『異国の丘』とソ連・日本共産党(第2部)
シベリア抑留問題から見た逆説の戦後日本共産党史
1945~1955年六全協
(宮地作成)
(注)、ファイル分量が大きくなったので、2分割した。CG(コンピューター・グラフィックス)、および、3DCGは、ファイル(1)(2)とも、すべて、長男宮地徹作成のものである。
〔目次〕
1、ミュージカル『異国の丘』 (別ファイル、1~5)
2、シベリア抑留の経過と性格 (表1、2)
3、“未必の故意”による「シベリア極寒(マローズ)殺人」 (表3)
4、民主運動とソ連共産党 (表4)
5、舞鶴「ダモイ(帰国)」とソ連による日本共産党支援方針の強化
(第2部)、シベリア抑留めぐる日本共産党問題
8、徳田球一「要請(期待)」帰国妨害問題と管季治の証言・自殺問題
10、野坂参三「NKVDスパイ」事実と「民主化運動提案」事実 (大幅加筆・改定)
11、抑留期間中、ソ連から日本共産党への108億円以上の資金援助問題(表5、6、7)
12、シベリア抑留により具体的恩恵2つを受けた唯一の革新政党
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
シベリア抑留関係
木内信夫 『旧ソ連抑留画集』
ソ連抑留記『青春の足跡』
佐々木芳勝『流転の旅路 -シベリア抑留記』
川越史郎 『抑留生活のあと、日本を捨て、家を捨ててソ連に残ったが…』
宮地幸子 『「異国の丘」が強く心に響く』
ステファン・コスティク『ウクライナ人捕虜から見た日本人捕虜』
逆説の戦後日本共産党史関係
『逆説の戦後日本共産党史』ファイル多数
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
(第2部)、シベリア抑留めぐる日本共産党問題
6、当時の日ソ両党関係の実態 1945年~1955年六全協
シベリア抑留に関する日本共産党問題は、これらソ連機密資料発掘・暴露によって、ソ連崩壊後に再照射すべきテーマがいくつか出てきた。まず、シベリア抑留期間・11年間における日ソ両党の関係実態を確認する。
スターリンは、東欧諸国と北朝鮮をソ連軍戦車で“解放”するとともに、「モスクワ帰り」を多数送り込んで、それらをソ連衛星国化した。その背景を、アンジェイ・ワイダが、ソ連「制限主権論」支配下にもかかわらず、映画『灰とダイヤモンド』で暗示した。その中で、パルチザン闘争により「自力解放」を成し遂げたユーゴスラビア共産党は、モスクワのかいらいになることを拒否していた。
スターリン・ソ連共産党は、すべての東欧社会主義国のソ連化を完成させるために、2つの手段を強行した。(1)コミンフォルムを私物化してのユーゴスラビア共産党非難キャンペーンと、(2)ハンガリーの「ライク裁判」やチェコでのでっち上げ裁判のいっせい展開だった。1948年6月28日、コミンフォルムが「ユーゴスラビア共産党除名決議」をした。
その国際共産主義運動にたいする日本共産党の対応、および、日ソ両党の関係はどうだったのか。
〔対応・関係1〕、日本共産党は、1948年8月26日、「ユーゴスラビア共産党非難を支持する決議」をして、スターリンに直ちに追従した(『日本共産党の七10年・上』P.195)。
〔対応・関係2〕、日本共産党は、1948年11月と1949年7月の2回にわたって、スターリン著『レーニン主義の基礎』、スターリン監修『ソ連共産党小史』を、党員の「必読文献の中心」に位置づけた(同ページ)。徳田球一・宮本顕治・野坂参三らとも、完璧なスターリン崇拝・隷従型マルクス主義者だった。もっとも、野坂参三は、スターリン讃美を超えて、直接、「NKVDスパイ」になっていた。トップの一人が、1945年11月11日以来、100歳になるまで、「ソ連共産党のスパイ」(『同』P.160)でありつづけたという日本共産党とは、何だったのか。
〔対応・関係3〕、1950年1月6日の『日本共産党にたいするコミンフォルム批判』は、スターリンの直接執筆であったことを、ソ連機密資料が証明した。日本共産党もその事実を認めた。宮本顕治は、なぜ「国際派」と言われるのか。それは、彼が、スターリン執筆の批判内容に即座に全面的に追従=国際的隷従をしたからである。
〔対応・関係4〕、1951年10月16日、「五全協」が決定し、武装闘争の基本方針となった『51年綱領』の内容も、ソ連・中国共産党の指導によるものだったことを、現日本共産党は認めている。その前の1951年4月、スターリン・中国共産党は、宮本顕治らの「統一会議」を分派と断定し、批判した。宮本顕治は、スターリンから直接、名指しで批判されると瞬時に腰くだけとなり、「自己批判書」を書き、『51年綱領』の武装闘争路線を承認して、志田重男の主流派に復党した。それだけでなく、東大細胞の学生党員らが武装闘争に動員されることを黙認した。
「武装闘争は、分裂した一方がやったことで、宮本顕治ら現在の共産党は、なんらそれに関知していない」という宮本顕治・不破哲三らの弁明は、戦後日本共産党史上の最大のウソ・詭弁=党史偽造歪曲犯罪の一つである。この事実については、『検証・内ゲバ』第5章(社会批評社、2001年)だけでなく、安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』(文春文庫、1995年)、増山太助『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社、2000年)が証言している。当時の共産党本部細胞長であった増山太助は、私宛の手紙で、宮本「自己批判書」の存在は事実であり、それを捜しているが、まだ不明、としている。
〔対応・関係5〕、スターリンは、1951年11月23日の『日本共産党の当面の要求』にたいし、直接改定の手を加えた。石堂清倫が、『コミンフォルム批判・再考』ファイルで、それを完璧に論証している。
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリンによる直接改定
〔対応・関係6〕、1955年7月27日から29日の「六全協」の開催・運営・体制づくり・人事なども、すべてソ連・中国共産党の直接指令に基づくものであったことは、現在の日本共産党も認めている(『日本共産党の七10年・上』第5章、P.209~258)。
日本共産党は、戦前のコミンテルン時代、「コミンテルン日本支部」という、世界単一革命政党の1支部であり、コミンテルンを事実上私物化していたソ連共産党にたいし、上意下達の鉄の規律=民主主義的中央集権制下での従属関係にあった。
シベリア抑留は、1945年から最長11年間の1956年までの期間である。上記〔対応・関係1~6〕のように、その間における日本共産党は、スターリン・ソ連共産党にたいし、事実上「隷従状態」にあった。シベリア抑留期間と重なる1945年日本共産党再建から1955年「六全協」までの10年間、日本共産党は、「自主独立」どころか、「対等平等」でもなく、ソ連共産党にたいする「思想的・組織的、および財政的な隷従的上下関係」にあったのが、歴史の真実である。財政的従属=資金援助については、下記で検討する。
ソ連崩壊後、シベリア抑留問題をめぐって、上記引用のように、ソ連側機密資料を活用したロシア人研究者3人と、マッカーサー文書を調べたアメリカ人研究者1人が、4冊の文献を出版した。それら新しい文献内容により、従来とは別の視点から再照射すべき「日本共産党問題」が、いくつか浮上してきた。それらは、日本共産党側も再総括・公表すべきテーマでもある。しかし、日本共産党や左翼知識人たちは、そのタブーを打ち破って、公表に応ずることなどしないであろうから、このファイルで、以下6つの日本共産党問題をリストアップし、分析する。
7、代々木、他での集団入党と多額の共産党カンパ問題
〔小目次〕
舞鶴に上陸してから、まず、引揚援護局の収容寮内で「騒ぎ」が起きた。若槻『シベリア捕虜収容所』が、その一覧表と件数を載せている(P.246)。共産党に関する「騒ぎ」データでは、(1)全員(集団)入党工作6件、(2)日本共産党資金カンパ3件、(3)共産党への駅前仮入党運動2件、(4)日本共産党舞鶴地方委員会との秘密会談1件などである。援護局に提出された「決議要求書」では、さらに、(5)「アカハタ記者を援護局寮内に入れよ」、(6)「引揚列車を東京の代々木(日本共産党本部所在地)まわりとすること」も出された。
日本共産党は、舞鶴に「共産党事務所」を設け、「駅前仮入党受付」をするとともに、連日機関紙「アカハタ」で熱烈歓迎、入党よびかけのキャンペーンをした。それだけでなく、1949年6月、日本共産党中央委員会書記局は各地方組織あてに「帰国兵の歓迎指令書」(マッカーサー文書・記録グループ5)を出した。アメリカ人研究者ウィリアム・ニンモが『検証・シベリア抑留』(P.186)で、その内容を載せている。
1、すべての駅で帰国者を歓迎する。2、列車が通過するさいには赤旗を振る。3、労働組合その他の組織を動員する。4、茶菓の接待をする。5、「アカハタ」新聞を配る。6、引き揚げ者一人一人に接触して本人が望むなら入党させる。7、引き揚げ者の求職、住宅捜しの援助を積極的に行う。8、引き揚げ者への学校教育の準備をする。
引き揚げ兵たちは彼らの降りるあらゆる駅にJCP党員が出迎えに来ているのを見た。党員たちは東京の品川駅で彼らに向かい「あなた方が長い間シベリアに抑留されていたのは日本政府が引き揚げ促進のために何もしなかったからだ。あなた方が祖国へ帰
れたのは、ほかならぬわれわれ共産党員のおかげなのである」と吹聴した。
東京で下車した引揚者は、公会堂を2日間占拠し、政府官庁・工場前で渦巻きデモを行ない、ソ連大使館へ行き、ソ同盟の温情ある抑留に感謝した。そして、一部は、家にも帰らず、代々木に行って集団入党した。入党者はいったい何人いたのか。日本共産党が「党史資料室」から、その秘密データを公開するはずもないので、やや機械的な推計をする。
1949年の「ナホトカ~舞鶴」間44隻の帰還乗船人員総数の内、非日本人464人を差し引いた日本人は、86938人だった(『厚生省引揚援護局』資料)。「赤旗梯団」の数について、御田著書は、33隻としている。ただ、若槻『シベリア捕虜収容所』は、33隻でなく、31隻としている(P.245)。ここでは、33隻で計算する。44隻86938人×「赤旗梯団」33隻・75%=65203人になる。そのうち20%が一時入党したとすると、65203人×20%=13040人入党。30%入党とすると、19560人が日本共産党員になった。
ただし、その後も、党員として活動を続けた歩止りが低かったようである。アクチブの話、マスコミ説では、歩止りが悪く、10%程度ともされている。10%としても、6520人が日本共産党員として継続活動した。これらは、まさに、ソ連共産党とラーゲリ政治部がアクチブ・専従者に指令して組織した日本共産党入党運動のおかげである。ただ、彼らの体質は、「日本共産党員」である前に、「ソ連共産党とソ同盟の絶対的讃美者であり、スターリン崇拝・隷従者」だった。
ナホトカでの「ダモイ」民主主義運動、舞鶴での行動を通じて、65203人全員が、表向きの日本共産党支持者になっていた。厚生省援護局は、舞鶴港で、帰還者全員に「応急支援金」として一人一律1000円を支給した(『援護五10年史』P.56)。「帰郷一時金」として、帰郷距離に応じて、1000円から3000円を支給したのは、1950年1月からである。(『援護五10年史』P.57)。33隻のアクチブ・専従者は、全員に「日本共産党入党」を呼びかけた。
それだけでなく、「共産党へのカンパ」を半ば強要した。ある引揚者は次のように証言している。『東京で100円、代々木へのカンパとしてとられ、岡山でも85円とられた。これが共産党への手切れ金である』(御田重宝『シベリア抑留』P.280)。いったい、日本共産党は、33隻65203人から、どれだけの額のカンパを受け取ったのか。これについても、日本共産党が公表しないであろうから、機械的な推計をする。
厚生省は、帰還者にたいし、「1カ月分俸給」を100円としていた。1949年末に300円にした(『援護五10年史』P.94)。物価スライドで「俸給1000円」に引上げたのは、1951年1月からである。2002年現在のフルタイマー平均給与を大学新卒初任給相当の20万円と仮定する。すると、1949年当時の1円は、200000÷300=現在時価666円に相当する。「赤旗梯団」65203人のうち、50%が一人平均で、1000円の「応急支援金」から、100円(現在の66600円相当)を、(1)心からの共産党支援金、または、(2)共産党との手切れ金として拠出したとする。
65203×50%×100円×666倍=2171259900円≒現在時価約21億7千万円になる。当時の雰囲気から見れば、カンパ拠出者の%や、一人平均カンパ額は、もっと高い可能性もある。抑留者たちからの21億円のカンパとは、膨大な額である。
しかも、この21億円の性格をはっきりさせておく必要がある。それは、ソ連共産党による拉致犯罪被害者としての抑留者たちから、半ば強制的に収奪し、ソ連共産党隷従下の「入党者・カンパ受益者」日本共産党に持ちこまれた、一種のソ連共産党が合法的に行なった日本共産党への資金援助だった。
集団入党者数・カンパ額の計算式、およびその結論数字は、あくまで私の機械的な推計による。過去の『抑留記』、その他文献では、誰も、これらの数値推計を書いていない。ただ、日本共産党は、ソ連共産党とラーゲリ政治部が犯した日本国民約60万人にたいする犯罪のおかげで、大量の入党者とカンパを手に入れた、いう抽象的な言い方では、具体的なイメージがわかない。
1991年ソ連崩壊後のソ連共産党・国家の機密資料公開・発掘のように、また、フランス共産党が1998年1月、歴史家・ジャーナリストに、フランス共産党機密資料・保管文書を公開したように、日本共産党がこのデータに関する「日本共産党機密資料」を公表・公開すれば、そちらの数字に変更する。
8、徳田球一「要請(期待)」=帰国妨害問題と管季治の証言・自殺問題
〔小目次〕
1、「日の丸梯団」
1、「日の丸梯団」
1949年の「ダモイ」は、抑留4年間を経た44隻86938人で、うち「赤旗梯団」が33隻だった。1950年の日本人帰還者は、抑留5年間の7508人だった。49年にも帰れなかった彼らは、ラーゲリ政治部・将校から、「1949年送還の残り9954人はソ連戦犯として引き続き抑留する」(高杉一郎『極光のかげに』P.332)と、何度も言われていて、恐怖と焦燥にかられていた。
ソ連共産党とスターリンの犯罪にたいする怒りは、表向きの「民主運動」賛成とは裏腹に、極限状況に達していた。それは、ソ連共産党が日本国民にたいして犯した人格引き裂き犯罪だった。「ダモイ」のためには、5年間、面従腹背的人格と抑留生活を強制された。
取り残されて、ようやく、1950年に帰還した7508人は、密告により、アクチブたちから反動と呼ばれ、ラーゲリ政治部からソ連戦犯とされ、懲罰大隊などに隔離されていた日本国民だった。『抑留記』の多くが訴えているように、満州にいた関東軍兵士や民間人は、中国国民への侵略・加害責任を負い、中国戦犯ではあっても、ソ連本土を一度も侵略していない以上、ごく一部の対ソ連諜報関係者以外、ソ連戦犯になることなど、論理的にも、実態としてもありえない。
帰還船が、日本領海に入って、ソ連側が下船するやいなや、船内の雰囲気ががらりと変わった。多くの人が、面従腹背的態度をかなぐり捨て、5年間の鬱憤を、同乗しているアクチブ・専従者たちにぶつけた。ナホトカの人民裁判というリンチにたいする逆リンチが船内で頻発した。彼らは、舞鶴での下船に際して、包帯に「朱肉や赤チン」で「日の丸」を描き、手製の「日の丸」を作って、上陸した。1949年の「赤旗梯団」が唱えた天皇島への敵前上陸とは、正反対の1950年の光景となった。これが、「日の丸梯団」である。この背景を踏まえないと、「徳田要請」問題が理解できない。
「日の丸梯団」の上陸 共産主義者集団でないことを示す
急造の日の丸とともに(『シベリア捕虜収容所』P.332)
2、「徳田要請事件」=日本共産党の在外同胞引揚妨害問題
1950年3月4日、高砂丸で、1587人の「日の丸梯団」が舞鶴に帰還した。彼らのうち、373人は、国会にたいし、徳田球一日本共産党書記長がわれわれの帰国を妨害した、と訴え、国会はそれを正式に取り上げた。保守派が国会の問題とした背景には、1949年1月総選挙で、共産党が4議席から35議席へと一挙に躍進したことと、「日の丸梯団」の真相究明要求が共産党をたたく絶好の好機と保守派に映ったことがある。
その事実関係は以下である。1949年9月15日、カラガンダ捕虜収容所第9分所での出来事である。2つのデータを載せる。
(1)、抑留者の国会証言内容(管季治遺書HPの解説)
「前年の9月15日、カラカンダ捕虜収容所第9所にて政治部将校エルマーラフ上級中尉は抑留者にこう語ったという。『いつ諸君が帰れるかは、諸君自身が真正の民主主義者となった時に、諸君は帰れるのである。日本共産党書記長トクダは、諸君がよい民主主義者となった後に帰国するように要請している』『反動は一切帰国させないで、ソ連強化の為に使ってくれ』と要請した」。
(2)、管季治の国会証言内容(『はるかなるシベリア―戦後50年の証言』北海道新聞社、1995年、P.70)
「収容所長の訓示に続き、抑留者の一人が『われわれはいつ帰国できるのか』と質問した。軍政治部将校のエルマーラエフ上級中尉が答え、菅が通訳した。のちに国会に呼ばれた彼は、問題の言葉を次のように訳した、と証言した。『いつ諸君が帰れるか、それは諸君自身にかかっている。諸君はここで良心的に労働し、真正の民主主義者となる時、諸君は帰れるのである。日本共産党書記長徳田は、諸君が反動分子としてではなく、よく準備された民主主義者として帰国することを期待している』」
この問題は、当時大きな関心と論議を呼んだ。日本共産党は、「徳田書簡」も「徳田要請」も一切ない、と全面否認した。ソ連機密資料でも、現時点で、その存否は不明である。KGB『野坂ファイル』のように、『徳田ファイル』が発見されれば別であるが。
ただ、類似の状況証拠が3つある。
1)、御田『シベリア抑留』(P.302)は、徳田氏が、ソ連当局に書簡を送り、「立派な民主主義者として帰国させてほしい」といった内容の要請をしたことが日本新聞で取り上げられ、シベリア民主運動が激化する要因の一つとなったことは事実である、と明記した。
2)、高杉『極光のかげに』(P.241)は、一九四八年晩夏のある夕方、作業から帰ってくると、そこに一枚の軍事捕虜用郵便が貼り出してあった。差出人は、日本共産党書記長徳田球一で、一般大隊の反ファシスト民主委員のひとりが出した葉書に対する返事らしい。「よき民主主義者となって帰られる日をお待ちしている」旨の簡単な文面である、と書いている。
3)、若槻『シベリア捕虜収容所』(P.254)は、1949年「赤旗梯団」の代々木参りを記している。代々木での「集団入党式」には、徳田球一書記長、野坂参三政治局員、伊藤律政治局員も参加し、熱烈歓迎した。引揚者の代々木参りを出迎えた徳田書記長は、「党は諸君が日本の民主革命を達成するために力を蓄積してきたこと、諸君が反動を破る力を示されていることに対し、おおいに感謝している。……諸君のつかんだマルクス・レーニン主義で日本の実情をよくとらえ、実際の活動をしてもらいたい」と演説した。
カラガンダ捕虜収容所第9分所で、軍政治部将校エルマーラエフ上級中尉の答えを通訳したのは、管季治(かんすえはる)だった。彼は、北海道出身で、東京文理科大―京大大学院で哲学を専攻した時、ロシア語に接した経験、および、シベリア抑留後、独力でロシア語を身につけたことから、通訳に仕立てられた。帰国後も、母校の後身・東京教育大学の研究生として通いだしていた哲学青年だった。ただ、通訳という立場上、ラーゲリ政治部側と抑留者側の両者から、「アクチブ」と見られていた。
彼は、国会での「徳田要請」問題が動き出すと、1950年3月4日、自ら名乗り出て、(1)参議院引揚委員会、(2)朝日新聞社、および、(3)「アカハタ」にあてて、当時の詳細な経過と通訳言語を書いた「報告」という文章を送った。彼の真意は、カラガンダにおける「通訳文言の事実=『期待』と訳したこと」を明らかにすることだけだった。
ところが、「アカハタ」は、3月9日、徳田書簡事件を否定という見出しとともに、この事件は、事実を全くつくりかえた悪質なデマである、と断定し、カラガンダ事件そのものの存在を全面否定した。国会、対日理事会も動きだし、32歳の哲学青年は、(4)シベリア「民主運動」の嵐についで、(5)日本における1950年当時の左右政治的激突の渦中に引きずり込まれた。
国会証人喚問、マスコミだけでなく、彼は、自宅にまでも、左右の両者からの攻撃と説得にさらされた。その中心テーマは、ロシア語・ナデーエツア、または、トクーダ・ナデェエッツア(国会議事録)を、日本語の要請と通訳したのか、それとも期待と訳したのかという問題だった。彼は、一貫して、期待と訳したとした。現在からみれば、ロシア語は同じなので、日本語・要請でも、期待でもあまり変わりない。
しかし、言葉のニュアンスから、右勢力は、要請=日本共産党の帰国妨害の証明にしようと、管季治を執拗に追求した。彼にたいする国会喚問内容や「アカハタ」の攻撃は、ナホトカ人民裁判のリンチと同質の帰国後日本における左右からの逆リンチ=一種の異端審問・思想裁判となった。左右両勢力は、管季治にたいして、シベリアにおけるソ連共産党の人格引き裂き犯罪と同じく、32歳の哲学徒を精神的にまた裂きにした。国会証人喚問の翌日、彼は鉄道自殺をした。その「管季治遺書」がインターネットHPにある。
管季治の生涯と悲劇については、多くの文献が出ている。詳細な事実経過としては、高杉一郎『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店、1996年、P.123~142「管季治の死」)と、『はるかなるシベリア―戦後50年の証言』(北海道新聞社、P.64~113「捕われた魂―管季治」)がある。加藤哲郎は『平澤是更曠「哲学者管季治」書評』が書いている。政治に翻弄された管季治の内面に光をあてたものは、木下順二の戯曲『蛙昇天』や澤地久江『私のシベリア物語』などである。
木下順二『蛙昇天』(岩波文庫、1982年)は、171頁の長編力作である。この戯曲初出は、『世界』(1951年6、7月号)である。管季治を蛙とし、赤蛙池(ソ連)と青蛙勢力(右翼・保守勢力)との葛藤と蛙自殺に至る経過を、当時の政治状況に基づいてリアルに描いている。木下順二は、文庫あとがきで、次のように書いている。「徳田要請事件は、ことの起こった50年2月以降、当分のあいだ、日本中にそれを知らない者はないといっていいほど騒がれた事件だった」(338頁)。
ただ、木下順二の思想的立場の故か、赤蛙勢力側からの管季治攻撃・非難の実態をほとんど描いていない。他文献を見ても、自殺の原因は、右翼・保守勢力側からの追及・攻撃の側面だけでなく、日本共産党側による手紙の存在そのものの全面否定と彼の言動・国会証言にたいする執拗な攻撃も明白に存在したからである。青蛙勢力側による蛙攻撃面しか描いていず、赤蛙勢力側からの蛙攻撃面を意図的に黙殺しているので、左翼と日本共産党は、この戯曲を大歓迎し、劇場を満員にした。
9、宮本顕治「抑留記『極光のかげに』内容の批判発言」問題
〔小目次〕
1、高杉一郎『極光のかげに』(目黒書店) 1950年12月20日初版
2、宮本百合子宅への訪問 1950年12月末
1、高杉一郎『極光のかげに』(目黒書店) 1950年12月20日初版
高杉一郎は、1944年、改造社編集部のとき、応召され、ハルピンで敗戦を迎え、4年間のシベリア抑留後、1949年帰国した。抑留中、ラーゲリ将校ににらまれ、無実の罪で、反動を入れる「懲罰大隊」に隔離された。ソ連共産党による「日本共産党支援活動」「ナホトカ人民裁判のリンチ」「スターリンへの感謝決議運動」を体験するとともに、様々なロシア人たちとの交流をした。この著書は、それらを公平率直に描いている。好評で、版を重ねていたところ、出版社が倒産したので、1991年、岩波文庫から再出版され、1995年までに5刷を重ねた。
「シベリア抑留・収容所文学」として、説得力のある作品である。(1)極寒、飢え、強制労働と(2)民主運動の嵐というシベリア抑留の2大体験から、その根底に、当然ながら、スターリン批判、ソ連共産党批判が一貫して流れている。ただ、抑制されたタッチで描かれているので、剥き出しの「スターリン批判」文言はない。
彼は、静岡大学教授、和光大学教授を経て、多くの著書・翻訳書を出している。シベリア抑留関係については、その後、『スターリン体験』(岩波書店、1990年)、『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店、1996年)、他1冊の計4冊を出版した。宮本顕治発言問題は、この抑留記『極光のかげに』内容をめぐって発生した。
2、宮本百合子宅への訪問 1950年12月末
高杉一郎は、改造社編集部の仕事上、宮本百合子や中野重治とも知り合いだった。それだけでなく、百合子と家族ぐるみの付き合いもし、彼が応召のときには、彼女が東京駅まで、見送りに来たという間柄だった。また、高杉夫人の妹・大森寿恵子が、宮本百合子の秘書役として働いていた。妹は、百合子死去後に宮本顕治と結婚した。
高杉一郎は、『極光のかげに』初版を出版と同時に、宮本百合子に送り、1950年12月末、彼女宅を訪問した。その時の様子を『征きて還りし兵の記憶』が書いている。彼女は、傍線が引いてある『極光のかげに』をとりだし、いろいろ質問した。彼女は、批判めいたことは一つも言わず、最後にやっぱり、こういうことはあるのねえ、とつぶやいただけだった。その直後、1951年1月21日、彼女は急死した。
この批判発言について、高木一郎は、2冊で2回のべている。
第1回は、1990年、『スターリン体験』における、宮本顕治という名前を出さないやや抽象的な描写である。「それを読んだあるコミュニストは私にむかって「偉大な政治家であるスターリンをけがして、けしからん。こんどだけは見のがしてやるが」と、まるでオリュムポス山上に宮居する主神ゼウスのように高圧的な態度で言った。
また、新日本文学会の系列下にあった「東海作家」という文学団体は私をコーラス・グループの練習場であるバラックに呼びだして集団的なつるしあげを加えた。彼らの罵声を浴びながら、私はストロングの言う「スターリン時代」とスターリニズムのひろがりは、日本の世論までもこんなにしっかりとカヴァーしているのかと驚いた」(P.8)。
第2回は、1996年、『征きて還りし兵の記憶』における、宮本顕治の名前を明記し、具体的な情景を含めた宮本顕治批判である。長くなるが、高杉一郎の怒りが込められているので、そのまま引用する。
宮本百合子が私のシベリアの話を聞きおわったころ、彼女の部屋の壁の向う側が階段になっているらしく、階段を降りてくる足音が聞こえた。その足音が廊下へ降りて、私たちの話しあっている部屋のまえまで来たと思うと、引き戸がいきおいよく開けられた。坐ったままの位置で、私はうしろをふり向いた。戸口いっぱいに立っていたのは、宮本顕治だろうと思われた。
雑誌『改造』の懸賞論文で一等に当選した「敗北の文学」の筆者として私が知っている、そして宮本百合子が暗い独房に閉じこめられている夫の目にあかるく映るようにと、若い頃のはなやかな色彩のきものを着て巣鴨拘置所へ面会にいったと話していた、そのひとだろうと思った。宮本百合子が、坐ったままの場所から私を紹介した。雑誌『文藝』の編集者だった、そしてこのあいだ贈られてきた「極光のかげに」の著者としての私を。
すると、その戸口に立ったままのひとは、いきなり「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」と言い、間をおいて「こんどだけは見のがしてやるが」とつけ加えた。私は唖然とした。返すことばを知らなかった。やがて彼は戸を閉めると、立ち去ってゆき、壁の向うの階段を上ってゆく足音が聞こえた。私は宮本百合子の方へ向きなおったが、あのせりふを聞いたときの彼女の表情はもうたしかめることができなかった(P.188)。
その日、改造社時代の友人、野間寛二郎の家へ向かった。さっき聞いた最後のせりふのショックから解放されなかったからだ。あれが「敗北の文学」の筆者のことばだとはどうしても信じられなかった。あのせりふの背後には、私たちをさんざん苦しめてきたミリタリー・ファシズムとまったくおなじ検閲と処罰の思想がかくされているのではないだろうか。いったい『極光のかげに』のなかのどの個所がスターリンをけがすというのだろう? 道みち、私は胸のなかで反芻(はんすう)をはじめた。
野間寛二郎は私の話を聞くと、しばらく考えこんでいたが、やがて「宮本さんはきっとそう言うであろうねえ」と言って起ちあがり、奥の部屋から一冊の雑誌を取ってきた。そしてあるページをひらくと、「ここを読んでごらんなさい」と言って差しだした。その年の五月号の『前衛』に発表された宮本顕治の論文だった。そこには、つぎのように書かれていた。
「われわれはとくに、マルクス・レーニン主義で完全に武装されているソ同盟共産党が、共産党情報局の加盟者であることを銘記しておく必要がある。このソ同盟にたいする国際共産主義者の態度は、つぎの同志毛沢東の言葉によく表現されている。「ソ同盟共産党はわれわれの最良の教師であり、われわれは教えを受けなくてはならぬ」。単に、共産党情報局は一つの友党的存在という以上に、ソ同盟共産党を先頭とする世界プロレタリアートの新しい結合であり、世界革命運動の最高の理論と豊富な実践が集約されている」。それを読んだとき、私ははじめて「ああ、そうだったのか」と納得するところがあった(P.190)。
宮本顕治は、1950年4月、『前衛4月号』でも、「コミンフォルム論評の積極的意義」を発表し、コミンフォルムは偉大な同志スターリンの指導下にあるのであるから、無条件で支持すべきである、と論じた(『検証・内ゲバ』第5章、来栖宗孝、P.309)。
宮本百合子 『極光のかげに』にたいする批判めいたことは一つも言わ
ず、最後に「やっぱり、こういうことはあるのねえ」とつぶやいただけ。
宮本顕治 いきなり「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」
と言い、間をおいて「こんどだけは見のがしてやるが」とつけ加えた。
高杉一郎が、1996年、この宮本顕治の『極光のかげに』批判発言を、名前つきで公表するまでには、46年間もかかった。ソ連が崩壊してからも5年間かかった。もっとも、名前と具体的状況の公表がそれほど遅れたのは、高杉夫人の妹が宮本顕治の後妻になっているという別の事情があったのかもしれないが。
1996年に初めて判明したこの批判発言の本質を、シベリア抑留51年後に改めて検討する。その発言にあるのは、多くの『シベリア抑留記』すべてを、「偉大な政治家スターリンをけがすもの」とする拒絶反応である。それは、ソ連共産党の約60万人拉致犯罪を免罪にするだけでなく、むしろ逆に、ラーゲリ政治部が行なった「日本共産党支援運動」「集団入党・カンパ運動」にたいする宮本顕治の感謝、スターリン崇拝・隷従の裏返しとしての批判発言である。
『抑留記』『シベリア体験記』の出版物は、国立国会図書館寄贈分だけで、452点ある(『征きて還りし兵の記憶』P.5)。未寄贈の自費出版・文集、画集を合わせれば、数千点になるであろう。彼の『抑留記』内容批判発言は、スターリン隷従・ソ同盟絶対擁護理念に基づいて、『抑留記』を執筆したソ連共産党による犯罪被害者たち全員を敵視するスターリンとの共同正犯の本質を持っている。彼の態度には、不法にも拉致され、抑留された犯罪被害者にたいする一片の同情、思いやりもない。それが、日本共産党トップの「科学的社会主義者」たちが共有する人格なのか。
「こんどだけは見のがしてやるが」という言葉は、何を、どんな処罰・報復を見のがすことであろうか。高杉一郎は、党員ではないので、規律違反処分や除名にはできない。宮本顕治が党内外の批判者にたいして行なった常套手段から推測すれば、その処罰・報復のやり方は、共産党組織、共産党系大衆団体をあげて、反ソ同盟分子、反スターリン分子高杉一郎への批判キャンペーンを展開し、日本の民主運動(シベリアのではなく)から排除することである。彼の態度は、「見のがしてやる」というせりふによって、「偉大な政治家スターリン」を盲信した、居丈高な「脅迫者」という、彼の人格的本性と60万日本国民にたいする非人間的な冷酷さを剥き出しにしたものである。
それは、『赤色テロル』ファイルで分析したように、ボリシェヴィキの政策・方針に批判・反乱の労働者・農民・兵士を人民の敵と断定し、敵は殺せ!と指令して、無実の自国民数10万人を殺害したレーニンが持つ革命前のヒューマニズムを自ら放棄した一党独裁権力者の冷酷さと同質のものだった。
それとの関連で、当時も宮本顕治が頻発しているソ同盟という日本語にこだわる。シベリア抑留で、アクチブ・専従者たち、および『日本新聞』は、必ずソ同盟という日本語を使い、ソ連・ソ連邦使用を禁止した。宮本顕治をはじめ日本共産党幹部は、戦前戦後とも、スターリン崇拝時代、ソ同盟擁護を繰り返した。その言葉の性質は、日本共産党だけが使った思想用語だった。ラーゲリ政治部が、それら日本語の差異を分かるはずがない。
とすると、シベリアのアクチブ・専従者に、その日本語の限定使用を、ソ連共産党を通じて指令したのは、徳田球一・宮本顕治らではなかったのか、という疑惑が出てくる。それは、徳田「要請(期待)」問題に表れたように、シベリア抑留11年間における、とくに1948年、49年における「日本共産党支援運動」「集団入党運動」には、ソ連共産党と日本共産党との裏側での合意と協力による、なんらかの共同謀議が存在したのではないかというソ連崩壊後の、恐るべき疑惑である。
10、野坂参三「NKVD工作員」事実と「民主化運動提案」事実 (大幅加筆・改定)
ソ連共産党スパイのまま、フルシチョフ第1書記の任命により、日本共産党の
第1書記→委員長→議長→名誉議長→100歳除名という政党とは何なのか?
抑留者60万人にたいする民主化運動提案者→『アカハタ』と『日本新聞』関係?
〔小目次〕
5、日本共産党トップぐるみのシベリア抑留の事後承認・合意疑惑の状況証拠4つ
6、日本共産党による機関紙『アカハタ』の『日本新聞』への連日・即時送付事実と部数疑惑
〔小目次〕
1、赤色テロル機関NKVDとアジェンタ=スパイ・エージェント
2、ソ連共産党国際部第1局(NKVDの後身)第7部スタルツェフ東南アジア部長の説明
3、アルハンゲリスキーが『殺人事件』において発掘・公表したイムレ・ナジの誓約書
4、小林俊一・加藤昭が完璧に証明した「野坂ファイル」とソ連機密資料
1、赤色テロル機関NKVDとアジェンタ=スパイ・エージェント
NKVD(エヌカーヴェーデー)とは、スターリン時代におけるソ連秘密政治警察のことで、赤色テロル機関の名称である。レーニンは、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターの1カ月後、1917年12月に、社会主義国家の秘密政治警察として、チェーカーを創設した。
ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」6000点やソ連機密資料が発掘・公開された。それらによって、ジェルジンスキーと28万人チェキストは、レーニンが出した人民の敵殺人指令多数に基づいて、批判・不満・反乱をしたロシア革命勢力=労働者・農民・兵士ら数十万人を殺害したという「レーニン神話」の裏側にある、恐るべき真実が判明してきた。
チェーカーは、1921年、ゲペウとなり、NKVDに名称が変わった。それらは、赤色テロルを遂行するためのスパイ=工作員養成派遣機関としての本質は同じである。ただ、スターリン時代、ゲペウ(オゲペウ)とNKVDは、両方ともつかわれている。スターリンは、レーニンが強行した批判・反乱者の大量殺人・粛清方針を忠実に継承し、さらにその規模を拡大した。
レーニンが、有名な「よきコミュニストは、よきチェキストである」という発言で監視・密告をボリシェヴィキ全員に奨励・義務化したことによって、世界初の社会主義国家は、世界初の秘密政治警察国家・赤色テロル型社会主義となっていた。チェーカーの実態については、私のHP『赤色テロル』ファイルで詳しく書いた。
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
アジェンタとは、スパイ・エージェント=協力者のことである。スパイ・エージェントになるとき、誓約書という契約を文書で提出するシステムになっていた。シベリア抑留で、ソ連共産党・ラーゲリチェキスト機関は、多くの軍事捕虜をスパイにした。その契約は次の文書だった。誓約書―私儀今後ソ連諜報機関のために働き、在ソ中はもちろん、帰国後もその指令に服することを誓い、もし口外する場合はいかなる処罰が加えられようとも異存はない(若槻『シベリア捕虜収容所』199頁)。
ラーゲリ政治部が、スパイになったら早く帰国できると、大量のスパイ工作をしたことは、多くの抑留記が書いている。心ならずも、ダモイのために誓約書にサインをして、他の抑留者たちを密告するよう追い込まれた日本人スパイの哀しみは推して余りある。スパイを養成し、密告を組織した者たちは、もちろん全員がソ連共産党員である。
ここでは、シベリア抑留との関係で、野坂参三がソ連共産党アジェンタになったのは、1931年からなのか、それとも、下記の日本共産党が断定する1945年からなのかを検討する。このテーマと時期を詳しく検証するのは、それがシベリア抑留に関する野坂事後承認疑惑=民主化運動提案事実・日本共産党疑惑とも関係するからである。
2、ソ連共産党国際部第1局(NKVDの後身)第7部スタルツェフ東南アジア部長の説明
以下の内容は、小林俊一・加藤昭『闇の男、野坂参三の百年』(文藝春秋、1993年、149頁)にある。
「オカノはまちがいなく、われわれ側の人間だ。彼はこう語り、続いて、野坂CIAスパイ説に疑問をなげかけた。スタルツェフ東南アジア部長は以下、次のような説明をくわえたという。
1、モスクワ入り(1931年)した直後、野坂はソ連の諜報機関とある理由で接触し、関係ができた。
2、NKVDとの話し合い(尋問あるいは脅迫?)の結果、野坂はソ連側のアジェンタとして協力することを約束した。
3、当時、ソ連NKVDとの間に結ばれたアジェンタ契約は2種類あり、(1)ひとつは積極的に破壊活動なども行なう純然たるスパイ工作員で、この場合、おおむね自らの意志で契約することから、意志のアジェンタと呼ばれていた。(2)一方、もうひとつはなんらかの理由でアジェンタになることを余儀なくされた協力者のことで、影響のアジェンタといわれ、主に密告など密かな情報提供の役割を約束させられていた。
4、彼はソ連入り直後からNKVD当局とアジェンタ契約を結んだ。彼の立場は影響のアジェンタだった。」
3、アルハンゲリスキーが『殺人事件』において発掘・公表したイムレ・ナジの誓約書
彼は、1956年のハンガリー動乱を指導したイムレ・ナジが、モスクワ在住の1930年にNKVD工作員となったときの誓約書を、機密文書から発掘して、載せている。
誓約書 文末に署名したわたくしОГПУ(オーゲーぺーウー)(КГВカーゲーベーの前身)部員イムレ・ナジは、在職中あるいは退職後も、ОГПУ諸機関の活動に関する1切の知見と資料を厳重に秘匿し、いかなる形においても発表せず、近親者・親友にも漏らさないことをここに誓約する。これを実行しない場合、わたくしは刑法第123条該当の責任を問われる。1923年4月3日付ОГПУ指令第133号及び1927年8月109日付ソビエト革命軍事委員会令第372号示達。
1930年9月4日 イムレ・ナジ
野坂参三もNKVD工作員になったとき、同様の契約書にサインしたはずである。ただし、野坂参三が、1931年からアジェンタ契約をしていたのかどうかについては、上記東南アジア部長の説明があるだけで、ナジのような文書的証拠はない。
4、小林俊一・加藤昭が完璧に証明した「野坂ファイル」とソ連機密資料
彼ら2人が、モスクワで発掘したのは、コミンテルン執行委員野坂参三がコミンテルン執行委員会議長ディミトロフ宛に出した山本懸蔵を密告3回の電報、メッセージと2回の手紙全文による野坂参三の犯罪だった。ここでは、密告の内容を書かないが、時間経過だけ確認する(『闇の男、野坂参三の百年』35頁、および、212頁)。
1937年8月、野坂の電報(ディミトロフあて)、野坂の示唆(アンドレーエフへ)。1937年11月、野坂のメッセージ(ディミトロフあて)。1937年11月2日、野坂竜ソ連共産党除名。同日、山本逮捕。1938年2月11日、野坂竜逮捕。1938年2月、野坂の第1回手紙(ディミトロフあて)。1939年2月22日、野坂の第2回手紙(ディミトロフあて)。1939年3月10日、山本銃殺。山本銃殺の後、3月31日、野坂竜は釈放された。
野坂とは別に、山本懸蔵の側も日本人共産党員・シンパをNKVDに密告・告発し、銃殺・強制収容所送りにさせた。密告相手は国崎定洞、勝野金政ら4人で、その事実は、ソ連崩壊後の機密資料で判明した。当時、モスクワにいた日本共産党員・シンパ数十人の中で、野坂・山本というトップから、自分が逮捕・銃殺されないために、密告者に転向していった。
それと同質のことは、石堂清倫が『転向再論』で示唆したように、1934年6月9日、佐野学、鍋山貞親の転向声明と、トップからの転向による転向の雪崩現象発生という形で起きた。(1)日本における特高へのトップからの転向と、(2)モスクワにおけるスターリン粛清加担へのトップからの転向という2つの異質だが、反面の同質さを含む現象を、どう考えたらいいのか。そこにおける、コミンテルン日本支部=戦前の日本共産党の体質とは、何だったのか。
当時、モスクワには、ソ連に理想社会を求めた日本人共産党員やシンパがかなりいた。加藤哲郎一橋大学教授による「旧ソ連秘密文書など記録による粛清確認者」は、34人である。その内訳は、銃殺18人、強制収容所送り7人、国外追放4人、逮捕後行先不明4人で、釈放は野坂竜1人だけだった。
コミンテルン執行委員の野坂参三は、妻の逮捕後、(1)山本懸蔵を銃殺させることと引き換えに、(2)妻の釈放と密告者としての自己の安全を得た。人民の敵・外国のスパイ容疑者を密告することこそが、スターリンとゲペウへの忠誠度を証明し、自己と家族の逮捕を免れる唯一の行為となる社会主義国家システムだった。さらには、その密告者が密告されるというのが、理想の社会主義国家の実態だった。加藤哲郎が、著書やHPにおいて、34人の経歴・粛清経過を載せている。
加藤哲郎『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』 加藤HP
〔小目次〕
1、日本共産党による野坂参三100歳除名とスパイ事実公表内容
2、ディミトロフの裏側任務=各国共産党トップをソ連共産党スパイに、外国共産党員大量殺人
1、日本共産党による野坂参三100歳除名とスパイ事実公表内容
日本共産党は、『闇の男』の爆弾証言・証拠や雑誌『諸君』発表のデータなどにあわてふためいた。そこで、すぐモスクワに調査団を派遣して、「野坂ファイル」などを直接見て、彼がソ連共産党秘密政治警察の工作員であったことを、やむなく追認した。宮本顕治は、野坂参三を1992年12月27日、100歳で除名した。
ただ、スパイ契約の月日は、1931年からでなく、1945年10月11日からと断定した。しかし、断定の根拠として、工作員契約書=誓約書を発見したかどうかは、公表していない。断定したからには、ハンガリー首相イムレ・ナジと同じようなNKVD工作員契約書を「野坂ファイル」などから発掘しているはずである。
その事実経過は『日本共産党の70年・上』(160頁)にある。
「野坂が、ソ連共産党への内通者として利用可能な人物とみこんで、帰国前にモスクワによぶことを、スターリンらソ連の党指導部に提案したのは、コミンテルン書記長だったディミトロフと、野坂がコミンテルン駐在時から、コミンテルンで活動していたソ連共産党員ポノマリョフであった(45年8月10日付の両名の手紙)。ディミトロフは、当時、ソ連共産党中央委員会の国際情報部長だった。ディミトロフとポノマリョフは、山本懸蔵問題をつうじて、野坂のスターリンへの絶対忠誠の態度を知っていた。スターリンは、ディミトロフらの提案をうけいれて野坂をモスクワによんだ。
45年10月11日、モスクワで野坂に最初に会ったのは、赤軍参謀本部に属する情報総局のクズネツォフ陸軍大将だった。野坂は、自分が日本に帰って、日本共産党の一幹部としておこなう活動について、ソ連側からの全面的な指示を要請した。さらに野坂は勝手に日本共産党を名のり、モスクワからの資金援助とモスクワとの恒常的な連絡の体制についても要請をおこなった。
クズネツォフの報告をうけたディミトロフは、野坂の資金援助要請にこたえるとともに、ソ連共産党中央委員会のルートでなく国家保安人民委員部(のちのKGB)あるいは赤軍情報総局のメンバーだけをつうじて野坂との連絡を保持することを指導部に提案した。また日本共産党の綱領の作成を急がないよう野坂に助言することも提案した。10月31日のクズネツォフ、ポノマリョフらとの会談で野坂にこの方針が伝えられ、野坂はこの指示に同意した。野坂のモスクワ訪問が極秘事項であることも、帰国ルートにかんする話し合いのなかで明確にされた。」
不破哲三(当時、幹部会委員長)は、2000年7月20日、日本共産党創立78周年記念講話「日本共産党の歴史と綱領を語る、戦後の党の歴史から―1950年代のソ連・中国の干渉と軍事方針」で次のように述べている。
「野坂参三という人は、戦前海外で活動していて、最後は中国共産党の根拠地であった延安でずっと活動していました。そこから戦後日本に帰ったということになっているのですけれども、実は、日本に帰る途中にスターリンから呼び出されて、秘密裏にモスクワに行き、そこでソ連の情報機関につながる秘密の工作者になることを約束して、日本に帰ってくるのです。ソ連の秘密文書を読みますと、日本への帰国後も、ずっとソ連大使館などと特別の連絡をとりながらやっている状況が出てきます。」
2、ディミトロフの裏側任務=各国共産党トップをソ連共産党スパイに、外国共産党員大量殺人
かつてコミンテルン書記長だったディミトロフの裏側任務は、各国共産党員トップをソ連共産党スパイに取り込み、派遣する中心人物でもあった。コミンフォルムになってからも、彼は、その汚れた手のままだった。この事実は、ソ連崩壊後に出版された研究書でも証明されているし、不破哲三も明言している。
ケヴィン・マクダーマット、ジェレミ・アグニューが『コミンテルン史』(大月書店、1998年)において、ソ連崩壊後の機密資料を発掘し、「コミンテルン内のテロル」(200~219頁)を、具体的なデータで明らかにした。モスクワにいた外国共産党員の大量殺害事実である。近似値的としつつも、次の粛清データを載せている。
1937年、約5000人のポーランド共産党員が逮捕され、殺された。弾圧されたユーゴスラヴィア人は約800人、殺害されたイタリア人共産党員は120人以上、逮捕されたハンガリー人とブルガリア人は数百人、1938年春までに投獄されたドイツ人共産党員は1000人以上、さらに非業の死をとげたルーマニア人、オーストリア人、ギリシア人、エストニア人、スイス人、トルコ人、インド人、ペルシャ人、朝鮮人の共産主義者は多数。
多くの場合、これら犠牲者の妻と同僚は拘留され、彼らの子どもは内務人民委員部の孤児院に収容された。逮捕されたドイツ人とオーストリア人のうち多くの者が1940年初めに、2人の独裁者の恥知らずなとりきめにしたがってゲシュタポに引き渡された(207頁)。
マヌイリスキー、ディミトロフ、クーシネンおよび、その他の高官がテロルで果たした役割は、けっして名誉になるものではない。ディミトロフが数人の逮捕された外国人の共産主義者を救い出そうとしたのは、確証ずみの事実ではあるけれども、彼とマヌイリスキーはミンテルン機構の粛清と深くかかわっていた(211頁)。
この外国共産党員の大量殺人をコミンテルン内において、決定し、銃殺指令をしたのは、コミンテルン書記長ディミトロフ、コミンテルン執行委員だったフランス共産党代表トレーズ、イタリア共産党代表トリアッティ、日本共産党代表野坂参三らだった。(1)表側の反ファシズム統一戦線キャンペーンと、(2)裏側でのコミンテルン内の大テロルとは、理論的にどこで結びつくのか。しかも、各国共産党のトップたちが、大量殺人者であったとは! その犯罪を告白し、自己批判したのは、イタリア帰国後のトリアッティただ1人だった。
これらのデータから、私は、スターリン時代のコミンテルン執行委員、コミンフォルム執行委員で、スターリン粛清に少なくとも中立であったと言えるような汚れなき手の共産主義者は一人もいなかった、と断言できる。全員が、(1)人民戦線・反ファシズム統一戦線の提唱・宣伝者であり、かつ、(2)大量殺人の指令・遂行者だった。
彼らは、野坂・山本も含め、二重人格者なのか、一方がウソである偽善者なのか。それとも、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で洞察したように、神はいない、よって、一党独裁・党治国家権力の維持という目的のためには、大量殺人・ウソをふくめたすべての手段使用は、共産主義者には許されているという一神教的宗派に集団転向したのか。
権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗するというテーゼの正しさを、20世紀・現存した社会主義国家が、世界的規模で、数百万人の共産党員殺人者たちの発生データと、数千万人の犠牲者データでもって、完璧に論証した。そもそも、社会主義とは、権力の腐敗を最終的に解決するシステムだったはずだった。その逆を証明することになるとは、なんという歴史の皮肉なのか。それは、私もかつての熱烈なレーニン神話信奉者として、また15年間の民青・共産党専従者だった立場から見ても、自己反省・悔恨とともに、限りない哀しみを引き起こす。
3、シベリア抑留に関する野坂事後承認・民主化運動提案事実
〔小目次〕
2、野坂参三とスターリン・ソ連共産党幹部たちとの会見2回中、第1回目内容
3、野坂参三とスターリン・ソ連共産党幹部たちとの第2回目会見内容
ソ連機密資料や「野坂ファイル」の発掘・公表と野坂NKVD工作員事実の発覚・証明とによって、ソ連崩壊後に再照射すべき別の疑惑が浮上してきた。それは、シベリア抑留期間中における野坂参三とスターリンとの2回の会見内容の問題である。
それらの会見において、日本共産党が公表した事実と疑惑がある。
(共産党公表事実)
野坂による戦後第1回目の資金援助要請とディミトロフ承認などの内容は、日本共産党が公表した事実である。それ以外に新たな疑惑4つが出てきた。
(新たな疑惑1)
野坂参三は、NKVDスパイ兼日本共産党トップの1人として、日本国民約60万人のシベリア拉致・抑留にたいする日本共産党としての事後承認を正式にした。この疑惑内容は、徳田要請問題とも接点を持つ。それにたいし、関東軍参謀瀬島龍三に関する疑惑は、兵士・民間人60万人のシベリア抑留・労務提供の事前承認の存否である。
(新たな疑惑2)
事後承認だけでなく、抑留者60万人にたいする民主化運動提案をした。それが承認されると、積極的で具体的な協力活動をした。具体的には、『アカハタ』と『日本新聞』との密接な連携構築である。
(新たな疑惑3)
共産党入党運動の要請をしたのではないのか? その要請・合意が一切ないままで、ソ連共産党、ラーゲリ政治部だけが一方的に、日本共産党への善意にあふれて、上記機密資料が暴露したような、また、多くの抑留記が告発しているような、綿密かつ組織的な日本共産党入党運動・入党資格審査運動を行なったとは考えられない。
(新たな疑惑4)
ソ連共産党側からの連絡・指示なしで、隷従下の日本共産党側が、それと完璧に連携した帰国直後の集団入党工作や、拉致犯罪被害者からの共産党カンパ21億円収奪運動を行なったとは考えられない。
これら疑惑4つは、徳田球一、宮本顕治、野坂参三らの日本共産党ぐるみで、60万人抑留に関するなんらかの要請と合意が、ソ連共産党・スターリンとの間で存在したのではないかとの恐るべき反国民行動・反国民的政党という疑惑である。ただ、日本共産党は、これらの疑惑の真否にたいし、野坂参三除名時点とそれ以降も、完璧な沈黙・隠蔽を続けている。
2、野坂参三とスターリン・ソ連共産党幹部たちとの会見2回中、第1回目内容
第1回、1945年10月11日~30日
『日本共産党の70年・党史年表』(113頁)は、野坂参三が、延安からの帰路に訪ソ、スターリンと会見と認めている。しかし、『日本共産党の70年・上』(160頁)では、スターリンの名前を書かず、野坂参三とソ連共産党幹部たちとの会見と書いた。ただ、日本共産党は、会見内容に沈黙し、隠蔽した。その内容が暴露されれば、野坂参三が、(1)シベリア抑留に同意した上で、(2)民主化運動開始を提案している真相が、日本国民に与える影響を怖れたための隠蔽と思われる。
この会見内容について、名越健郎は、『クレムリン秘密文書は語る―闇の日ソ関係史』(中公新書、1994年)において、秘密文書に基づき、次の事実を載せた。彼は、時事通信モスクワ特派員→外信部長である。ソ連崩壊1~2年後に発掘・公表された秘密文書によって、「第2章、日本共産党のソ連資金疑惑」を詳細なデータとともに載せた。
「モスクワ会談で野坂が最も配慮したのは、ソ連と協力体制を確立し、ソ連側から物質的支援を受けることだった。野坂はクズネツォフらに対し、(1)5万ドルの資金援助、(2)50~60人分の民間服、(3)モスクワとの通信網確立、(4)妻の合法的出国、(5)日ソ協会の設立、(6)ソ連の対日宣伝放送強化など15項目を要請した。
5万ドルの資金援助は「金塊や貴金属の形で、延安の8路軍(のちの中国人民解放軍)代表部から受けとりたい」と要請した。クズネツォフは「5万ドルの資金援助およびその他の要請を満たすことは可能と考える」と答え、モロトフに支払いを勧告した。
資金援助では、ソ連党中央委国際情報部のコワリョフ、クライノフ両部員と11月2目に行なった会談でも、野坂は「日本共産党への援助として、1万ドルを米ドルか金塊の形でいただければありがたい。援助は日本における反ファシスト闘争のための大衆組織への支援という形態をとる」と要請した。安易に資金援助を求める体質が、対ソ従属を決定づけてしまう。
さらに、野坂は一連の要請の中で、「満州、南サハリン、朝鮮領域の日本人と日本軍捕虜に対し、積極的な日本民主化のための政治教育を組織することが不可欠だ。そのために、朝鮮北部にいる日本民族解放連盟のメンバーを利用することが可能だ」と提案した。これを受けて、ディミトロフはモロトフに対し、「日本軍捕虜や日本人への政治教育実施を指示すべきだ」と勧告している。
このころ、満州、朝鮮半島で捕虜になった関東軍将兵のシベリア抑留が始まっており、やがてソ連各地のラーゲリで民主化運動と称した激しい政治・思想教育が展開されるが、日本人抑留者への民主化教育は野坂の提案が発端だったかもしれない。
モスクワ秘密会談を受けて、ソ連共産党が野坂および日本共産党にどう対応していくかは、ディミトロフ党国際情報部長がモロトフ外相に宛てた書簡(日付不明)に明示されている。ディミトロフはこの中で、「野坂同志が提起した問題は以下のように対処するのが望ましい」として、次の8項目を勧告、モロトフの承認を得た。
《1、野坂と彼の同志の中国からの帰還は積極的に協力する。
1、ソ連にある日本語のマルクス・レーニン主義の文献を日本に送付する。
1、日本共産党の再建、その活動や出版・宣伝活動に必要な一定の物質的援助を与える。
1、野坂との関係は内務人民委員部(NKVD)、ないし、赤軍参謀本部情報総局(GRU)の信頼のおける工作員を通じてのみ維持し、ソ連共産党中央委を通しては行なわない。
1、日本共産党に進歩勢力の統一戦線結成と日本の民主的再編に向けた路線をとるよう助言する。
1、満州や朝鮮の日本人および日本軍捕虜の間に民主化運動を組織する。
1、日本共産党党綱領の策定を急がないよう助言する。
1、野坂に主要国共産党やソ連の動向について情報提供する。》」(109頁)
3、野坂参三とスターリン・ソ連共産党幹部たちとの第2回目会見内容
第2回、1951年4月~5月
『党史年表』(136頁)は、スターリン、中国共産党代表が参加して、徳田、野坂らとモスクワで会談数回。党の統一を主張する宮本らを分派と断定し、51年文書をおしつけたと認めている。
1950年6月25日、北朝鮮側の武力南進・朝鮮戦争が勃発していた。この会談の目的は、後方兵站補給基地日本において、日本共産党が、(1)武装闘争に決起し、(2)非合法軍事委員会Yを結成し、(3)全面的な武装かく乱運動=朝鮮侵略戦争への参戦を展開するよう、ソ連共産党と中国共産党が、スターリン・毛沢東崇拝・隷従の事実上の下部組織日本共産党に指令することだった。
2党は、北京機関・人民艦隊・球根栽培法(火炎ビン製造法)・山村工作隊などの軍事闘争指令をした。それとともに、参戦軍事資金として、10万ドル=下記で計算する現在時価72億円を援助した。ただ、日本共産党は、数回に及ぶ軍事資金援助の内容を完璧に隠蔽している。
これら2回ともが、シベリア抑留期間中のスターリンとの直接会見、会談だった。第1回の1945年10月とは、ソ連共産党・ソ連軍が、日本国民約60万人にトーキョー・ダモイとウソをついて、シベリア大量拉致犯罪を実行している最中だった。まだ移送中の1部をのぞいて、大部分が、収容施設・食糧・冬用衣服も整っていない、極寒(マローズ)ラーゲリに、労働利用要員(1945年8月23日国家防衛委員会決定)として配備されたところだった。
敗戦後2カ月間経ち、ソ連共産党による日本国民大量拉致犯罪の事実が判明するにつれて、日本世論、世界世論、対日理事会において、戦勝国ソ連にたいする弾劾・追及の声が急速に高まった。
南方からは、復員者たちが続々と帰ってくるのに、ソ連管理地域の満州、樺太・千島からは、ごく一部の病人以外、誰も帰ってこない。スターリン・ソ連共産党は、それらの日本・国際世論へのなんらかの対応に迫られたはずである。(1)日本国内において、抑留の必要性を説くこと、(2)抑留生活を明るく描くこと、(3)強制労働を否定すること、(4)ソ連批判を反共攻撃とすりかえて緩和することなどをするのは、ソ連共産党隷従状態下で、熱烈なスターリン崇拝者宮本顕治らの日本共産党しかない。
その時点での会見2回において、シベリア抑留問題に関するテーマが一言も出されなかったなどということはありえない。
日本共産党は、モスクワで、その会見年月日が明確な議事録を発見したはずである。しかし、シベリア抑留問題についての会見内容の存在を書いていない。その原因として、日本共産党側が隠しているのか、それとも、議事録で最初から意図的に削除されているのか不明である。
4、野坂参三の中国帰途→モスクワ立ち寄り1カ月半の秘密行動
彼は、100歳で査問・除名されるまで、モスクワに立ち寄らずに、中国から直接帰国したとしてきた。それを著書や『赤旗』で書いている。しかし、それは、中国帰途→モスクワ立ち寄り→1カ月半の秘密行動を隠蔽するための真っ赤なウソだった。彼のモスクワでの行動について、元KGB(ソビエト国家保安委員会)の大佐でありながら、タブー視されていた「シベリア抑留」をソビエトの犯罪だと指摘し、その職を退いたアレクセイ・キリチェンコが著書『戦後地下エージェントとしての野坂参三』で暴露した。その抜粋は雑誌『諸君』にも載った。また、佐藤正『野坂参三と宮本顕治・下』(新生出版、2004年、8頁)にもある。
その一部は次の通りである。ロシア東洋学研究所のアレクセイ・キリチェンコ国際学術交流部長は資料調査を基にこう語る。「野坂はソ連情報機関にとって、日本で最も信頼できる情報源の一人だった。KGBの古文書館には、日本の国内情勢や共産主義運動、労働運動に関する野坂の詳細な報告が保存されている。情報提供に対して、野坂はソ連側から評価されただけでなく、物質的報酬も受け取っていた。野坂とソ連との地下関係はスターリンが死ぬ1953年まで続いた」。
キリチェンコ著書は、野坂参三のモスクワにおける諸会談の日程を載せている。
1945年の10月はじめにモスクワに到着した野坂とソ連側の会談は、11月23日まで断続的に行なわれた。同行の香川孝志ら3名は、一週間ぐらいモスクワに滞在した後、野坂参三より一歩先に、シベリア鉄道で瀋陽(奉天)にもどり、朝鮮を経由して、釜山から引き揚げ船で博多に帰った。その途中、野坂参三を待ち、どこかで合流したことになる。
10月11日、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)のクズネツォフ陸軍大将が野坂と会見、その内容を翌12日、モトロフあてに報告。
10月16日、ディミトロフがモロトフに対し、文書で野坂に対応する方策を提案。野坂との会談にのぞむ方針を、モロトフに提案。
10月30日、クズネツォフ、ポノマリョフ、パラノフ、コワリョフが、野坂と会談(ポノマリョフ、パラノフ、コワリョフの署名したメモがある)。会談の内容は、パニュシキンとポノマリョフが、翌31日に、モロトフに文書で報告。
11月2日、コワリョフ、クライノフが野坂と会談。野坂は「日本共産党への資金援助として1万ドルをいただければありがたい」と資金を要請した。
11月3日、クライノフが野坂と会談。
11月9日、野坂が、日本への帰国を急ぐ問題で、クズネツォフに手紙を出す。この手紙について、パニュシキン、ポノマリョフが、11日、モロトフに文書で報告。
11月17日、野坂はクズネツォフに対し、(1)5万ドルの資金援助、(2)510~610人分の民間服、(3)モスクワとの通信網の確立、(4)妻の合法的帰国を要請した。5万ドルの資金援助は、八路軍が延安で野坂の主宰する日本反戦同盟を支援したことに対する謝礼として渡したいとしており、宝石、貴金属による提供を求めた。
11月23日、クズネツォフはこの日の会談で野坂の見解を総合的に論評し、「天皇制や民主戟線構築、民主化プログラムに関する立場は正しい」と述べる一方、「土地改革問題は農業の現状を深く研究したうえで、詳細な構想を練るべきだ。独占資本の解体も同様だ」とアドバイスしている。クズネツォフはまた、「ルーマニアやポーランド、ハンガリーの経験を機械的に日本に適用すべきでない。日本は資源の限られた島国であり、特殊性を考慮すべきだ」と指摘した。
この事実から判断すると、野坂は少なくともモスクワに約1カ月半いたことになる。
5、日本共産党トップぐるみのシベリア抑留の事後承認・合意疑惑の状況証拠4つ
野坂参三、もしくは、徳田・宮本・野坂ら日本共産党トップぐるみのシベリア抑留の事後承認・合意疑惑を裏付ける状況証拠が4つある。岩槻著『シベリア捕虜収容所』の「日本共産党の主張と弁明」(410~412頁)が、それらを載せている。
〔状況証拠1〕、共産党参議院議員細川嘉六の参議院引揚促進請願の決議にたいする反対と理由発言
共産党はシベリアにおける強制的苦役自体を否定する。たとえば、参議院で引揚促進請願の決議が上程されたとき、共産党議員だけは起立しなかった。その理由について共産党参議院議員細川嘉六は、決議案趣旨説明で、残留者が最も劣悪な条件のもとに強制労働に服していると述べられているが、このようなデマ宣伝はかえって引揚げを妨害すると考えたからであると、その反対理由を説明した。
〔状況証拠2〕、当時のアカハタ記事
アカハタの記事は、いかにシベリアが楽しいかということをくり返し報道しており、そのいくつかの例をあげる。(1)ノルマも鼻歌混じり、(2)ゆたかな給与、(3)兵士大会で新出発。(4)青葉の繁る明るい錦州から、何一つ苦労はない、(5)この幸福を日本の人々にも。(6)楽しい同盟にうなずく乗客たち(帰還列車の記事)というような見出しがたびたび紙面に踊った。
次のような帰還者の談話も紹介される。
(7)楽しかった思い出ならかぞえきれなくて、急には思い出せないくらいだ。(8)日本人は空襲なんかでずいぶん苦労している。(9)内地の人の方がシベリアよりずっと苦しい思いをしており、私など苦労したなんていえません。(10)異国にいて苦しかったろうといわれるが、内地の人の方がかえって苦しんでいる。国民全体が苦しんだのである。
〔状況証拠3〕、国民放送の引揚促進問題討論における共産党代表野坂参三の発言、1948年11月21日
昭和23年11月21日の国民放送討論会で引揚促進の問題が論ぜられたさい、共産党代表野坂参三は次のように述べた。(1)どこの国でも、俘虜を使役に使用せぬところはない。(2)ソ連といえども俘虜を養えば経費もかかり、好んで引き止めているわけではない。(3)これには、いろいろの理由がある。たとえば輸送力の不足とか……。(4)それに第1、日本国内の受入れ態勢が整っていないではないか。この野坂参三の発言に対しては、多くの批判が集まった。
〔状況証拠4〕、アカハタは、引揚問題と反ソ宣伝と題する社説で反論、1948年12月14日
これら野坂参三に対する非難の投書が一般の新聞にのってからおよそ半月後、アカハタは引揚問題と反ソ宣伝と題する次の社説をかかげて、その主張をまとめた。日本共産党の引揚問題に対する姿勢の総括として、記録しておく価値があると思われるので、その要点をかかげておく。
(1)、この3年間、執拗にまかれた反ソ反共デマは、帰還者によって片端から粉砕されている。すなわち、ナホトカには、船が来ないため、常に1万も2万も待機している。帰還者は、栄養失調の病弱者でなく、3千~3千5百カロリーの食糧を支給されていた。奴隷的強制労働ではなく、8時間労働であり、明るく愉快に働いてきた。むしろソ同盟の人民よりも優遇された。
(2)、入ソ当初の、苦しい生活環境や栄養失調者の続出は、ソ同盟の責任ではなく、天皇制軍隊機構を維持し強制した反動将校たちによってなされた。民主運動は、この反動との闘いをみずからの力で行なったのであって、強制的ではない。その他、抑留生活の真相やソ同盟の偉大な発展状態は、帰還者によって伝えられ、この事実は反動陣営に恐怖を与えるにいたった。
(3)、そのため政府は、総選挙をひかえ、冬季輸送中止を絶好の機会として、根も葉もない反ソ反共宣伝をデッチあげている。このような宣伝の真の意図は何か、それは引揚問題の促進そのものではない。かれらのねらうところの第1は、引揚者の受入れ態勢の不備のいんぺいである。第2に引揚者、留守家族の生活難からくる不平不満をおさえ、激化する大衆闘争にブレーキをかけ、支配階級の不正と腐敗から国民の関心をそらすことである。第3に、人民大衆の反ソ感情をあおって、戦争を挑発することである。
この社説論旨は、野坂発言と類似していることから見て、野坂参三が執筆したとも推測できる。となると、発言・社説の2つから野坂の事後承認疑惑がより強くなる。社説を、野坂ではなく、徳田・宮本の上記発言からみて、2人のいずれかが書いたとも推定できる。その場合は、日本共産党トップぐるみの事後承認疑惑になる。
これら状況証拠4つに見られる日本共産党の対応は、野坂参三、もしくは、徳田・宮本・野坂ら日本共産党トップぐるみのシベリア抑留の事後承認・合意疑惑を裏付ける証拠として、資料価値が高い。ただ、その真相は、日本共産党が、自らシベリア抑留の極秘資料を公開するまで、日ソ両党関係の闇の中に隠蔽されたままである。
6、日本共産党による機関紙『アカハタ』の『日本新聞』への連日・即時送付事実と部数疑惑
〔小目次〕
1、赤軍情報部→シベリア抑留所政治部による『日本新聞』発行・配布と号数
2、『アカハタ』と『日本新聞』との密接な関係-国会証言データ
3、密接な関係構築におけるコミンテルン執行委員野坂参三の役割と反国民的行動
1、赤軍情報部→シベリア抑留所政治部による『日本新聞』発行・配布と号数
日本共産党機関紙『アカハタ』と『日本新聞』とは、直接で密接な関係がある。以下は、証明された事実である。
『日本新聞』は、ソ連軍が他の戦利品とともに満州で接収した奉天(現在の藩陽)の『満州日日新聞』の活字を使うようになって、がぜん読みやすくなった。『日本新聞』の発行元は、日本新聞社である。極東シベリアの大都市ハバロフスクのレーニン通りに、2階建ての社屋があった。編集長は、極東ソ連軍最高司令官付の日本語通訳を務めていたイワン・イワノビチ・コワレンコ中佐。のちにソ連共産党中央委員会国際部副部長に抜擢されて、対日政策を担当した。印刷はハバロフスクの地元日刊紙『太平洋の星』の印刷工場で行なわれた。
『日本新聞』は、日本敗戦翌月にはすでに創刊された。正確な数は1945年9月15日の創刊号から1949年12月30日発行の第662号で終刊となっている。高杉一郎によるとその発行回数は全部で662回となっており、伊藤努によると通算650回とされている。[i]地域によっては配られなかった事もあったので多少のばらつきはある。
日本人抑留者の収容所には、政治教育の一環として配布されることとなった。コワレンコ中佐が大場三平とのペンネームで編集長をやっていたこの新聞は、(1)初期は月に2回発行の2ページ程度のものだった。(2)1946年6月頃からは週3回のペースでページ数も4枚に増大されていた。発行部数は10万部程度で週平均約3回位のペースで発行され、捕虜4~5人に1部くらいの割合で配布された。編集長以下日本人捕虜の従業員も70名(ソ連人63名)おり、そのトップはシベリア民主運動における日本人の最高指導者層そのものであった。ソ連人63名とは、全員がソ連共産党員で、NKVDの政治将校だった。
2、『アカハタ』と『日本新聞』との密接な関係-国会証言データ
ここでの問題は、『アカハタ』と『日本新聞』との密接な関係である。シベリア抑留からの帰国者にたいする国会証人喚問が、当時何回も行われた。それは、日本共産党が、シベリア抑留者の帰国妨害をしているという徳田手紙疑惑にたいする帰国者の訴えに基づくものだった。以下にあるが、『日本新聞』の2面・4面はつねに『アカハタ』の転載記事だった。それも、2日か4日遅れで、『アカハタ』発行号数付だった。
戦後、日本共産党機関紙赤旗は、1945年10月20日復刊し、再刊第1号をだした。1945年10月20日再刊5号をもって現在の新聞型となり、週刊化した。1946年、「赤旗(せっき)」から「アカハタ」に改題した。
日本共産党の誰が、ハバロフスクの『日本新聞』社に、どのような手段で送り、4頁中の2頁全面を『アカハタ』記事で埋め尽くす取り決めをしたのか。消去法で考えると、徳田・宮本・伊藤律ではない。まず、彼らはロシア語を話せない。その人物は、(1)コミンテルン執行委員であり、(2)モスクワ1カ月半秘密立ち寄り者、(3)ソ連軍事捕虜60万人担当の赤軍情報部エージェント=スパイ、(4)日本人60万人にたいする民主化運動提案者の野坂参三しかない。もちろん、他幹部も野坂方針・行為を承認していたと思われる。
国会の証人問答の一部を抜粋する。この議事録は、全文がインターネットに載っている。
○亀澤証人 申し上げます。日本共産党の原稿だとか、またはアカハタの記事、または日本共産党が発行したパンフレツト、そういう記事が日本新聞にどうして載ったか、その径路は自分にはわかりません。しかし私が帰って来まして、アカハタあるいは共産党のパンフレツト、そういうものを見まして、それがどの程度密接に日本新聞と結ばれておったか。
あるいはまたある意味から言って、日本共産党は知らぬ、それはソ連がかってにやつたのだと言われるかもしれませんが、しかし自分が考えた範囲におきましては、大体アカハタの記事に関することは、自分は統計をとってありますけれども、2日ないし3日おきに発存した日本新聞には、必ずアカハタの記事が載っておりました。毎号必ず載っております。
○亀澤証人 ただいまちょっと間違いがあったようでありますけれども、2日、1日と言つたのは、これはある一つの事件だけでありますけれども、大体ぼくの見ましたのは、2日か3日おきに発行された日本新聞の記事はアカハタからの取材がある。必ず符号アカハタの記事が載っておつた。その経過は4、5日ないし10日で、時事解説は年月ぐらいのものをまとめて、日本新聞に載っております。それから1日か2日ぐらい遅れたのは、どういうものがあるかといいますと、たとえば日本共産党徳田書記長が9州の佐賀県において手榴弾の襲撃を受けた事件、またはイタリアのトリアッティの見舞電報、毛澤東の見舞電報といったものは、そちらの方を経ずに、中国を経たということはない。
と思うのは、徳田書記長が襲撃されて、その直後に日本新聞に日本共産党中央委員会の声明が載っております。それは徳田書紀長のカンパが行われた2日後であります。ですから徳田書記長が襲撃されて、4日後に日本共産党の声明として日本新聞には載っております。
第17号 昭和25年4月3日
○亀澤証人 ただいまの質問に対しまして、私がある程度まで確実性をもってお答えしますことは、アカハタ、そのものがソ連に来ておったということだけで、それ以外のことは自分としてはわかりません。自分自体はアカハタを見ませんが、ただアカハタを見たという人間は何人もありました。
○内藤(隆)委員 そうすると、アカハタの部数は相当の数のように思われますが、どれほど行つたのでしようか。
○亀澤証人 それに対して自分はわかりませんけれども、1部や2部でないということは、はっきり言えると思います。
○上村証人 ありました。それは確実にあります。そして大部分が擬装共産主義者になつたことも事実であります。
○安部委員 そしてあなた方が教育を受けたテキストブックのようなものがいろいろありましようが、特に権威のあるものは日本新聞であるということを、昨日も他の証人より証言がありましたが、日本新聞というのは、第2面、第4面はほとんど日本共産党の機関新聞であるアカハタの転載であるというような証言もあったのでありますが、あなたもそういうふうに、日本新聞というハバロフスクで発刊するところの新聞に、アカハタの記事がきわめて迅速に転載されたという事実があると思いますか。
○上村証人 あります。アカハタは大体2百号から5百号までくらいはほとんど欠番にならないくらいに連続に入っております。そうしてアカハタ2百13号、2百14号、2百15号というぐあいに、何号からとったということも明細に書いてある。日本新聞はアカハタ新聞といっていいくらいである。
○安部委員 その番号によりまして、日付というものは、やはり日本のアカハタ新聞に掲載されたものがそう遅れては掲載されなかったのですね。
この問答では、アカハタの送付部数は分からない。ただ、私が調べた範囲では、アカハタが、収容所内において1週間で10人に1部当り配られて、読んだとする抑留記が2つあった。
3、密接な関係構築におけるコミンテルン執行委員野坂参三の役割と反国民的行動
アカハタ送付ルートは船か、飛行機か、印刷原版の送付か。いずれにしても、日本共産党側の直接担当者は、ソ連赤軍情報総局エージェント野坂参三以外に考えられない。
ちなみに、日本政府は、ソ連政府にたいし、ソ連式の「戦時捕虜」名でなく、「抑留者」名に変えるよう要請した。ソ連は、その要請を拒否した。ソ連は、一週間の参戦だけで日本敗戦を迎えた。そして、旧満州にあった産業・工場施設のすべてを解体・収奪し、シベリア鉄道でソ連国内に「戦利品」として運んだ。ソ連は、第2次世界大戦において、2千万人の労働力・労働資源を失った。極度な労働資源欠乏の中で、日本人60万人は貴重な人的労働資源であり、一週間の参戦結果による「戦利品」の1つ=「戦時捕虜」だった。
60万人もの新資源「人的戦利品」をどのようにすれば、有効な労働力として、効率的に使用できるのかが、ソ連共産党の緊急テーマになった。「トーキョー・ダモイ」と騙して、8月の夏服・夏靴のままで大量拉致したので、シベリアの零下40度マローズになれば、「戦利品」の10%・6万人程度が損壊することは想定内の見込みだった。
ソ連共産党に騙され拉致された「人的戦利品」を、さらに騙し、労働ノルマで酷使するには、何が必要か。
第1は、レーニン以来の基本路線・体質としての「宣伝・扇動・組織者」になる『日本新聞』発行だった。そこへの敏速で即日の『アカハタ』転載システムだった。
第2に、「戦利品」管理・教育システム構築のための日本共産党トップの協力者確保だった。それには誰が適切か。それには、コミンテルン執行委員だった野坂参三こそが最適だった。
『諸君』(1993年3月号)でアレクセイ・キリチェンコが述べたところによると、ディミトロフとポノマリョフが野坂参三を呼ぶことを思いついたのは、日本の敗戦直前だった。1945年8月25日当時、ソ連極東方面軍政治局のイワン・コワレンコは長春にやってきていた。コワレンコは、その著書『対日工作の回想』で次のように指摘している。
「長春に落ち着く暇もなく、モスクワから次のような内容の電報が入った。『北支のどこかに日本共産党の指導者の一人、野坂参三がいるはず。彼を捜し出して、ソ連共産党中央委員会からの依頼として、できるだけ早くモスクワへ来るよう伝えられたし』。私たちはただちに中国共産党中央委員会東北ビューローに連絡して、モスクワの依頼を伝え、野坂の居場所を尋ねた」。
そうすると、ソ連軍は延安から張家口に来ていた野坂を探しだし、野坂を乗せて長春に向かい、長春でしばらく待機させた後、ソ連政府の指示にもとづき、モスクワ入りをさせたことになる。当時、日本では、徳田球一ら共産党幹部は1般大衆にはまだ、知られていなかった。ソ連政府にとって野坂参三以外に社会主義運動、共産主義運動に影響力のある人物は見当たらなかった。
「人的戦利品=軍事捕虜60万人」管理・教育システム構築のためには、ハンガリーのナジをNKVDスパイにしたように、元コミンテルン執行委員も必ずNKVDエージェントにしておかなければならない。
しかも、「戦時捕虜60万人」の管理・民主化運動には、NKVD本部でなく、赤軍内NKVD=捕虜統制機関でもある赤軍情報総局のエージェントにすることがもっとも効果的である。モスクワ滞在の1カ月半にわたって細部の打ち合わせを行う。ただし、日本への帰国後も、モスクワに立ち寄って、連続会談した事実を秘密にし、誰にも漏らしてはならない。もし、そのディミトロフ命令に違反した場合は、ハンガリー事件当時のナジ首相のように、密かにソ連に連行し銃殺する。
イムレ・ナジは、ソ連軍戦車とともに帰国し、ソ連共産党によって首相に任命された。1956年、NKVD工作員の誓約書で誓ったにも関わらず、ハンガリー事件に直面し、NKVDを裏切り、ハンガリー首相として、蜂起したハンガリー国民の立場に寝返り、ソ連軍戦車に対抗した。フルシチョフ第1書記は、ナジがハンガリー人だとしても、ソ連共産党への裏切り者・人民の敵と断定し、銃殺を指令した。ソ連共産党と現在のロシアは、彼の銃殺月日・場所も墓地もいまだに隠蔽している。
フルシチョフ第1書記は、モスクワ立ち寄り1カ月半事実を秘密にしたままで、日本に帰国した赤軍情報総局のエージェントにたいし、1955年六全協に当って同じ肩書を与え、日本共産党第1書記に任命した。
軍事捕虜60万人にたいする民主化運動提案者野坂参三とは何者なのか?
ソ連共産党スパイのまま、フルシチョフ第1書記の任命により、日本共産党の
第1書記→委員長→議長→名誉議長→100歳除名という政党とは何なのか?
11、抑留期間中、ソ連共産党から日本共産党への108億円以上の資金援助問題
〔小目次〕
資金援助年度と額のデータは、「Jiji Top Confidential」(時事通信社、2002年1月22日号)に掲載された『名越健郎の20世紀アーカイブス(24)』の一部『ソ連から25万ドルと記述』記事に基づいている。それは、名越健郎が『モスクワで入手した基金リスト』によるもので、出典はソ連崩壊後の「機密資料」である。ただ、彼は、資料名・文書保管所名を書いていない。
フランス共産党、イタリア共産党は、その「資金援助年度と額」データを事実として認め、党本部が受領したことも正式に認めている。よって、その「機密資料」の出所と内容の信憑性は証明ずみである。
以下引用する。ソ連から25万ドルと記述-筆者がモスクワで入手した基金のリストによれば、
五一年の緩助総額は三百二十三万ドルで、受け入れ先はフランス共産党が百二十万ドルでトップ。日本共産党も基金から十万ドルを受けた。
五五年には総額が六百二十四万ドルに増え、受け入れのトップはイタリア共産党。日本共産党も二十五万ドルで六位にランクされている。
六三年の援助総額は千五百三十万ドルで、日本共産党の受領額は十五万ドルとなっている。
この共産圏の秘密基金は、ソ連解体前年の九〇年まで維持され、四十年間で五億ドル以上が世界の左翼政党に支払われた。ただし、中国共産党は中ソ対立激化の中で、六〇年ごろ秘密基金から脱退。自主独立路線を強めた日本共産党も六三年を最後に受け取っていない。
翌五一年には、基金の規模は三二三万ドルに拡大、一四か国の党に供与され、日本共産党への一〇万ドルの援助が初めて計上されている。中国共産党は前年の三倍以上の六二万五〇〇〇ドルを拠出。日本共産党だけでなく、インド共産党、トルコ共産党などアジアの共産党への援助も始まった。(P.83)
(表5) 「左翼労働組織支援国際労組基金」の
各国共産党に対する援助額
1951年(計323万ドル) |
1955年(計624万ドル) |
1961年(計1044万ドル) |
1963年(計1530万ドル) |
1 フランス共産党(120万ドル) 2 フィンランド共産党(87万ドル) 3 イタリア共産党(50万ドル) 4 イタリア社会党(20万ドル) 5 日本共産党(10万ドル) |
1 イタリア共産党(264万ドル) 2 フランス共産党(120万ドル) 3 オーストリア共産党(50万ドル) 4 フィンランド共産党(45万ドル) 4 イタリア社会党(45万ドル) 6 日本共産党(25万ドル) |
1 イタリア共産党(400万ドル) 2 フランス共産党(150万ドル) 3 フィンランド共産党(60万ドル) 4 オーストリア共産党(50万ドル) 5 クルド民主党(イラク,33.5万ドル) 15 日本共産党(10万ドル) |
1 イタリア共産党(500万ドル) 2 フランス共産党(150万ドル) 3 インドネシア共産党(100万ドル) 4 フィンランド共産党(65万ドル) 5 ベネズエラ共産党(60万ドル) 19 日本共産党(15万ドル) 79 日本共産党志賀グループ(5千ドル) |
この年のリストは、五一年分の基金が枯渇してしまったため、フランス共産党への六〇万ドル、日本共産党への一〇万ドル、インド共産党への一〇万ドルなどはソ連共産党の資金から渡された、と述べ、日本共産党へは秘密基金と別枠でソ連から直接供与したことを明らかにしている。
一九五五年には基金の規模は六二四万ドルと五〇年の三倍以上に膨れ上がった。五三年のスターリンの死や、その後の雪解けとは関係なく、ソ連が舞台裏で国際共産主義運動を操っていたことが読み取れる。五五年はソ連共産党が二九〇万ドル、中国共産党が二〇万ドル、東欧五党が二〇万~二五万ドルをそれぞれ拠出、日本共産党を含む二五党に資金援助された。下記(表)は、名越健郎著書(P.89の証拠写真)である。
「国際労組基金」から日本共産党に25万ドルが
支払われたことを示すソ連共産党文書(1955年)
シベリア抑留期間は、1945年から1956年までの11年間である。よって、期間中の資金援助は、1951年10万ドルと、1955年25万ドルの計2回35万ドルだった。その資金援助は、当然、(1)各国におけるソ同盟擁護運動の強化と、および各国共産党支援という共通目的とともに、(2)各国別の独自目的を内包している。日本共産党に与えた35万ドルは、独自目的として、約60万人のシベリア拉致・抑留犯罪=強制労働・飢え・極寒にたいする日本国民の怒り・早期帰国要求を緩和・欺瞞・抑圧する工作への犯罪協力・共犯依頼金という性格も帯びた。
35万ドル=下記計算の現在時価87億円を、うやうやしくいただいた、偉大なスターリン・ソ同盟讃美者・日本共産党は、上記4つの状況証拠のように、細川嘉六発言・連日のアカハタ記事、野坂参三発言・アカハタ社説でもって、また、宮本顕治の『極光のかげに』批判発言でもって、ソ連共産党の拉致・抑留犯罪にたいする積極的な協力者・共犯者となった。それは、ソ連共産党がくれた87億円に見合うレベルの日本共産党ぐるみで行なった見返りの国内宣伝工作だった。
2回で35万ドルといっても、私自身、イメージが湧かないので、日本円の2010年現在時価に換算する。ただ、できるだけ正確な推計にするため、やや面倒な計算をする。資本主義国共産党への資金援助は、すべてドル建てだった。
(1)、当時の為替レートをまず確認する。1949年4月25日から1971年1月までは、固定相場制で、1ドル360円だった。1971年からスミソニアンレートで、1ドル308円になった。現在のような変動相場制に移行したのは、1973年以降である。よって、日本共産党への資金援助ドルは、すべて1ドル360円レートである。
(2)、次に、各資金援助年時点のドル→円換算額を現在時価円にさらに換算する。その場合の換算基準を、1)、2002年現在のフルタイマーの平均給与額と、2)、厚生省の帰還者にたいする仮定俸給額という2つで、換算倍率を出する。1)を、大学新卒初任給相当の200000円と仮設定する。2)は、年度によって異なり、物価スライド式で引上げている。
1949年100円、1949年末300円に引上げ、1951年は1000円だった。1955年、軍人恩給法の改正において、それを一般公務員と同程度に引上げた、12000円ベース(『援護五10年史』P.115)とした。1963年は、シベリア抑留問題は終わっているので、一応、当時の大学新卒初任給相当の20000円とする。
(3)、これらに基づく資金援助額の現在時価換算の計算式は以下になる。
1951年 200000円÷当時俸給1000円=200円(倍)
10万ドル×360円×200倍=7200000000≒約72億円
1955年 200000円÷当時俸給12000円=16.6円(倍)
25万ドル×360円×16.6倍=1494000000≒約15億円
1963年 200000円÷当時給与20000円=10円(倍)
15万ドル×360円×10倍=540000000≒約5億円
これら3回のほかに、資金援助が2回ある。
第1回資金援助は、上記1945年の野坂要請・ディミトロフ承認によるものである。この額は不明で、日本共産党がモスクワ機密資料で詳細な会見内容を発見しているのに、額だけを隠蔽している可能性もある。
第2回は、1949年、共産党カンパ約21億円で、その事実上の資金援助を加えると、日本共産党は、ソ連共産党から5回も資金援助を受けていた。
これらの事実は、日本共産党が、1945年から1955年六全協までの期間に限って見れば、(1)思想的組織的に、偉大なスターリン崇拝、ソ同盟隷従政党というだけでなく、(2)財政的にもソ連共産党従属状態の政党だったことを、数値的に証明している。5回を合わせたのが、次の(表)である。
(表6) シベリア抑留期間中のソ連共産党から日本共産党への
資金援助回数と額推計(共産党カンパも含める)
回 |
年 |
ソ連援助額 |
為替レート |
当時の1円 |
現在時価 |
受領 |
共産党側弁明 |
1 2 3 4 |
1945 1949 1951 1955 |
(隠蔽?) (カンパ) 10万ドル 25万ドル |
360円 / 360円 360円 |
666円・倍 200円・倍 16.6円・倍 |
(?億円) 約21億円 約72億円 約15億円 |
党本部 党本部 党本部 党本部 |
野坂要請 大村領収書 北京機関 |
計 |
35万ドル+? |
360円 |
108億円+? |
党本部 |
|||
5 |
1963 |
15万ドル |
360円 |
10円・倍 |
約5億円 |
党本部 |
野坂、袴田ら |
108億円+?億円といっても、これまた巨額すぎてイメージが湧かない。そこで、イメージ比較できる物を捜する。それは、2002年第1期工事完成の日本共産党本部ビルである。第1期の総工費は約85億円である(中日新聞、2002年7月17日)。いうなれば、日本共産党は、地上11階地下1階のビルを、ソ連共産党に丸投げ発注し、タダで作ってもらったと同じような資金援助額になる。
ちなみに、2002年本部ビルへの党員や後援者からの寄付は25億円を上回った(同新聞)。2002年党員数は公表430000人であるので、党員一人あたりの寄付額は、5814円である。
一方、1949年のシベリア抑留の犯罪被害者から、ソ連共産党と日本共産党ぐるみで、半ば強制的に収奪したカンパ総額は、赤旗梯団33隻の50%・32700人からの約21億円だった。犯罪協力・共犯政党が、ソ連共産党のおかげで、手に入れた被害者からの一人あたりカンパ額は、64220円だった。
ところが、この5回とは別個に、日本共産党自身が認める、ソ連共産党にたいする資金援助の要請・受領がある。『日本共産党の七十年・年表』にある。しかし、現日本共産党は、それら要請・受領を、すべて北京機関、または、ソ連内通者個人としている。1958年の5万ドル、1959年の5万ドルという秘密文書の金額そのものの存在ついては、隠蔽している。
(表7) ソ連共産党からの別個の資金援助回数と額
秘密文書6回75万ドル金額受領の隠蔽・ウソ
回 |
年月日 |
形態 |
機関・個人 |
内容 |
年表 |
秘密文書 |
1 |
1952.9.6 |
受領 |
北京機関 |
ソ連資金を受け取ったという大村英之介名義の受領証。北京機関の指導下にあったものへの資金援助を証明 |
P.140 |
|
2 |
1954.1 |
受領 |
北京機関 |
ソ中両党の財政的従属下北京機関が党学校設置(関係者千数百人~二千人) |
P.143 |
|
3 |
1955.1.13 |
要請 |
北京機関 |
日本共産党中央委員会北京局として、5人の署名で、ソ連共産党中央委員会に資金援助を要請 |
P.145 |
25万ドル |
1958 |
(秘密文書) |
5万ドル |
||||
1959 |
(秘密文書) |
5万ドル |
||||
4 |
1961.11.1 |
要請 |
野坂参三 |
ソ連共産党第22回大会に団長野坂、副団長宮本が出席。野坂はモスクワに残留して、ソ連側に資金援助を要請 |
P.169 |
10万ドル |
5 |
1962.3.1 |
受領 |
袴田里見 |
袴田、イズベスチヤ特派員に接触。ソ連からの資金援助を催促。7月14日付「受領書」 |
P.170 |
15万ドル |
6 |
1963.5 |
受領 |
袴田里見 |
袴田、ソ連の国家保安委員会(KGB)から5万ドル相当額を受領。ひきつづき6月にも(五中総での路線転換のくわだてへの論功行賞の性格をもつ) |
P.175 |
15万ドル |
(表5)と(表6)のデータの一部が、時期的に見て、同一資金援助になる可能性もある。しかし、日本共産党は、それについて触れていない。(表6)の6件中、日本共産党が、資金援助額を明記しているのは、袴田の5万ドル相当額だけである。下記の秘密文書の金額データを意図的に隠蔽している。名越が発掘・公表しているからには、日本共産党も秘密文書の金額データを知っているはずである。
名越が発掘・公表した、ソ連共産党、基金からの日本共産党にたいする資金援助累計85万ドルを再確認する。時期に幅があるので、時価換算はしない。(表2)と比べると、宮本・不破・志位らの隠蔽・ウソの度合が浮き彫りになる。
秋月瑛二が、別のデータも載せている。
(1)、1951年に、基金と別枠で、ソ連共産党から10万ドルが供与された(p.83-84)。
(2)、1955年に、上の基金から、25万ドル、1958年に5万ドル、1959年に5万ドル、1961年に10万ドル、1962年に15万ドル、1963年に15万ドルが「援助」された(p.84、p.91)。
(3)、1963年に、これら以外に、日本共産党を除名された志賀義雄グループに5000ドル(対神山茂夫を含む)、1973年に5万ドルが「援助」された(p.84、p.92)。
秋月瑛二『名越健郎「クレムリン秘密文書は語る」』09年5月15日、18日
(表5)(表6)から見ると、ソ連共産党は、日本共産党への資金援助政策を、3つの作戦で執行し、ドル建て支出をしている。
〔第1作戦〕。世界戦略に基づき、すべての資本主義国共産党・左翼政党にたいし、1951年から40年間で、五億ドル以上を支出した。それは、米ソ冷戦を勝ち抜くイデオロギー戦争軍事資金だった。ソ連共産党は、1951年、55年、63年の資金援助を、世界各国共産党本部機関に向けて、ソ同盟擁護を絶対条件としていっせいに支払い、正規の受領書を出させた。その場合、自国民4000万人粛清・外国共産党員約1万人粛清実績を誇り、世界に冠たる秘密政治警察ゲペウ、NKVD、KGBが、個人のねこばばや少数派分派の詐欺的受領に騙されるはずがない。
日本共産党は、ソ連共産党の各国共産党への同時資金援助機密資料の存在そのものを否定したことは一度もない。なぜなら、フランス共産党やイタリア共産党が、その存在とともに、自党の党本部受領を、3回とも正式に認めているからである。そこから見ると、日本共産党が、3回とも、党本部受領したことは確かである。
一方、アメリカCIAも、ソ連共産党を上回る額で、世界各国の保守政党に、米ソ冷戦のイデオロギー戦争軍事資金で、共産主義に勝ちぬくための栄養補給をした。日本の自民党など保守政党には、日本共産党への108億円以上のCIA援助資金が注入されたはずである。1950年から3年間の熱い朝鮮戦争時期における、米ソからの後方兵站補給基地日本の保守政党・左翼政党にたいする資金援助方法・額のデータが完全に発掘され、それを比較研究できる日が来ないであろうか。革命も革命阻止も、お金なしではできない20世紀だった。
〔第2作戦〕。各国共産党別の作戦に基づいて、随時支出する資金援助である。資金援助要請内容を検討して、党本部宛、またはソ連派分派宛に提供する。日本共産党が、ソ連共産党と路線対立し、自主独立をするようになってからは、志賀ら日本のこえなどソ連派分派宛に資金援助をした。
〔第3作戦〕。ソ連工作員・NKVDやKGBスパイ個人宛のスパイ報酬である。シベリア抑留において、ラーゲリ政治部は、アクチブ・専従者にたいし、強制労働免除・食糧特別支給だけでなく、毎月100ルーブルを支給した。ラーゲリ・チェキスト機関は、抑留者内のチェキスト養成スパイにも、密告内容レベルに応じて、密告報酬を支給した。
それは、日本の公安調査庁が、共産党内スパイに、毎月定額、および、密告内容レベルに応じて、数万円前後の密告報酬を支払っているのと同じである。
しかし、NKVDやKGBが、日本共産党員スパイ個人にたいして、時価数億円の成功報酬を払うなどという、馬鹿げた大判振る舞いをすることなどは、絶対にない。それは、アメリカCIAでも同じである。指導者暗殺テロなどの成功報酬額は、別である。(表6)の袴田、五万ドル相当額を受領。ひきつづき六月にも(五中総での路線転換のくわだてへの論功行賞の性格をもつ)などという判断は、まさに論外である。なぜなら、上記換算式で計算すると、1億8千万円になり、そんな馬鹿げた個人向け成功報酬額はありえないからである。これは、党本部受領事実を隠蔽するための宮本顕治による真っ赤なウソである。
名越健郎は、上記記事で、1993年の志位談話を載せた。ソ連を通じた秘密資金問題では、日本共産党も独自調査を行い、九三年に志位和夫書記局長名の次のような談話を発表した。党としてソ連共産党に資金を要請したことはないし、党財政に資金が流入した事実はない。ソ連公文書によれば、五五年に二十五万ドルが日本共産党に拠出されたことになっているが、仮にそうした資金の流れがあったとしても、党として要請したり、受け取ったりしたものではない。受け取りの対象となったのは、党に隠れてソ連と内通した野坂参三や袴田里見らであり、それはわが党への干渉、破壊の意図と結び付いている。
しかし、この談話には具体的な証拠は示されていない。党の最高指導者で、漬貧な生活を送っていた野坂氏が、巨額の資金を独り占めしたと考えるのは無理があるといえよう。
この1993年志位談話は、従来から宮本顕治、不破哲三らが弁明してきた内容とまったく同一である。論旨は、武装闘争も、ソ連共産党資金援助の受領も、党分裂時期の徳田・野坂分派や袴田らがやったことであり、(現在の)党はまったく関知しない。(現在の)党にはなんの責任もない、というものである。そこで、その日本共産党弁明のウソを検証する。
第1回、1945年の「?億円」は額が判らないので、除く。また、第5回の「約5億円」は、1963年であり、シベリア抑留期間でないという理由で除き、3回分の「党本部受領」を論証する。
〔小目次〕
第2回、1949年、共産党カンパ約21億円の党本部受領
第3回、1951年、世界向け第1次ソ連資金援助中、約72億円の党本部受領
第4回、1955年、世界向け第2次ソ連資金援助中、約15億円の党本部受領
上記計算と換算式の額である。ただ、カンパ拠出率50%、厚生省支給の一律1000円から一人平均100円拠出という基礎推計が変われば、時価総額も変わる。20%前後の一時入党者は、もっと多額を出しているはずである。『抑留記』をいろいろ調べたが、今まで、私のように、こんな推計をした人は誰もいないので、データ不足の式ではある。
マッカーサー文書には、捜せばなんらかのデータがあるかもしれない。ただ、アメリカ人研究者ウィリアム・ニンモも、その文書を調査しているのに、『検証―シベリア抑留』で、カンパ総額推計を書いていない。
この推計総額に一定の変動があるとしても、党本部受領については、ほぼ確定的である。赤旗梯団33隻の舞鶴帰国の度毎に、代々木参りと集団入党式が行なわれた。その歓迎には、ほとんど、徳田球一書記長、野坂参三政治局員、伊藤律政治局員らが出迎えていた。その場で、伊藤律は、諸君らはよい時に帰ってきた。なぜならば九月までに売国吉田内閣を打倒するからだ、と述べている(『捕虜収容所』P.254)。33回の度毎に、党本部が、アクチブ・専従者たちから、多額の共産党カンパを正式に受領したことは、間違いない。
『代々木、他での多額の共産党カンパ問題』21億円の根拠
第3回、1951年、世界向け第1次いっせいソ連資金援助中、約72億円の党本部受領
1950年6月25日に北朝鮮軍が韓国への武力南進を開始した。朝鮮戦争は、スターリン・毛沢東・金日成が仕組んだ社会主義3国家による侵略戦争だった。スターリンと毛沢東は、後方兵站補給基地日本において、日本共産党を後方かく乱武装闘争に利用し、戦争を有利にする一手段にしようと企んだ。スターリン・毛沢東崇拝・隷従の日本共産党と全党員は、当時の隷従的な党関係の下で、武装闘争指令に巻き込まれた。
『朝鮮戦争と武装闘争責任論の盲点』朝鮮戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
以下は、その経過の全面的分析ではない。約72億円の党本部受領を論証する目的だけに基づいて、1951年10月初旬におけ党の組織的分裂は解消した事実を書く。
1951年2月23日~27日、徳田・野坂らは、第四回全国協議会(四全協)を招集し、(1)劉少奇テーゼにもとづく軍事方針を決定した。それとともに、(2)宮本らを「分派」と規定した分派主義者にかんする決議を採択した。4月から5月、スターリン、中国共産党代表が参加して、徳田・野坂らとモスクワで数回の会議を開いた。1)軍事闘争綱領として、スターリン・中国作成の51年綱領をおしつけた。そして、日本における武装闘争の具体的戦術を指令した。さらに、2)スターリンは、宮本らを分派と断定した。
この全国統一会議=宮本分派の10月初旬解散でもって、日本共産党の組織分裂が解消し、その統一・一本化が実現した。組織分裂の期間は、1年1カ月間だけだった。
宮本分派を含む反徳田5分派の屈辱的雪崩的崩壊の経過については、当時の国際派(宮本派)東大細胞にいた安東仁兵衛が、『戦後日本共産党私記』(文春文庫、1995年、P.169)で活写している。
宮本・不破・志位が言いふらしてきた武装闘争は、分裂した一方の徳田・野坂分派がやったことで、わが党は、それに一切関知していないし、責任もない、という断言は、真っ赤なウソである。また、1951年の10万ドル・72億円が党本部に資金流入した事実はない、という言い方もまったくのウソである。
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』武装闘争実践データ追加
『嘘つき顕治の真っ青な真実』五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠
第4回、1955年、世界向け第2次いっせいソ連資金援助中、約15億円の党本部受領
宮本顕治は、宮本分派解散・自己批判書提出というスターリンへの屈服行為により、徳田・野坂指導部の日本共産党に復帰・復党した。
1951年10月16、17日、統一回復をした日本共産党は、五全協を開いた。そして、スターリン・毛沢東の朝鮮戦争指令下の日本共産党北京局=北京機関は、日本国内に指令を発信して、後方兵站補給基地かく乱戦争を軍事委員会Yのルーとで展開した。
1955年7月27~29日、その終結を公式に宣言したのは、3年9カ月後の六全協だった。
日本国内における武装闘争を、(1)朝鮮戦争の全構図から切り離して、たんなる五全協方針の極左冒険主義と規定するのか、それとも、(2)ソ連共産党・中国共産党・朝鮮労働党・日本共産党という4党ぐるみの戦争、いいかえれば、3つの社会主義国と一つの資本主義国共産党が一体となった大規模な東アジア侵略戦争と捉えるのかで、六全協の位置づけがまるで異なる。なぜなら、クラウセヴィッツの『戦争論』をひも解くまでもなく、歴史上のあらゆる戦争において、後方兵站補給基地の武力かく乱は、熱い戦闘と同じ、明白な戦争行為であり、戦争の一部を構成しているからである。
スターリンは、フィリポフ、フィン・シの偽名を用い、
モスクワから金日成、毛沢東らに直接、暗号電報で
秘密指令を出して戦争を操り、休戦を阻止した。
戦術・地下非合法システムづくりからだけでなく、軍事費から見ても、日本共産党だけの資金力で、そのような規模の戦争行為を遂行できるわけがない。1951年の党本部受領額のソ連資金援助72億円だけでは足らない。中国共産党は、1950年9月北京機関設立から1957年3月北京の党学校閉鎖までの6年半、約2千人の日本共産党北京局維持費、人民艦隊密航費用を支出した。
1953年3月5日、スターリンが死去した。それを契機に、4つの共産党・労働者党は、朝鮮戦争を休戦にした。各共産党が、侵略戦争の戦後処理を迫られた。1955年7月27~29日の六全協とは、統一回復会議とまるで異なり、侵略戦争に参戦させて崩壊してしまった日本共産党にたいするソ連共産党・中国共産党指令に基づく戦後処理会議だった。それを統一が一定回復した会議と規定するのも、これまた、宮本顕治が得意とするレトリックで、党史偽造歪曲のウソである。
『宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ』戦後の最高権力者期間39年間の表裏
(表8) 六全協で、宮本顕治は武装闘争責任を100%継承
党役職 |
武装闘争指導部責任・個人責任 |
直接責任なし・復帰党員責任 |
比率 |
中央委員 |
野坂、志田、紺野、西沢、椎野、春日(正)、岡田、松本(一三)、竹中、河田 |
宮本、志賀、春日(庄)、袴田、蔵原 |
10対5 |
中央委員候補 |
米原、水野、伊井、鈴木、吉田 |
|
5対0 |
常任幹部会 |
野坂、志田、紺野、西沢、袴田 |
宮本常任幹部会責任者、志賀 |
5対2 |
書記局 |
野坂第1書記、志田、紺野。竹中追加 |
宮本。春日(庄)追加 |
4対2 |
統制委員会 |
春日(正)統制委員会議長、松本(惣) |
蔵原、岩本 |
2対2 |
排除中央役員 |
伊藤律除名。(伊藤系)長谷川、松本三益、伊藤憲一、保坂宏明、岩田、小林、木村三郎 |
神山、中西、亀山、西川 |
(8対4) |
総体 |
伊藤律系を排除した上での、武装闘争指導部責任・個人責任者の全員を継承 |
4人を排除した上での、旧反徳田5派との「手打ち」 |
|
宮本顕治は、NKVDスパイ野坂参三と、まる27年間野坂・宮本指導部体制を
続けた。それは、1955年7月27日六全協から1982年7月31日第16回大会
で、野坂参三を名誉議長にするまでである。その間、宮本顕治は、トップの
相手がNKVD工作員であることに、まったく気付かなかったというのか。
宮本顕治は、常任幹部会責任者就任目的のためには、手段を選ばず、ソ連共産党・中国共産党が注文・指令した、すべての条件をのみ、NKVDスパイ野坂参三とトップ・ペアを組んだ。そして、実質的な党最高権力者になった。以上からも、1955年の15億円党本部受領もまた、完全な事実である。
12、シベリア抑留により具体的恩恵2つを受けた唯一の革新政党
〔小目次〕
日本共産党は、自らを唯一の~政党とか、最大の~党と規定することが好きな政党である。2002年、日本共産党の創立80周年において、発達した資本主義国では最大の共産党と自己讃美している。ところが、これは不破・志位が得意とする科学的社会主義式な言い方であり、詭弁である。なぜなら、1989年から1991年にかけて、東欧・ソ連という10の社会主義国家とその前衛党がいっせい崩壊した。それと連動するように、資本主義ヨーロッパにおいて、コミンテルン型共産党は、ポルトガル共産党以外、すべてが終焉を迎えているからである。
フランス共産党は、1994年1月、第28回大会において、(1)民主主義的中央集権制とはレーニンの反民主主義的な上意下達式組織原則という誤りだったとした。その放棄に賛成1530人、反対52人、棄権44人という採決結果で、それを放棄した。フランス共産党は、(2)プロレタリア独裁理論も、(3)マルクス主義も誤りとして放棄宣言をしているので、もはや比較できるレベルのレーニン型共産党ではない。
よって、日本共産党が、その世界的地位の自己規定をするなら、資本主義国で、ポルトガル共産党と並んで、2つだけ残存しているレーニン型共産党である。残存2党の内では、日本共産党の方がより大きい、という科学的な「日本語」を使うべきであろう。ヨーロッパでの終焉結果については、『コミンテルン型共産主義運動の現状』で分析してある。
しかし、自己讃美が好きな日本共産党も、従来から、日本国民約60万人シベリア拉致・抑留問題、うち極寒(マローズ)殺人死亡者6万人問題についての、自己の関与規定には、ほほかむりをして、臭いものにフタの姿勢をとってきた。日本共産党と左翼知識人にとって、シベリア抑留問題は、今もって開かずの扉の奥にあるタブーである。
ところが、ソ連崩壊後、シベリア抑留問題に関して、ロシア人研究者3人のソ連機密資料発掘・研究、アメリカ人研究者のマッカーサー文書の分析という4冊の研究文献が出版された。また、劇団四季が、オリジナル・ミュージカル『異国の丘』を創作・上演して、大好評を受けた。
そこから、(1)赤旗梯団33隻の1万数千人の集団入党・約21億円の共産党カンパ問題、(2)徳田球一「要請(期待)」問題、(3)宮本顕治の「抑留記批判発言」問題、(4)野坂参三の「NKVDスパイ事実と民主化運動提案事実」問題、(5)抑留期間中の3回108億円ものソ連共産党が支払った日本共産党への資金援助問題という5つのテーマを再照射する必要性が浮上してきた。
ただ、残念なことに、ソ連崩壊後、日本人研究者で、ソ連機密資料またはマッカーサー文書、GHQ文書を使って、シベリア抑留問題研究文献を出版した人は、一人もいない。
このファイルで、いくつか引用した『シベリア捕虜収容所』(明石書店)が、日本人の書いた代表的な研究書といえる。著者若槻泰男玉川大学教授は、従軍体験があっても、直接のシベリア抑留者ではない。これは、シベリア抑留全過程を分析した、1979年初版(サイマル出版会)の研究文献で、当時までの判明状況を総括した475ページの大著である。しかし、1991年ソ連崩壊後に発掘されたデータを含んでいない。
4冊の研究書と5つのシベリア抑留に関する日本共産党問題再照射から判明したことは、次である。それは、日本共産党は、ソ連共産党・スターリンによる約60万人シベリア拉致・抑留犯罪、6万人にたいする未必の故意の極寒(マローズ)殺人犯罪、1017人への拷問犯罪の結果にもかかわらず、それにたいする抗議どころか、むしろ逆に、その犯罪にたいする積極的協力者・共犯者となった。
その見返り報酬として、(1)1万数千人の集団的一時入党者、(2)時価約21億円もの共産党カンパを手に入れるという具体的恩恵2つを受けた唯一の革新政党だった、という歴史的事実である。
日本共産党が、シベリア抑留問題に関して公表している総括内容レベルは以下である。
(1)、『日本共産党の七10年・上』(P.195)。ポツダム宣言に違反する日本人捕虜などのシベリア・中央アジアなどへの抑留と強制労働にたいして明確な批判的立場をとらなかった誤りもあった。
(2)、『同・年表』(P.112)。1945年8月下旬~46年6月。ソ連、ポツダム宣言などに違反して日本軍人と逮捕した日本人等をソ連に強制的に送る-抑留者総数六三万九七七六人――うち日本人六〇万九四四八人、死者六万一八五五人。そのほか中国人、朝鮮人ら二一三人が死亡――全国抑留者補償協議会発表によるソ連内務省軍事捕虜・抑留者担当総局資料。
これら2つ以外に、日本共産党は、いかなる文書にも総括内容を記載していない。
そもそも、(2)は、総括内容などではなく、データ記載のみである。しかも、ソ連側データのみで、日本の厚生省データを完全に無視している。
(1)の内容だけが一応の「総括」であるが、これはまるで総括にもなっていない。日本語とは、便利なもので、明確な批判的立場をとらなかった、と書くと、あたかも、本心は、批判を持っていたのに、という気持ちを内包する言いまわしである。
ところが、立場の実態は、宮本顕治「抑留記批判発言内容」問題や、上記の状況証拠が証明するように、スターリン崇拝・ソ同盟隷従の共産党として、批判的立場どころか、まったく逆の抑留讃美・抑留全面賛成の立場だった。それだけでなく、集団入党・共産党カンパという具体的恩恵2つを受けた唯一の政党だった。
『日本共産党の七十年』(日本共産党中央委員会)は、1994年の発行である。偉大なスターリンをけがすもの、こんどだけは見のがしてやるが、と抑留記批判発言をし、ソ同盟讃美の「前衛論文」を発表した宮本顕治は、『党史』発行の3年前、すでに、その立場を180度逆転させていた。
1991年、ソ連崩壊に直面して、ソ連の崩壊をもろ手をあげて歓迎する、と発言した。さらに、1994年、第20回大会では、ソヴィエト社会主義共和国連邦は、実のところ、社会主義国家ではなかった、と規定し、世間をあっと驚かせた。
それなら、同年発行の『日本共産党の七十年』において、社会主義者ではないスターリンが犯したシベリア拉致・抑留犯罪、未必の故意に基づく極寒(マローズ)殺人犯罪について、批判的立場を明確にして、突っ込んだ総括をし、公表すべきだったであろう。
ただ、シベリア抑留問題で、崩壊ずみのソ連共産党批判をやろうと思えば、自党の犯罪協力・共犯発言・行為・恩恵事実という患部の摘出手術をしなければならない。そのような手術の痛みと、それがもたらす国民による日本共産党への批判噴出を、いまさら引き起こすような総括をしないで、臭いものにフタ政党、風化まち政党であり続ける方が、楽なのであろう。
(1)シベリア抑留体験者や、(2)朝鮮戦争後方基地かく乱戦争に参戦した共産党員兵士たちは、2010年現在、全員がすでに80歳前後になっている。戦争体験とともに、それらの特異な戦後体験を風化させない上で、ミュージカル『異国の丘』は、大きな意義を持っている。
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シベリア抑留関係
木内信夫 『旧ソ連抑留画集』
ソ連抑留記『青春の足跡』
佐々木芳勝『流転の旅路 -シベリア抑留記』
川越史郎 『抑留生活のあと、日本を捨て、家を捨ててソ連に残ったが…』
宮地幸子 『「異国の丘」が強く心に響く』
ステファン・コスティク『ウクライナ人捕虜から見た日本人捕虜』
逆説の戦後日本共産党史関係
『逆説の戦後日本共産党史』ファイル多数