作家・歴史家・大学名誉教授
芸術的側面からロシア革命を考えたときに、マルク・シャガールという名前はすぐに浮かばないのではないだろうか。1919年、シャガールは故郷ビテプスクに学校を設立し、人々が芸術と触れ合う場を作ることに情熱を注いでいたが、次第に前衛芸術が目指すものに違和感を感じるようになる。愛、夢、幻想といったイメージを描き出した画家という一面がある一方、ユダヤ人という出自や、裏切り、戦争、革命への落胆など、シャガールの人生は決して平穏な時期ばかりではなかった。本稿ではシャガールと、ロシア前衛芸術を代表するマレーヴィチとリシツキーとの、ビテプスク時代の関係性に焦点を当てる。[日本語版編集部]
(仏語版2018年7月号より)
1918年秋のある朝、モスクワ。一人の男が教育人民委員会にやってきた。30歳くらいで、腕に大きな包みを抱えている。新しい首都から500キロメートル離れた(列車に乗って10時間以上かかる)ベラルーシの街、ビテプスクからやってきたのだと言う。彼の名は、マルク・シャガール。画家である。彼は人民委員のアナトリー・ルナチャルスキーと直接話したいと望んでいた。1914年以前に、シャガールは彼とパリで知り合ったのだった。シャガールが目論んでいたのは、彼に最近の作品から選び抜いたものを見せることだった。
シャガールは読み書きができない貧しいユダヤ人の家の出で、9人きょうだいの長兄として1887年にビテプスク近郊で生まれた。 デッサンのコースを受講したあとサンクトペテルブルクの美術学校に入学し、それからエリザベータ・ズヴァンセヴァによって創設された美術学校のレオン・バクストのアトリエに通った。1910年1月、バレエ・リュスの舞台美術家だったバクストはオペラを演出するためにパリに赴いた。奨学金を手に入れて、シャガールも彼について行った。 モンパルナスの近くのラ・リューシュ(蜂の巣)と呼ばれる芸術家の集団アトリエに滞在しながら、アメディオ・モディリアーニからパブロ・ピカソまで、彼はその時代のあらゆる前衛芸術と頻繁に接触した。
1914年6月当時、ベルリンのシュトルム画廊での作品展示の際に、シャガールはビテプスクまで足を延ばすことにした。まだ年端のいかない娘でしかなかった頃にシャガールが恋に落ちてしまった裕福な宝石商の娘、ベラ・ローゼンフェルドと結婚しようと考えたのだ。
そして突然、戦争が勃発する。シャガールは1915年7月25日に結婚したが、フランスに再び戻ることはできなかった。彼は、ペトログラード(1914年から1924年までサンクトペテルブルクはこう呼ばれていた)の軍の事務所に動員された。
したがって、革命勢力がペトログラードを制圧したとき、シャガールは妻とともにそこに住んでいた。彼はその街で多くの自画像やユダヤ人の日常生活を描いたが、結果は満足いくものではなく、1918年3月に夫婦はビテプスクに戻った。シャガールは昼も夜も休むことなく仕事に没頭することを強く望んだのだ(1)。
しかし、一人の画家がそこで絵を描くだけで生計を立てていけると考えるなんて、まともな事だろうか? ……それにこだわることは失敗につながる危険をはらんでいた。 美術教育において進行中の数々の改革を利用し、それに身を投じ、モスクワやペトログラードですでに現実のものになっている変革をビテプスクで押し進めるのでなければ。
ルナチャルスキーは、交渉するにはうってつけの人物だった。シャガールはレーニンの政策に賛成の立場だった。彼の心の底では古くからのユダヤ人に対する集団的迫害(ポグロム)の記憶が絶えずこだまし、ユダヤ人排斥の罵声が反響していた。ユダヤ人に正当なロシアの市民権を認めてくれた革命を、どうして彼が歓迎せずにいられようか?
モスクワで尋ねた相手は「愛想がよくてセクト主義に無頓着な人(2)」という評判だった。シャガールが持っていった作品の前でルナチャルスキーは興奮し、命令3051号がただちに発表された。「画家の同志マルク・シャガールはビテプスク地域の美術人民委員に指名された。あらゆる革命勢力には、この決定により同志シャガールへの全面的な支援を保証するよう要請する」
こうしてシャガールは、初めての革命記念日の祭典のリーダーに抜擢された。ビテプスクの7つの凱旋門の建設を指揮し、通りの壁に450枚の巨大な革命ポスターを貼るよう指示した。彼の下書きをもとに作られた、色鮮やかな350ののぼりが風になびく。通りを歩く人々は、赤い馬、緑の雄牛、白い雲の上の青い鳥、赤い旗を振りかざす騎士に、突然取り囲まれた。
それに引き続き1918年12月には、シャガールはあらゆる造形芸術家に自分と一緒に制作活動を行うことを呼びかける宣言(3)に署名した。少し前まで銀行家の持ち物だったビテプスクの個人の屋敷に、美術教育の初の高等教育学校が設立されたことを宣言した。この学校は、モスクワやペトログラードの自由アトリエと同じ原理に則っていた。入学に際してディプロマは必要なかったが、あるプログラムが課された。それは、人々の実生活に即した創作上の自発性を促すことだった。
500人近くにのぼる多くの学生がすぐさま登録した。教員の中には何人もの実験的前衛芸術家がいたが、1919年夏、学校のポストが空いていたところへ別の前衛芸術家、ドイツのダルムシュタット工科大学で学位を取得した建築家のラーザリ(・エリエゼル)・リシツキーがやってきた。ロシアの大学におけるユダヤ人の入学者数制限のせいで、不本意ながら彼はドイツの大学に登録しなければならなかったのだった。彼は自分自身を「エル(・リシツキー)」と名乗り、1915年に建築の学位を手に入れていた。
リシツキーはシャガールの作品を潤している自由な想像力を称賛した。しかし、彼はシャガールと対極の、つまり具象画家ではない、文通相手の画家の論考にもまた魅了されていた。その相手は、カジミール・マレーヴィチである。一団の仲間に取り巻かれたリーダーだ。マレーヴィチは、新しい思考「シュプレマティズム」[訳注1]をゼロから起こし、強く主張していた。そこでは、あらゆる具体的な形態表現が消し去られ、絵画の量感、自由で「純粋な形態」が重視された。シュプレマティズム万歳!
1919年10月、リシツキーはモスクワのルナチャルスキーを訪ねるよう指示を受けた。ビテプスクの学校は素材を必要としていたのだ。シャガールの了解を得て、彼はマレーヴィチと接触した。今度はリシツキーが、マレーヴィチにビテプスクでのポストを引き受けるよう説得するのに成功した。シャガールは、断固として自分が始めた学校の校長としての立場を守ろうとした。しかしすぐにマレーヴィチと彼の間で喧嘩が始まる。彼らの確執は教育内容に関わるものだった。マレーヴィチにとって10月革命の大砲の轟きというのは、見習い制度を打ち壊し、あらゆる「アカデミーのお飾り」(4)である人物を「一掃する」機会であるべきだった。
伝統に固執したシャガールは、最終的に退任することになった(5)。1919年11月17日、彼はモスクワの第2自由アトリエの責任者のオシップ・ブリークに「絵画のクラス」を任せてほしいという依頼の手紙を送った。革命の目的のために、自分の「力」と「能力」相応の貢献ができるとシャガールは言った。
その申し出は無駄に終わった。モスクワで彼は国立イディッシュ劇場の装飾家のような、一時的な仕事しか見つけられなかった。彼はもはや芸術を一変させるような革命の中には組み入れられなかったのだ。彼は、当時支配的であった「生産芸術」運動と、自分自身とのズレを感じていた。
1918年から1919年のロシア革命は、世界がひっくり返ったことを意味した。地面に広がる赤旗が示すように、この地で革命は勝利した。レーニンはテーブルの上で片手で逆立ちをし、権力をその手に握っている。ロシアの伝統的な旗が、彼の脚の上に引き上げられ、そのことを示している。全てがさかさまになっているのだ。
これは太鼓とトランペットのお祭りだ。しかし兵士たちが頰に銃を当てて見張っている。レーニンがバランスを保とうとしているテーブルの端で、ラビが椅子に座って思索にふけっている。ユダヤ主義、ユダヤ人にこれから一体何が起こるのか?
絵の右下でシャガール一家もまた、ベッドに横たわりながら自問しているように見える。歴史的な数ヶ月間の生活のエピソード。皮肉はもちろん、批判は全く見られない。ただ、何かが起こる前の、不安な期待感があった。
やがて孤児院でデッサンを教えることぐらいしかすることがなくなり、まだ時間のあるうちにロシアを離れるということのほか、シャガールには考えが浮かばなかった。彼は新たな展示を企画すべく、1922年の夏の間に妻のベラと、1916年に生まれた娘のイダとともにベルリンにたどり着いた。1923年9月1日、一家はパリ行きの汽車に乗った。
死の時まで、シャガールは絶えずこう繰り返していた。「私が移住したのは政治的理由からではなく、芸術的理由からなのです……」
(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年7月号より)
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