私の父は田舎の模型店の店主であった。これは私が高校生の時の話だ。
ある日母が私に言ってきたのだ。
「お父さん、悩んでるみたいなの。うちで万引きした子がいて」
万引き。なんと言っていいのかわからなかった。犯行は中学生グループで行われていたらしい。一人が気を引きつけておいて、あとの数人が盗む。複数回ののちに捕まったということであった。学校には連絡がなされた。その晩だった母が僕にそのことを言ってきたのは。父は警察に届け出るかでないかで悩んでいたらしい。万引き犯は中学生とは言うものの、通報すればそれなりの措置がとられる年齢だった。自分が警察に通報すれば、一時の過ちかもしれない彼らの一生が壊れてしまうのではないか。今ここで反省してくれるのなら、警察に言わないほうがいいのではないのか。父はと言っていたそうだ。
父は私がこの話を言い出すまで私に一切この万引きの話をしなかったし、何事もなかったかのように生活していた。そういう人なのだ。私は私でそういう機微に気づけないのだが。
そして後日、反省文を提出することで警察へは通報しない。ということでおさまった。しかし、私の胸中は穏やかではなかった。違和感が残った。被害者であるはずの父がなぜ悩み苦しまなくてはいけないのだろうか。
そのとき同伴したらしい教師は父になんと言っただろうか。どうせ「彼らの将来に傷をつけたくないから警察沙汰にしたくない」、というようなことを言ったのではではなかろうか。保身のために。よくない。想像で物事を非難しては。
いや、もうやめよう。私はただ、彼らが許せないのだ。必要のない苦しみを私の家族に加えた、彼らが許せないのだ。存在しなければよかったとすら思う。
私の父は田舎の模型店の店主であった。彼らの行動を悪とする権利なんてないし、まして責任などないはずだ。しかし、そうなっていた。確かに警察に電話をかけるのは父なのだ。死刑執行のボタンは3つあってそれを三人が同時に押すらしい。少しでも死刑を執行したという罪悪感を軽減するためだそうだ。しかし今回はどうだろうか。ボタンを押すのは父であった。僕と母と父、それと教師で同時に電話すればよかったのか?滑稽もいいところだ。数人の中学生に万引き前科付きのシールを貼る責任なんてただの田舎の模型店の店主に耐えきれるわけもないのだ。
でも父にボタンを握らせていた。犯罪とされる行為をしたものは司法に乗っ取った措置を受ける。これは私達の属する共同体のルールなのだ。誰がボタンを押そうとどうでもいいのだ。父はただの被害者なのだ。執行人ではない。どうしてあのとき、学校教師は通報しなかったのか。彼らの親は通報しなかったのか。私は通報しなかったのか。勘違いしていたのだ。
私の父は神ではなかった。
あの時この違和感の正体に気づけばよかったのだ。
追記:なぜなら、彼らに万引きを命じたのは私だったから。