日航機墜落事故から33年 9歳の息子が遺した“宿題”
- 「喪服も遺族と言われるのも嫌」と立ち上がった遺族たち
- 事故で失った9歳の息子の話ができるようになったのは最近
- 「何気ない日常」「家族の大切さ」遺族たちの告白
こんな悲劇があってよいものなのか…。
1985年8月12日。
群馬県の御巣鷹の尾根に乗客乗員524人を乗せた日本航空123便が墜落した。
4人が奇跡的に助かったが、520人もの人々が尊い命を奪われた。
また明日も会える…そう思っていた大切な人が突然いなくなってしまった。
あれから33年。
8月16日放送の「シンソウ!坂上」では、番組MCの坂上忍が墜落現場の御巣鷹の尾根へと赴いた。そこには、大切な人を失ったある遺族がいた。
事故の痕跡を目の当たりにした坂上は何を思うのか。
事故から33年経った、今だからこそ話せる遺族の告白に迫った。
「自分を責めることしかできなかった」
「御巣鷹」で坂上を待っていた、遺族の会である「8.12連絡会」の事務局長を33年間務めてきた美谷島邦子さん。9歳の息子・健くんを亡くした。
野球が大好きだった健くんは、夏の甲子園で憧れのPL学園を応援するため、大阪の親戚の家を目指していた。生まれて初めてのひとり旅だった。
美谷島さんは「息子を空港まで見送りに行って、家に帰ったらテレビのニュースで123便の機影が消えた、と。すぐに羽田へ引き返しました」と語り始めた。
「ずっと、絶対に生きていると思っていました」とこぼす美谷島さんだが、墜落から3日後の当時のテレビニュースでは、現場を訪れた美谷島さんの悲しみに暮れる様子が映されていた。
美谷島さんは息子の名前を叫び、「もう諦めないといけないのね…」と涙を流していた。
その映像を見た坂上が当時の心境を問うと「目の前に遺体が並んでいたときに、息子は木に引っ掛かっているんじゃないかと、それくらいは思いました。後悔しかないです、自分を責めることしかできなかった」と打ち明けた。
御巣鷹の尾根の案内図には、遺体が見つかった場所が記され、その場所には墓標が立っている。
事故当時、群馬県藤岡市の小学校や中学校などの体育館に犠牲者たちの遺体が安置された。
美谷島さんは「一つずつ棺を開けながら確認をしていく、それは辛い作業でした。健は右手で確認しましたが、あとは確認できなくて…。『会いたい、連れて帰りたい』と思っていたので、発見されただけでもうれしかったですね、連れて帰れますから」と話した。
同じ悲しみを抱えた遺族が遺族に救われる
美谷島さんは、事故から4か月を過ぎたころ、遺族たちを中心に「8.12連絡会」を立ち上げた。
「息子を一人で飛行機に乗せてしまって、自分を責める気持ちから逃げられなかった。その時に四国から電話があって、娘さんを亡くされた方から。健の隣の席だったんです。その方から『娘は子どもが大好きだったから、手をしっかり握ってくれていたと思いますよ』と言ってもらえて、どうしようもなかった気持ちが救われた。遺族はやっぱり遺族で、それが原動力になりました」
遺族たちは悲しみも怒りも背負っていたが、「8.12連絡会」を立ち上げた当初の気持ちは「会の名前も遺族って文字を消して、遺族という枠を超えて、世界の空の安全を促したいと。もう喪服を着るのも嫌だし、遺族と言われるのも嫌」という思いだったという。
ただ、最近では遺族たちや御巣鷹の存在自体にも変化がみられるという。
「東日本大震災の遺族や御嶽山の遺族たちが私たちの会報を読んだりして、登ってきてくれるんです。悲しみってつながるんですね。一人じゃないというのもそうですが、大切な人を胸に抱きながら登ってくると力をもらえる、私たちも力をもらえます」
33年が経った…遺族たちの今
事故から21年経った2006年には、「8.12連絡会」の要望がきっかけとなり、残存機体の保存・展示を目的とした「安全啓発センター」がオープンした。
当初、日航側は残存機体を破棄したいとしていたが、遺族の安全への願いが日航側を動かした。
事故から33年。
墜落地点の「昇魂之碑」の近くに設けられた短冊掛けには、最近では航空、鉄道、医療関係など命を預かる人たちの安全を誓うメッセージが多くなっているという。
今回、番組では4組の遺族たちを独自に取材。その証言や各種の記録、資料をもとに再構成し、遺族たちがどんな思いで生き抜いてきたのか、壮絶な人生をドラマ化した。
事故で3人の娘を失った田淵さん夫婦は、長い間、深い悲しみの中でもがき続けた。3人の娘は、つくば科学万博、東京タワーなどを旅行した帰りだった。
長女のカメラは奇跡的に破損を免れ、フィルムには旅行中の3人の笑顔が焼き付けられていた。
抜けられない悲しみから少しずつ立ち上がった田淵さん夫婦は、事故の前日の8月11日に行われる灯篭流しに2018年も二人で参加した。
最愛の夫を亡くした谷口真知子さん。免許証を包んだ紙には夫から「子供をよろしく」といった家族へのメッセージが残されていた。
真知子さんは、夫からの言葉を見て、悲しみから立ち上がり、一歩ずつ歩き出した。
当時、13歳と9歳だった2人の息子は今ではそれぞれ家庭を持ち、孫も生まれた。孫から「パパのパパに会いたかった」と言われ、真知子さんは孫の世代にも事故や遺族の思いを伝えることが必要だと、夫が植えた柿の木を題材にした「パパの柿の木」という絵本を出版。
読み聞かせのために各地の小学校をまわり、絵本に感動した地元のアーティスト・北川たつやさんが「茜空」という歌も作った。
北川さんは事故が起きた年に生まれたことに縁を感じて、作詞作曲をした「茜空」の歌詞は「涙は枯れることはないけど 失った以上に新しい光が差した 幸せなときありがとう」と、亡き夫への感謝を込めた前向きな歌である。
真知子さんは「ただ単に事故があったとか、亡くなった人がいたとか、そういうことを伝えたいわけではなくて、命の大切さや何気ない日常のありがたさを伝えたいと思って、そういう思いを知って生きるのと、知らないで漫然と生きるのとでは生き方が違ってくると思うので、これからも活動をしていきたい」と決意を新たにした。
夫と子どもたちと植えた柿の木は、今も真知子さんの家の庭から家族たちを見守っている。
大好きだった父親を亡くした折田(旧姓:村上)みきさんは、両親が生まれ育った北海道へ母親と戻っていた。月日が流れ、教師になったみきさんは、子どもたちが夏休みに入る前にある話をするようになったという。
それは、父親の話。みきさんは、生徒たちに向けて、家族がいることの大切さ、それが当たり前ではないことを伝えている。
そんなみきさんは、「ちゃんと生きていくことが父の最後の願いだとすれば、ちゃんと生きていくしかないと。毎年、御巣鷹の尾根に行っても、『みんな元気でやってます』しか言うことないんですけど、安心してくださいということを報告に行っています」と打ち明けた。
健くんはまだ9歳のまま…
美谷島さんと御巣鷹の尾根を登り、健くんの墓標前までたどり着いた坂上。
墓標の周りには、キャラクターグッズがたくさん置かれていた。坂上も、健くんの墓標にそのキャラクターの本を置いた。
墓標を前にして坂上は「ふと、思ったんですけど、今年で健くん42歳。ちょうど、僕と良いお酒が飲める年に…」と話すと、美谷島さんは「私は、お酒を一回も持ってきたことがない」と明かした。
「いつか持ってこよう」と思っているそうだが、美谷島さんの中で健くんはまだ9歳のままなのだという。
「1年目は『健ちゃん』というだけで涙を流していました」そう話す美谷島さんが、健くんの話ができるようになったのは最近だという。
「東日本大震災のご遺族の方が、自分のお子さんの話をされていて、すごいなと思いました。勇気をもらいました」
美谷島さんは3年前から小学校や幼稚園で、“命の大切さ”を子どもたちに伝えるために、健くんの話をするようになったという。
そして、これからやるべきこと、やらなきゃいけないことについて坂上が問うと、美谷島さんは「健が残した宿題があって、それはこの事故のことを僕のお友達に伝えてほしいということ。過去のことに蓋をしないことが大事」と風化させないことが大切であり、使命であると語った。
「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54