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差別とは何か?「社会の役に立たない人間は無価値」と信じる人たちへ

自分の「差別的部分」を直視できるか

開けられたパンドラの箱

死者19人、負傷者27人という犠牲者を出した神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園事件」から2年が経過した今年7月。植松聖被告の手記などを掲載した書籍『開けられたパンドラの箱』が出版された。

事件が急速に忘れ去られていくなかで、このまま風化させてよいのか、社会は何か変わったのだろうかという問題意識を込めての発刊だった。しかし、その一方で厳しい批判もあった。

たとえば、ある大学教授が出版中止を求めて、2千人の署名を集めて出版社に抗議したという。

「間違った考えが広まるのではないか」という障害者の家族などによる懸念や、出版によって本人に何らかの社会的評価や実績を与えてしまうのではないかという疑念が、その批判の根底にある。

同様の批判は、これまでも犯罪加害者が手記を発表するたびに繰り返されてきた。たとえば、英国人英会話講師殺人事件の市橋達也や、神戸連続児童殺傷事件の「少年A」による手記の出版への批判は記憶に新しいところである。

しかし、本書の出版差し止めをめぐる議論は、まさにこの事件の根底にある差別の問題にも通底する実に深刻な問題をはらんでいるようにも思える。

 

変わらない植松被告の主張

まず、本書を読んで感じたのは、植松被告が一貫してその主張を変えていないどころか、それがますます強固になっていることである。その異様さや突飛さには病的なものも感じさせるが、それについてはまた機会があれば述べることとしたい。

被告の主張のなかで一貫しているのは、「自分が何者であるかもわからず、意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので、殺害してもよい」ということである。これは、犯行時からまったくぶれていない。

彼はこのような人々のことを「心失者」という造語で呼び、事件の舞台となったやまゆり園で彼自身が職員として働くなかで、このような「思想」を持つに至ったという。

手記のなかで、彼は具体的なケースとして、「何もできない者、歩きながら排尿・排便を漏す者、穴に指をつっこみ糞で遊ぶ者。奇声をあげて走りまわる者、いきなり暴れ出す者、自分を殴りつけて両目を潰してしまった者」(原文ママ)などと列挙し、「彼らが不幸の元である確信をもつことができました」と主張する。

このような醜悪な主張は、当然ながらまったく許容することはできないが、その一方で、私自身の心のなかにも、一抹の不安がよぎるのを感じないではいられなかった。