アンダマンナイト

南の島から言わせてもらおう

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カズといえば、キング・カズを措いて他にいませんが、ミウラ・カズヨシなら、50歳以上の方は、ロス疑惑の三浦和義氏を思い浮かべるのではないでしょうか。
「フルハムロードの三浦さん」は、最盛期には、キングを上回る知名度があったと思います。

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三浦さんが初めてテレビに登場したのは、1982年の1月でした。
ロスアンゼルスで観光中に銃撃され意識不明の重体だった奥さんを日本に移送するために、発炎筒で米軍のヘリコプターを誘導して、着陸させる場面がニュース番組で全国に流されました。コメントを求められた三浦さんは号泣し、現場レポートを担当していた若かりし日の逸見政孝さんがもらい泣きして、目からボロボロ涙を流しながら、「本当にひどいことをしますね・・・」と絶句していたのを思い出します。

報道する側は、奥さんが植物人間となり、途方にくれる悲劇の夫・・・という筋立てで番組を作っていたわけですが、見た目派手な男性が、大きなアクションで上空のヘリに両手を振る姿に、なんとなく、「変な感じ」を受けた人も多かったのでしょう。2年後の84年1月に週刊文春が「疑惑の銃弾」と題して、三浦さんが仕組んだ1億6千万円の保険金殺人の疑いあり、と報じると、「やっぱり、そうだったのか・・・」と妙に納得するところがあって、一気に話題が沸騰し、日本中を揺るがす大騒動に発展しました。

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現在、各方面から文春砲と恐れられる同誌のルーツは、このスクープにあったと思います。しかし、この事件を国民的関心事にしたのは、やはりテレビの果たした影響が大きく、テレビ朝日の深夜番組「トゥナイト」がそのきっかけを作りました。日テレの「11PM」と比べ、なんとなく中途半端でパッとしなかった「23時ショー」を衣替えしてスタートしたこの番組の目玉は風俗レポートで、ピンク映画の山本晋也監督が、「ほとんどビョーキ」のフレーズでブレイクした一方、社会性の強い事件や事故も、積極的に取り上げており、番組の地位を確たるものにしたのがロス疑惑の追跡でした。

文春と二人三脚のような形で、「来週の発売号では・・・」と思わせぶりな「予告編」で、視聴者の興味を引っ張り、次週の放送では独自取材の新ネタもぶつけて、さらに関心を煽る・・・、なかなか、うまい構成だったと思います。司会の利根川祐さんがまた絵に描いたような「いい人」で、「テレ朝の深夜番組」といえば、なんとなく嘘っぽく、如何わしい目で見られがちなハンデを見事に克服して、ロス疑惑をメジャーにした影の功労者(?)だったのかもしれません。

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また、時を同じくして、「スケベ」と「株」、「お正月の時代劇」以外のイメージがなかった当時のテレビ東京が、どういう理由か、世界の政治や経済を分析する「星からの国際情報」という番組をやっていて、そこで取り上げられたことも、この話題の業界での位置づけを大いに上げる結果になりました。
世界情勢を語る番組で、「日経平均が遂に1万円を突破した!」という時勢の中、ロサンゼルス在住の大森実さんが、東京スタジオの大宅映子さんと国際衛星放送を結んで、「三浦何某の疑惑追及には、メディアの真価が問われている」とぶち上げましたから、単なる週刊誌のスキャンダルが、「社会正義のため」という錦の御旗を掲げることになります。

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そして、マスコミ各社が血眼になって三浦さんの身辺調査をやった結果、様々な事実が明るみに出ました。
・三浦さんの奥さんは、事件の3ヶ月前にも、同じロスアンゼルスで、アジア系の女にホテルで襲われ軽症を負っていた。犯人は、三浦氏の愛人で、元ポルノ女優だった。
・三浦さんの愛人で、彼が経営するブティック、「フルハムロード」の役員だった女性の変死体がロスで発見され、この女性の渡米と同時期に三浦さんもアメリカに入国していた。三浦さんは、帰国後、女性の口座からカードを使って計42回、426万円を下ろしていた。
・「フルハム・ロード」で小火があり、保険金の支払いを受けた過去がある。赤字経営による多額の借金を返済するための自作自演だったのでは、との憶測が広がる。
・上記を補強する話として、少年時代、放火の罪で少年院送りになったが、事件翌日の新聞には、「お手柄少年」という見出しで、火事を通報した三浦少年を賞賛する記事が載っていた。

状況証拠を並べていけば、明らかに怪しく、テレビに出演した三浦さんの矛盾に満ちた受け答えが、さらに、それを増幅させていきました。疑惑→追求→三浦さんのテレビ出演→さらなる疑惑・・・という方程式が延々と続き、中には事件と関係のない話も多く出て、当時流行し始めたスワッピングのパーティーに三浦さんと後妻が参加したと思われる写真が公開されたこともありました。三浦さんが書いた「不透明な時」がベストセラーになったのもこの頃です。

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アメリカから捜査担当の刑事、ジミー佐古田氏が来日し、テレビで三浦さんの欺瞞を訴え、直接対決したのも大きな話題になりました。この人は、事件の発端から、三浦さんの証言には不可解なものがあると疑問を持っていましたが、独断で突っ走る捜査手法が問題となって、一時期捜査から外されていました。
ジミー佐古田氏の登場で、ハンサムな疑惑の夫、元モデルで美人の後妻、事件を追う日系の敏腕刑事と役者が揃い、その他の関係者もほぼ全員、顔出しの実名報道で、「ドラマ」は、いよいよ佳境に入っていきます。

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「人の噂も75日」どころか、「疑惑の銃弾」の連載開始から、約2年間に渡って日本中の話題を独占する中、三浦さんが突如、国外脱出して、「逃亡したのでは・・・?」と憶測が流れる中で、数週間後にロンドンで潜伏中の姿が確認され、やがて帰国し、いよいよXデー間近と騒がれた、85年9月11日、遂に三浦さんが殺人未遂容疑で逮捕されると、「一件落着」ムードが広がり、騒ぎは次第に終息していきました。

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裁判では、一審で有罪、2審で逆転無罪となり、最高裁まで争われ、三浦さんは2003年3月に無罪判決を勝ち取ります。国外の事件で実行犯や凶器も特定されていない状況では、そもそも起訴が難しかったという意見が多かったと思います。

騒動から、20年近く経過していたこともあり、さんざん犯人扱いしてきたメディアは、無罪判決を積極的に扱うことはなく、静かな幕切れとなりました。その後の三浦さんは、バラエティーに出演したり、万引き事件を起こしたりするものの、大した話題になることもなく、人々の記憶の中から徐々に消えていきました。

ところが・・・
2008年2月22日、「ロス疑惑の三浦さんがサイパンで逮捕された」というニュースが伝わります。
言われてみればそうなんですが、「サイパンは、アメリカだった」ということに、すぐピンときた人は少なかったでしょう。それは三浦さんも同じだったようです。

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そして、裏で糸を引いていたのは・・・・、やはり、ジミー佐古田氏でした。
まだ、諦めてなかったのか・・・
と正直驚きましたが、日本で無罪が確定したといっても、「アメリカでは、決着がついていない」と逮捕のチャンスを窺がっていたようです。三浦さんのブログを毎日フォローして、サイパン旅行の計画を知った佐古田氏は、イミグレーションと現地警察に手を回して待ち構えていました。もの凄い執念です。

罪状は、殺人罪および殺人の共謀罪でした。
三浦さんは弁護士を立て、一事不再理(日本で決着済みなので、米国で再審できない)を根拠に争い、殺人罪は無効となったものの、共謀罪は有効との判断で、ロスアンゼルスに移送されます。
逮捕から18年間の法廷闘争で、「ようやく決着がついた」と思っていた三浦さんにはショックが大きかったようで、10月10日、因縁のロスに移送されたその日、留置場で首をつって自殺しました。
享年61歳。妻と愛人が命を落としたロスで、彼も人生を終えることになりました。

従来の情報収集や捜査手法、司法ルールによる追求を、すべてかわしてきた三浦さんも、持ち前の無用心さがたたって、SNSの影響力に止めを刺されることになってしまいました。
海外での事件ということで、真相解明には様々な障害がありましたが、こんなところにも、ボーダーレス化、グローバル化の波が忍び寄っていたようです。

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劇場型犯罪・・・とよくいわれる中で、ロス疑惑ほど、ショー的な要素が強かった事件はありませんでした。そして、その原因を作ったのは、各メディアの報道姿勢にも確かに問題はありましたが、三浦さん本人だった思います。妻が銃撃死し、愛人が変死体で発見されたというのに、彼の言動は、そういった重い事実を、まるで感じさせませんでした。

マスコミからは終始スターのように扱われ、疑惑の追及が始まってからの2年間は、彼の人生で、ある意味、頂点にあったのかもしれません。しかし、裁判が始まり、無罪になり、万引きで送検され、再逮捕でロスに送還、そして自殺と続く中で、メディアの扱いは、どんどん小さくなっていきましたから、彼にとっては寂しい最期だったと思います。三浦さんが名誉毀損裁判を476件も起こし、その多くで勝訴した影響もあったのでしょう。

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恐らく、当時、テレビを見ていた人の大多数が、彼を「クロ」と断定し、「結局、無罪になった」という結末には納得できず、なんとなく、すっきりしないものを感じていたと思われます。しかし、ドラマはクライマックスで、どんでん返しとなり、一応の収まりがついた形になりました。

常に話題の中心にいた三浦さんが、最後の最後で、ジミー佐古田さんに「主役」を持っていかれた・・・そんなラストシーンでした。

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1980年代の初頭、海外旅行は既に一般化しており、田中康夫さんの「なんとなく、クリスタル」が話題になって、若者たちが贅沢な暮らしに憧れる風潮が強くなっていく中、杏里さんの「思いきりアメリカン」がヒットしていました。サンタモニカ、ヨットパーカー、パーム・ツリー・・・、時代は、まさにウエスト・コーストだったのです
そして、その歌詞は、三浦さんの人生をなぞっているようでした。

♪ 旅に出ると いろんなことが見えてくるわ だからあなた さがさないで 私は変わるの
♪ 私は気ままな風 だからさり気なく手を振るわ これであなたにさようなら

憧れの地・ロサンゼルスで事件は起こり、ロサンゼルスで、すべてが終わりました。

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