日々仕事をしている。
自分の生活の糧を得るため、ではあるけど、同じ業種を長年続けていると、それなりに気概というか自分ルールみたいなものができてくる。
エンタテインメントを創出する者の端くれとして、人々が楽しむ姿を創り出したい気持ちはもっているつもりだ。
仕事の効率化にはまあまあ心血注いでいる、わたしがサラです。
先日こんな記事を拝読した。
わたしも1ファンとして継続的に訪れている、フミコフミオさんのブログだ。
超有名だから紹介するまでもないと思うけどね。
仕事の考え方について書かれるコトが度々ある。
そして概ねわたしは彼の思想というか、考え方の順番やディテールに、大いに共感してしまう。
わたしのコトを見てたのか?と勘違いできてしまうような内容の記事があったりもして、勝手にシンパシーを感じているわけだ。
あるよね、こういう気持ち悪いファン心理。
まあ、いいじゃん。
上記の記事で語られている内容もまた、それいいたかったのに書き忘れてたコトだ!と1人興奮してしまった。
フミコフミオさんは、わたしの感情をよく揺さぶってくださるのだ。
彼の主張に重複するけど書くと、仕事の内容を評価する時に、個人の「好き嫌い」を持ち込むんじゃないよ、って話。
せめて、心の中の呟きだけにしてくんないかな。
一歩引いて考えるなら、どんな仕事を選ぶか、というフェイズにおいては、好き嫌いを持ち出してもいいとは、思うんだよ。
1番好きなコトを仕事に選んでもいいし、2番目に好きなコトを仕事に選んでも、或いは嫌いなコトだって、良い。
選び方そのものは人それぞれでいいとして、好き嫌いを持ち込んでよろしい。
ただ、話はそこじゃないんだな。
とっくに選択済みのその仕事内容について、好き嫌いを評価するのは、なんで?という話なのよ。
その評価、必要?
その評価が影響して成果の質が上下します、とかいうつもり?
その評価次第では仕事をしない、っていう選択肢があるの?
答えは恐らく全て「否」だろうと思う。
つまり、無関係なのだ、成果に。
ここはとってもとっても重要だと思う。
自分のメンタル的な弱さを、堂々と表明するコトが一般化して久しい。
背景として、過酷な労働を強いる企業が表面化したコトによる、労働者側からのカウンターという流れがあったろうし、本来仕事によって健康的な社会生活が脅かさせるべきではないという当たり前のコトを、今更ながら見直そうじゃないか、みたいな風潮もあったろう。
わたしも、その流れには全く異論ない。
仕事で身体を壊したわたしがいうのだから嘘はない、ハズ。
しかし「自分らしくあろうとする心理」の延長線上に、「自分の思う通りににならない組織or仕組みは悪である」という発想が繋がっているとしたら、わたしはその発想に否の声をぶつけたいのだ。
自分の心のケアは、正直にいって自分か近親者にしかできない、と思う。
そりゃ名も知らない他人のエピソードが心を和ませてくれたり、顔も知らない誰かの書いた文章が視線を上げさせてくれるコトはある。
いいかえると、それくらいで回復できるんならまだ傷は浅いから、良かったね、ってコトだろう。
理由がなんであれ、復活が困難となる程に心を病んだ時には、第三者的な何かは、もう殆ど役に立たない。
まあ、国の保証制度とか金銭的な役に立つコトが極々稀にあるけども、殆どないといっていいと思う。
個人の利害や行動原理と、法人のそれとでは、成り立ちがあまりに違いすぎて、比べるコト自体が馬鹿馬鹿しいと思うんだよね。
顔が見えない、という当たり前でつまらないコトからして全然違うのだし。
つまりわたしがいいたいのは、組織や仕組みに、個人の希望や理想に沿った成果を求めるなら、それは定量的な何か、だけにしたらいいんじゃないか、ってコトだ。
1番わかりやすいのは、お金かな。
対価だったり、給与、賞与、賠償、とかね。
数値化された客観性が必要だと思う。
元来法人格には感情がないからね。
法人格が個人に求めるのは、数値的成果なのだから、共通言語だといえるんじゃないかな。
そんな対象に、メンタルの弱さを盾にして何を主張したとて無意味なんじゃないか、と思ってしまうんだな、わたしは。
そっち方面の解決手段は、別の何かに求めなさいよ、とも。
わたしの発想としては、雇用は法人格との契約だ。
全てが個人の責任だとはもちろん思わないけど、契約内容の確認の甘さなど、個人の責任についてもちゃんと考えたい。
それって、メンタルがどうというような個性の話題ではなくて、前提、基本、だと思うんだな。
そういう話をすると、サラは体制側の人間なの?という的外れなリアクションが返ってきて仰天したりする。
表面的に捉えるコトしかできない人に、それは表面的な見方だよと伝えて、ああそうだったかもしれないな、という反応が得られた経験は、わたしの人生だと1パーセントくらいだ。
しかしわたしは、必ずそう伝えるコトにしている。
社会に出たら、自分の身を守れるのは自分か近親者だけだからね。
多くの場合で「残念、今回は自分だけ」のケースが圧倒的に多いしね。
いい加減、弱者のフリや被害者の仮面を被って闘おうとするのやめて欲しいんだな、わたしは。
ああ、なんだかとりとめのない文章を書いた気がする。
わたしちょっと疲れ気味。