ゲイである自分に悩み、消えた天才歌手・清貴「音楽の力はアーティスト個人のものではない」

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 2000年にデビューし、『The Only One』が40万枚の大ヒットを記録。“男性版宇多田ヒカル”と期待された清貴は、その後ゲイである自分に悩み、目指すべき音楽を失って姿を消した。

 そして、自分の道を求めて渡ったアメリカから帰国した2015年、カミングアウトによって第二の音楽人生を歩み始める。

◆一人で歌うよりも、“みんなで歌う”という音楽の在り方

――カミングアウト後の反響はどんなものでしたか?

清貴:やはり、僕のことを”男性”として見ていたファンの方からは、「ショックを受けた」と言われたりもしました。でもそれ以上に、「清貴君の音楽が好きだから何も変わらない」という方がたくさんいて救われました。それから、同じように社会的に生きづらさを抱えるLGBTや障がいを持った方々から、暖かい声援をいただくようになりました。

 そして、それ以上に大きな変化は、自分が変わったことです。10代でデビューして20代の頃は、暗くてどこかに陰があると言われていました。でも、カミングアウトした瞬間に、それまで自分を取り囲んでいた壁がなくなった気がしたんです。自分を素直に表現することで、自分自身を好きになって、ありのままを受け入れられるようになった。だからこそ、「自分のためだけでなく、もっと誰かのために歌いたい」と思えるようになりました。

――正直、インタビューする前まで、こんな明るい方だとは思いませんでした。

清貴:昔のイメージとはまったく違うと思います(笑)。そして同時に、音楽に対する向き合い方も180度変わりました。10代、20代の頃は、自分一人で歌うこと、自分の内省的な部分を表現することばかりにとらわれていました。けれど音楽の力って、そうしたアーティスティックな側面だけではないと思うんです。アメリカでゴスペルを歌うことで培った、誰かと一緒に歌って音楽を奏でる素晴らしさ。歌うことで誰かと繋がり、その人が歌に乗せて自分を表現する勇気を持てば、希望の輪はどんどん広がっていくはずです。

 そのために『SING FOR JOY』というプロジェクトを始めました。東京、仙台、福岡、名古屋で、一般人の方々の参加を募ってゴスペルクワイア(合唱隊)を結成したんです。子供から大人まで、歌が好きで来る方もいれば、僕の音楽のファンの方もいらっしゃいます。指導は僕がするのですが、自分をオープンにしていることで、一人の人間同士として純粋に歌うことで繋がっていられる。いずれは武道館で、メンバーみんなで歌えたら最高ですね。そして、2020年の東京パラリンピックの開会式でも、会場一体となって歌声を響かせたい。そんな夢を今、追いかけています。
――ヒットを飛ばして、音楽番組を駆け回っていた頃に戻りたいとは思いませんか?

清貴:僕にとって、音楽人生の中で今が一番充実しているんです。戻りたいとはまったく思いません。僕、自己紹介する機会がある時には、必ず歌うんです。僕にとって歌は「自分はこういう人間です」と言葉よりも素直に、ストレートに伝えることができるコミュニケーションの手段。今、多くの人がかつての僕と同じように、本当の自分を伝えることができなくて悩んでいるのだと思います。

 そんな人たちに、「もっと素直になっていいんだよ」とそっと背中を押してあげたい。上手に歌えなくても、テクニックなんかなくてもいいんです。歌えば自然と「自分を伝えたい!」という思いが湧き上がってくる。だから、アーティスト・清貴としてはみんなが歌える、100年歌い継がれるような曲を書くことが最終目標です。そして、歌手・清貴としては誰かの背中を押すことで、その歌声の輪を広げていきたい。自分一人が歌うんじゃない。みんなで歌うことで、誰かの歌声が別の誰かを幸せにする。僕のルーツであるゴスペルだってそうです。人気のアーティストがいて、ヒット曲があってという形だけじゃない。もっと根源的な音楽の素晴らしい価値を、これからも伝えて続けていきたいですね。〈取材・文/日刊SPA!取材班〉

【清貴】
高校在学中に送ったデモテープがきっかけとなり、16歳で東芝EMIと契約。17歳でデビューすると、3rdシングル『The Only One』が40万枚の大ヒットを記録。全国有線放送大賞新人賞受賞。その後、渡米し、全米最大のゴスペルイベントで4万人のオーディションを勝ち抜き、初の日本人クワイヤのソリストとして出場し優勝。2015年に帰国後、LGBTであることをカミングアウト。リオパラリンピックや平昌パラリンピックのフジ系列テーマソングを手掛ける。4thアルバム『あなたがいてくれたから』が絶賛発売中