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18歳ぼんくら処女、将来の事を1ミリも計画しないまま上京す。

駄青春日記~マヌケな地獄の黙示録〜①

短編小説集『完璧じゃない、あたしたち』で注目を集め、現代ビジネスでも時にユーモラスで時に鋭く世の中に問題提起をする記事を寄稿する気鋭の作家・王谷晶さんの「半自伝的」新連載が始まります! 曰く、「だらしない生き方」をしてきたとのことですが、どっこい世知辛い現代ニッポンをサバイブしてきた半生はまるで冒険譚。それでは始まり始まり〜。

留年しなかったのがチョベリ奇跡

鍵のかかるドアとガラスのはまった窓と床と壁がある! これって「部屋」じゃん! やった!

1999年、都内某所のT県人寮の部屋を見た私はまずそう思った。それまで鍵のかかるドアとガラスのはまった窓と床と壁のない家に住んでいたからだ。正確に言うと、建設途中の家に住んでいた。

 

実家の家屋は両親がセルフビルドで建てていたのだが、なんせマジもんのセルフ、建築士の資格もなければ大工でもない一介のおっさんとおばはんが二人でチマチマ建てていたので、着工から20年近く経過してもいっこうに完成せず、ドアや窓や床や壁の一部が無いままダンボールやビニールシートやカセットコンロを駆使して無理やり暮らしていたのだ。

トイレは庭に掘った穴だし、風呂は3日にいっぺんくらい町営温泉に行っていた。スケールのでかい小学生の秘密基地みたいなものを想像してほしい。メチャクチャな話だが、我が家にとってはそれが「ふつう」だった。

だからどんなにボロく薄汚くても、壁がひび割れていても変な臭いがしていても、その寮の六畳一間に二人暮らしの1室は充分に輝いて見えた。密閉された状態の部屋、なんて都会的。食堂がある。水洗トイレがある。お湯の出る風呂場がある。最高にアーバン! アルミサッシと金属の鍵のある部屋に住むのはそれが初めてだった(実家の出入り口は中世の城のように木のカンヌキがかけられていた)。

18歳。私の上京初日はテンション高く始まった。

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都内にある某デザイン専門学校への進学を決めたのは、高校3年の夏休みくらいのことだった。成績、素行共に「お前より下は不登校のやつしかいない」と担任に太鼓判を押され、留年しなかったのがチョベリ奇跡(コギャル世代です)と言われながら3年生になった私が地元を出る選択肢は「名前を漢字で書ければ受かる」という噂のあったその学校に入るよりほかは無いと思った。

両親に進路希望を伝えると、「デザインの学校……に入って、将来何になるの?」としごくまっとうな疑問を投げかけられたが、私は胸を張って「アーティストになる」と答えた。何のアーティストになるかは決めていなかった。酌量の余地のないバカである。この「将来設計」が大きな間違い&勘違いだったのは、約1年後に身にしみて理解することになる。