蛮族の本懐

Ne quid nimisというモットーに抗うための試み。

山本寛と歴史修正主義 ~「どん底」と「新章」のあいだ~

はじめに

 2018年8月17日、アニメ・声優オンラインメディアのAniumに「特集 山本寛 第1回『君たち7人は、どう思っているのか』」と題したインタビュー記事が掲載された。『Wake Up, Girls!』シリーズの生みの親でありながら監督を降板させられ、EXILE(まさに日本!)の憂き目に遭った山本寛にインタビューを敢行し、真偽不明ながら暴露的な内容まで開陳したこの記事は、ワグナー(Wake Up, Girls! ファン)を始めとしたアニメ・声優ファンに大きな反響をもって迎えられた。

anium.jp

 この記事に対する反応は大別して、山本に対する憎悪・憤怒とWake Up, Girls! のメンバーやスタッフの不義理に対する非難に分かれているように思われる。私は「信者」ではないので、盲目的にWake Up, Girls! メンバーの肩を持つ気はないが、程度の差こそあれ、山本という作家に対して否定的な評価を下している一人ではある。否定的といっても、そこにはアンビヴァレントな感情があるのだが(後掲の参考記事を参照)、ともあれ折角の機会なので私の山本に対する態度を明らかにしておこうではないか。そう思ってこのエントリを書いている。

 このエントリは、谷部(id:tani-bu)の同人誌『声ヲタグランプリ』18号(2017年12月刊行)に寄稿した『Wake Up, Girls! 新章』レビューを、ブログ向けに体裁を整えて公開するものである。なお、ハイパーリンクや註釈を付した以外、原文には手を加えていない。このエントリが、皆様の『Wake Up, Girls!』批評、いやアニメ・声優批評の一助となれば幸甚である。

『Wake Up, Girls! 新章』(以下、『新章』)について

 『Beyond the Bottom』(以下、『BtB』)公開から丸2年が過ぎた。劇中でWUGは、『BtB』という標題と同名の楽曲をひっさげて優勝を飾った。しかし、私はあんな曲で天下を取るというシナリオにどうしても納得がいかなかった。だから私にとって、監督や制作陣が誰であれ、『BtB』がWUGの終点であるという既成事実が覆されたのは喜ばしいことだった。それなのに、である。蓋を開けてみれば、『新章』はトンチキな「二次創作ドラマCD」も同然で、腐れ縁を清算するのがいかに難しいかを痛感させられた。『新章』はカーテンコールとしては悪くない。だがそれに甘んじるのは、積み上がった内部留保を切り崩してやりくりするようなものなのではないだろうか。本稿では、『BtB』と『新章』の間で揺れ動く私の気持ちをありのまま綴ることにする。

 2015年12月11日、TOHOシネマズ新宿の舞台挨拶で、山本寛は次のようなことを言った。「カオスとなったこの自由から逃げ出そう」という歌詞の意味を説明するには、政治思想史の講義が5時間ほど必要だ――。この曲は劇中でも、早坂相ではなく社長の旧友から与えられるという特殊な位置づけにある。内容も等身大の「おイモちゃん」の歌ではなく、過剰にヒロイックな安い歌劇である(類例としてBUMP OF CHICKENを挙げたい*1)。だから、この曲が「WUGらしさ」として受容される展開には違和感がある。百歩譲って彼女達の「なりきり」を想定しても、それが彼女達を優勝まで導くとは私には思えなかった。私はこの歌劇には山本の趣味が色濃く反映していると考えた。具体的には、エーリヒ・フロム『自由からの逃走』に対する逆張りに過ぎないのだろうと思料した。たいした深さなどなかろうと構えていただけに、「5時間」発言は私に対する宣戦布告となった。

 とはいえ、『BtB』で一旦幕引きとなった本編にアプローチするのは難しく、私はこの問題を扱うタイミングを逸した。そんな状況に転機が訪れたのは、『BtB』公開から1年半以上が経過した2017年の夏だった。2017年7月12日、サイゾーに「ヒトラー&ナチス映画が最近増えているのはなぜ?――『欅坂46』も巻き込んだナチズムの危険な魅力」と題した、ナチズム研究者・増田好純のインタビュー記事が掲載された*2。7月17日、山本はこの記事に触発されて「ドイツと日本」というエントリをアップし、あろうことか小林よしのり『戦争論』を典拠に持論を展開した*3。山本はナチスと日本を対比した上で、「律儀」な日本は侵略先で収奪を行わなかったと主張し、「バカだねぇ、日本」「戦争する才能ないよ」と述べた。確かに丸山眞男が喝破したように、日本のファシズムは「倫理的」な体裁を取ってはいた*4しかし、「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」といった美辞麗句を盲信して、戦時性暴力を否認する山本の姿勢は極めて反知性的かつ悪質である。それどころか、山本はそうした「倫理」性を「バカ」、即ち非合理と性質決定したのであり、翻って考えればナチスの合理性を肯定したも同然であった。このように小林よしのりを思想家として受け容れる人間の言う「政治思想史」とは何だというのか。そして7月27日、自称「ワグナー」でもある墨東公安委員会(@bokukoui)が山本の「歴史認識の浅薄さ」を批判するに至った(増田も本件に声明を出すべきではないのか)*5。こうして『BtB』の神秘のヴェールは剥落し、極めてお粗末な外縁が明らかになった。2017年の山本の発言を2015年の作品に遡及させるのはフェアではないという反論もあるだろう。しかし、この1年半で山本が「転向」したと考えるよりは、元来このような思考の持ち主だったと考える方が自然であるように、私には思われる。

 ついでに附言しておくと、山本は2017年2月28日に「トラブルシューティング」というエントリ(現在削除済)をアップし、小金井で起きためった刺し事件に触れ、被害者女性の「落ち度」を示唆していた*6。これが被害者への二次加害として批判に晒されると、山本は翌日に「判官びいき」「トラブルシューティング2」というエントリをアップして被害者ヅラをした*7。山本はWUGのメンバーが同じ被害に遭っても、同じことを書くのだろうか。山本の深刻なミソジニーを目の当たりにした後で、TVシリーズのセクハラ描写に害意を感じないなら、そんな「リアリズム」なんてクソ食らえだ、と私は思う。

 つまり私の所見では、山本が「カオスとなったこの自由」から逃走し、絶望の先に見つけたい「ほんとう」など、真摯に考え抜いた末の何かではなく、逆張りと「イキり」から生じた無内容なハッタリに過ぎなかった。そして、本邦の言論空間に蔓延する「両論併記」「是々非々」なる冷笑と否認を思うにつけても、多くの者が欅坂のナチコスを「表現の自由」の範疇に収まるものだと強弁したように、劇中のオタクもWUGのあの歌劇を支持するだろうと素直に思えた。すると、WUGの優勝は不思議ではないことになるが、そうであるが故に『BtB』最終シーンの邪悪さは際立つのだ。そんな山本の趣味に付き合わされたのが、他ならぬWUGの7人であるということに、改めて思いを馳せなければならない。

 このように、WUGというコンテンツは現在進行形で前監督に犯され続けている(「声優の矛」との「最終戦争」宣言は10月6日に出ている*8)。さらに悪い事に、『新章』は前作の邪悪さに目を瞑って切断処理を行う選択肢を取った。もはやWUGというコンテンツは二重に犯されているのである。過去の悪事を否認する所作がいまの悪事となり、過去への負い目といまにおける疎外に二重に苛まれるという、本邦の現状と似た状況にWUGというコンテンツが置かれているのは、歴史修正主義者たる山本の呪縛のようでおぞましい。このおぞましい寄生木によって延命されるWUGと生命を与えられたランガ(林鼓子、森嶋優花、厚木那奈美)を、生身の彼女達への興味関心なしに好きになるのは正直言って難しいだろう。定式化するならば、「好きなのはアニメではなく女だ、しかも愛玩対象としての女だ」ということに過ぎないのである。従って『新章』を楽しむためには、邪悪さを脱色するという邪悪さを楽しむ嫌な大人になるのが一番手っ取り早いということになる。これから「大人になるってどういうこと」という問いには、『新章』を見てください、と返せばいいのである。

 さて、東京大学の2013年度卒業式総長告辞で、濱田純一はフロムを引用して「逃げない」というメッセージを卒業生に送った*9。私は全てのワグナーが「重荷」を背負う「市民的エリート」であるべきだ、とまで贅沢は言わない。ただ、もし貴方が『新章』に乗り切れない気持ちを少しでも感じているのなら、WUGというコンテンツから「逃げない」で欲しいと思う。『新章』を無理筋で擁護するのも、前作を過度に称揚する(『新章』を過度に貶す)のも、等しく「逃げ」だ。願望ベースの発言にはなるが、「逃げない」オタクの存在は必ずや彼女達の力になるはずだ。ファン活動を続けることが「政治思想史」の実践的学習になるWUGというコンテンツに、「5時間」と言わず何時間でも向き合ってみるのはいかがだろうか。一人の永野愛理のオタクより。

おわりに

 山本寛がいなければ『Wake Up, Girls!』が世に問われることはなかった。この残酷な事実が時にワグナーを苦しめる。ある者は「ヤマカン」を神格化して『新章』および板垣伸をこきおろし、またある者は山本の人格のみを拒絶して物語の中に閉じこもる。いいとこ取りをする、切断処理をする、『めだかボックス』の球磨川禊よろしく「なかったことにする」。こうした都合のいいファン心理は、山本の歴史修正主義と何が違うというのだろうか。山本を嫌う者が山本と同じ陥穽にはまるというのは皮肉なものである。「ええ歳こいてアニメ観てるような人間は障害者」という発言に憤る人間が、歴史修正主義の病魔に冒されている、ということは本当にないだろうか*10。胸に手を当てて自問してもらいたい。

 我々は山本寛をなかったことにはできない。このことを肝に銘じ、山本から「逃げない」批判的なワグナーが一人でも増えることを願ってやまない。かく言う私も、『薄暮』が公開された暁には観に行くつもりである。『薄暮』が完成しないなどという「不戦勝」に終わらぬことを祈りつつ、筆を擱くことにする。

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*1:インディーズ時代2枚目のアルバムである『THE LIVING DEAD』はその典型例であろう。

*2:http://www.cyzo.com/2017/07/post_33544_entry.htmlを参照。

*3: https://lineblog.me/yamamotoyutaka/archives/13144663.htmlを参照。

*4:丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(1946年5月)。丸山眞男(古矢旬編)『超国家主義の論理と心理 他八篇』岩波文庫、2015年が手に入れやすい。

*5:墨東公安委員会による批判については、https://twitter.com/bokukoui/status/890452808939356160を起点とする一連のツイートを参照。なお、墨東公安委員会は2017年10月にも山本寛の発言に言及している。例えば、https://twitter.com/bokukoui/status/917004645163261952を参照。

*6:当該エントリは現在削除済だが、当時の「炎上」についてはニュースサイトに記録が残っている。https://www.excite.co.jp/News/smadan/E1488352817131/を参照。

*7:前者についてはhttps://lineblog.me/yamamotoyutaka/archives/13119001.htmlを参照。後者についてはhttps://lineblog.me/yamamotoyutaka/archives/13119061.htmlを参照。

*8:https://togetter.com/li/1158262を参照。

*9:https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message25_10.htmlを参照。

*10:「障害者」発言については、https://lineblog.me/yamamotoyutaka/archives/13155552.htmlを参照。