学生時代、友人たちとの飲み会後、会計をする段になって所持金の不足に気づき、こうお願いした経験はないだろうか。
「明日には必ず返すので、1000円ほど貸してくれないか」
学生のことだから、皆が皆、お金を持っていたわけではない。しかし、自宅から通学していた学生や、アルバイト代が入ったばかりで少し手持ちに余裕のある知り合いは何人かいたわけで、そんな彼らから1000円を借りて精算をすませ、次の日の授業やサークル活動などの際に返済するという経験――。
このようなやりとりは、おそらくだれしも経験したり、あるいは少なくとも、見聞きしたことはあるだろう。貸してくれる友だちも、「きちんと返してね」との一言でも付け加えて、1000円を貸してくれていたに相違ない。
以上のような、若い頃にはよくあったかもしれないほほえましい逸話も、次に述べるような一言を添えられたとすれば、がらりと印象が変わってくる。それは貸してくれた友人が、次のような台詞を言った場合である。
「1000円は貸すよ。そのかわり、借用書を書いてくれないか」
こう言われたら、多くの人は多少なりともぎくりとするだろう。だが、ではなぜ私たちは、このような違和感を覚えてしまうのだろうか。
この違和感の原因としては、大きく言って二つ、原因が考えられるだろう。
一つは、信頼・信用の問題である。気心の知れた友人同士なのだから、口頭での約束でも信用は十分のはずである。にもかかわらず一筆を求められたとすると、信用されていないのではないかと思ってしまう。それで、「友だちなのに!」とぎくりとなってしまうのだ。
そしてもう一つが、1000円という比較的少額の取引だったことだろう。「1000円程度で借用書を書かせるなんて!」という感覚が、借りる側に存在しているからである。
ではどの程度の金額であれば借用書を書くのが妥当だと考えられるだろうか。1万円? 10万円? 自分が貸す側に立った場合で考えれば、10万円だとさすがに一筆がほしい。そして100万円を貸す場合があったとすれば、絶対に借用書を書くことを求めるだろう。
そしてさらに極端に1000万円を借りるとなれば、借用書を書くことをだれしもが納得するのではないだろうか。
話をもう少しふくらませてみよう。
ではだれが1000万円もの額を貸してくれるのだろうか。
学生時代に証文なしで1000円を貸してくれた友人たちもこのような申し出をうけたとすれば、おそらく全員が一笑に付すに違いない。また親戚筋に少し羽振りのよい叔父さんなりがいたとしても、100万円ならばまだしも、1000万円は無理だろう。
この額面を貸してくれるのは、現代でいえば銀行、すなわち巨額の貸し付けに耐えられるだけの資金のストックを有しているプロの金融業者だけである。
このように、お金を借りるといっても、額面の多寡によって契約のあり方や、貸してくれる相手が相当異なるはずである。
このことは、今から600年以上前の中世と呼ばれる社会でも、本質的に変わりはなかった。数百年もの昔なのだから、経済が今とはかたちが異なっていたことも確かだが、だからといって、決してプリミティヴなものではなかったのだ。
1000万円規模の資金を融通してくれる銀行のようなプロ組織も、もちろん当時も存在していたし、現代とは異なるかたちでの独自の発達もとげていた。このような中世の金融・商業・流通について論じていくのが、本書のテーマの一つである。