昨年から今年にかけて、日本では組織内で何らかの不祥事が起きたとき、誰がどのように責任を取るのかという問題が注目を集めた。
そのひとつが、いわゆる森友学園問題である。これは、学校法人森友学園が小学校新設に際し、不当に安い価格で国有地を手に入れたことに端を発する。政界を巻き込む大スキャンダルとなり、最終的に問題に関わっていた財務省側の局長クラスの幹部らが懲戒処分を受けた。
もうひとつ、私たちの記憶に新しいのが、日本大学アメフト部悪質タックル問題である。今年5月6日に開かれたアメフトの試合で、日大選手が故意に相手選手にタックルし負傷させた。その後、日大選手にタックルするよう命じた監督とコーチからが責任を取って辞任した。
しかし、どちらの問題も責任者の処罰だけで終わらせてよいのかという声が今でも根強い。
組織の誰かが不祥事の責任を取って終幕を図るというやり方は、今に始まった話ではない。過去の事例をひとつあげる。
筆者は、今年7月に『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)を上梓した。そのなかでは、主人公である陸軍軍人の牟田口廉也中将と、彼の上司にあたる河辺正三(まさかず)大将の関係に着目した。
このふたりは、アジア太平洋戦争期の日本陸軍のなかでも、「最悪のコンビ」として一部で評されている。
牟田口廉也は、1888年佐賀県に生まれた。陸軍大学を卒業すると、陸軍参謀本部に入り、その後、近衛歩兵連隊長、陸軍省軍務局員、参謀本部庶務課長などを務め、陸軍エリート将校として順調に出世の階段を登った。
しかし、1936年に東京で陸軍若手将校の軍事クーデターである二・二六事件が起きると、牟田口は、クーデターの支持派とみなされ、陸軍中央から中国北京に駐屯していた前線部隊の連隊長に「左遷」された。
その前線部隊で牟田口の上官となったのが河辺正三だった。
河辺は、1886年富山県生まれ。牟田口の上官とはいえ、ふたりの年の差はわずか2歳であった。河辺は陸大卒業後、参謀本部や連隊長職を歴任し、牟田口と同じ1936年、支那駐屯軍北京旅団長に任じられた。
牟田口は強気で勇猛果敢だったのに対し、河辺は大人しく学究肌と、対照的な性格だった。実戦経験のなかった牟田口は、河辺から連隊長としてのイロハを学び、河辺も慕ってくる牟田口に目をかけた。
ふたりがコンビとなってからほどなくの1937年7月、北京近郊で盧溝橋事件が発生した。
日中戦争の火蓋を切ったこの戦いで、牟田口は北京を留守にしていた河辺に代わって、事件処理の陣頭指揮をとった。しかし、事件の穏便な解決を望んでいた河辺に対し、牟田口は実力行使で臨み、事態を悪化させた。
本来、上官であるなら、部下が意に沿わない行動をしたら叱責するなどして命令に従わせればよい。
しかし、牟田口のもとに現れた河辺は、叱責することなく「一言も発さない、一言も発さないで口を結んで、「余計なことをした」と言わんばかりの表情」をしただけだった。それはなぜか。