もちろん医師も気がついていた。あの倒れた日の前の日に、患者は戻すことは出来ない。それでも、患者の身体にメスを入れて命に対する責任を負った以上、意識のないまま寝たきりになっても奇跡的な回復が期待できなくても、今日よりも明日が少しでも上向く小さな善行を積み重ねていくしかないのだ。
次の日、内視鏡での胃ろうの処置が30 分足らずで手際よく終わると、顔の一部になっていた管はなくなり、すっきりとした本来の顔になる。「ああ、こんな顔の方だったのだ」と初めて気がつく。それまで毎日点滴や栄養の投与のため管につながれていた時間が少なくなり、ベッドの周りもすっきりとしてくる。そして、小康状態となったあの人の時間は止まり、日々の色彩はなくなる。家族の日課には病院への見舞いが加わる。毎日夕飯の材料をスーパーで買った後見舞いに来る妻も、いつの間にか、まるで自分の家に帰るように病院で暮らすあの人の元へ「ただいま」と帰るようになってくる。
あの人と同じような状況、同じような病気で次々に患者が病院へ運ばれてくる。意識がほとんどない患者は、同じような治療を受け、同じような状態になる。そしてそんな患者が集まったこの4 人部屋は不思議な空間となる。付き添いの家族達がいない昼間は、誰もしゃべらない静寂に満たされている。時々漏れる患者達の咳やあくびの声。そして夕方に、それぞれのベッドに家族がやってきてようやく、この部屋に人の気配が戻る。
僕はこの植物状態の患者が集まった部屋を、「植物園みたいだ」と思いながら毎日診察していた。植物園は慌ただしい病院の中でも異質で、一見時間が止まっているかのようにみえる。それでも窓の外の天候は変わり、朝から夜へと部屋の光も変わり、誰かが出入りすれば、部屋の色彩が変化する。僕だって植物園の止まった時間をかき回す色彩の一部だ。しかしみんなが部屋から出て行けば、患者達だけになる。すると部屋にはまた静けさが戻り、そして時間が止まる。まるで誰もいない平日の植物園のように。
毎日夕方になるとそれぞれの家族が集まって来る。みんな同じ地元だ。以前からの知り合いもいる。声を掛け合いながら、まるで近所の人達が道端で立ち話しているような会話で病室があふれる。
「あんた、毎日家でちゃんと食べてるか。」
「おたくも大変だねえ、たまには私がみておこうか。」
植物園は、同じ状況の家族同士でしかわかり合えない貴重な交流の場ともなる。
「先生に胃ろうって言われたよ。どんなもの?」
「ウチの旦那のお腹みてごらんよ。ほら怖くないだろ。」
ここでは食事時になると、独特の土色でちょっと変わったにおいのする栄養剤が同じように吊され、管を通り、小さなプラスチックから身体の中に入っていく。
こうして植物園を毎日訪れ、返事のない患者を診察し、それでも名前を呼び、声をかけ続けていると、不幸な出来事の一日から始まった病院での新しい時間が、患者にも家族にも積み重なっていく。僕も患者、家族との長い付き合いの中、季節を積み重ねていった。 最初に診た患者の看取りまで付き合うというのが、僕のいた病院の不文律だった。これもまたとてもシンプルな教義だ。
病院を離れて家に帰り、ふと胃ろうの患者を思い浮かべると、「こうして生きている命に価値はあるのか」という疑問がふと頭をよぎった。「患者に食事の喜びはあるんだろうか、毎日どんな風に思って生きているんだろうか、こんな風に生きていくことは幸せなんだろうか」若かった僕の頭には色んな思いが巡っていた。そんな時、僕は何とも言えない憂鬱を感じた。
それでも、また次の日病院へ出勤し、ロッカールームでひとたび白衣を着れば、僕は医師という別の存在となる。普段着の僕は悩んでいても、白衣を着た僕は、胃ろうをつけて生き続ける患者をずっと支え続けることに、何も疑問を感じていなかった。こうした毎日を送るうち、同じような状況の新しい患者と出会う度に何度でもまた一から治療を積み重ねていく事が、医師の仕事なんだと悟った。そして、毎日を静かに生き続けている植物状態の患者をずっと見つめ続ける忍耐力と責任感が、僕を医師として成長させた。胃ろうは小さな善行の積み重ねの結果だと思っていた。
それから、15年が過ぎ僕は、脳外科から内科に移り、そしてホスピスで長く働いた後、小さな診療所を開業し往診に出かける医師になった。ほんのわずかな間に、病院の対応は驚くほど様変わりした。最近の病院では、回復の見込みがない患者はそう長い間は入院が続けられない。病院は、在院日数を減らすために数ヶ月いや数週間以内には患者を転院、退院させるのが通例となってきた。積極的な治療の適応がないと医師に判定された患者は、「この病院は、急性期治療の患者を治療する所なので」と説明され、治療の打ち切りを突然宣言されるようになった。回復の見込みがないと判定された患者とその家族は、自分達がどれだけ困っていても、公共に理解ある物わかりのいい市民として、次の患者のために病院から立ち去ることを要求されるようになった。
医師と患者の関係はいつしか、どのような治療をするのかという契約関係ばかりが先鋭化し、積み重なる時間の中で熟成される人間と人間のつながりは消えた。患者の将来をひたむきに考え抜く医師も減り、自分の手術をした医師の名前さえ忘れる患者も出てきた。そして、植物園とそこに住む人々は、病院から消えてしまった。静かな時間の中で、病室での止まった時を平穏に過ごす患者も、お互いを励まし合う家族同士の姿もなくなった。病院、施設、自宅を転々としながら、患者も家族もそれぞれの場で孤立するようになった。ついには、「胃ろうをしない選択」、「胃ろうからの経管栄養を中止する選択」の提案がなされ、価値のある生が強調され、無為に延命を図る医療を否定するようになった。
医師は、「寝たきりで胃ろうで生きている命に価値はあるのか」と問い続ける憂鬱から逃げ出し、治療の差し控えを家族に助言するようにもなった。植物状態になった患者を転院させることで、患者から逃げ出すこともできるようになった。市民は、「寝たきりで胃ろうで生きるなら死んだ方がまし」と考えることを尊厳死と錯覚するようにさえなった。しかし僕は、今の医師や市民の命の考え方に、危機感を持っている。彼らは自分自身が老い、死にゆく事実を直視することから逃げ出そうとしているだけなのではないか。彼らの考える尊厳死とは、本当に尊厳のある生の延長にある死なんだろうか。そして医師は、老い、病んで死にゆく患者の尊厳と真に向き合っているんだろうか。
かつての「植物園」には、美しい花を咲かせることはなくとも、静かに穏やかに何も求めず不平も言わず、ただひたすら生き続ける患者がいた。そんな患者を見守り続ける家族と、小さな善行を積み重ねる医療者がいた。たとえいつかは枯れてしまうと分かっている植物でも、一枚でも葉が残っていれば、そこにわずかでも命があれば、大切に見つめ続けるまなざしがあった。枯れゆく植物を愛でながら、言葉にならない思いを伝えようとする対話があった。
しかし今では、花が散り、盛りが過ぎれば、その葉が茎が生を蓄えていても、根ごと引っこ抜き捨ててしまう。花が散った後の植物には既に価値はないと言わんばかりに。あの人のように働くことも出来ず、自分の力で生きていくことも出来ない、意識がなく、寝たきりになった胃ろうをつけた患者には、生きる価値がないと考える風潮が静かに広まっている。しかし、命の価値は、盛りが過ぎても失われることはない。人は生きている以上、老いること、死にゆくことという、人生の冬から目を背けることはできない。
僕が思うに、この胃ろうに関する問題の本質は胃ろうの医学的価値、臨床的解釈ではない。医療コストの適正化でもない。人の死生観でも、胃ろうを巡る倫理的論争でもない。ましてや、生活の質(quality of life)の追求でもない。問題の本質は、今の社会に拡がる、価値のある命と価値のない命を選別し、価値のない命は消滅した方がよいという、偏狭な思想の台頭にあるのではないかと思っている。
今僕は毎日往診に出かけて、それぞれの家で孤立している患者と家族の懐に飛び込み、自分という存在を彼らの日常に染みこませようと試みている。
「こんにちは、もう一週間経ってしまったよ。今日は水曜日だよ。どんな一週間でしたか。何かいいことはありましたか」
「いやー先生、相変わらずですよ、毎日同じようなもんです」
と、いつものように声をかけて診察を始める。体調と治療の具合、そして最近の暮らしの様子を話しあってから、診察を終える。平穏な時間だ。
「来週も同じ時間に来ますよ、また会いましょうね」
彼らが、「こんな状態で生きていても仕方がない」という刹那な価値観に支配されず、命の価値を見失わないで、植物園にいた「あの人」のように生を全うすることを見守っていきたい。本当の「医」とはきっとそういうものなんだろう。
Acknowledgment
Special thanks to Mamiko Yoshida and Kuniko Mizukami for editing my script and supporting me.
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