今、女児向けアニメのグッズレーベル「プリティーオールフレンズ」から発売された「ビッグクッションカバー」に対して、批判が起きている。
「プリティーオールフレンズ」とは、ダンスとフィギュアスケートを融合させた架空のスポーツ「プリズムショー」を軸にしたテレビアニメ『プリティーリズム』三作品(『プリティーリズム・オーロラドリーム』『プリティーリズム・ディアマイフューチャー』『プリティーリズム・レインボーライブ』)と、誰でもアイドルになれるサイバー空間「プリパラ」を舞台にした二作品(『プリパラ』『アイドルタイムプリパラ』)の主人公をモチーフにしたグッズのシリーズである。
アニメの主なターゲットは女児だが、『アイドルタイムプリパラ』放映終了直後から始動した「プリティーオールフレンズ」は大人向けの商品をラインナップしている。今まではキャラクターをデザインしたフレグランスなど、化粧品を主力商品として展開されてきた。
今回問題になった「プリティーオールフレンズ ビッグクッションカバー」は、五作品の主人公が水着を着て寝そべっている書き下しイラストがあしらわれたものだ。株式会社ICREAが企画・制作し、2018年の夏のコミックマーケットにて、1万円で販売されることが発表された。
それに対してインターネット上で韓国・日本のファンが「子どもを性的な商品にするな」と批判。そうした批判に反発するファンも出てくるなど、ビッグクッションカバーへの賛否が入り混じっている。この騒動ののち、ICREAから当該商品の販売方法を通販に変更すると発表されている。変更の理由は明かされていない。
今回の件について、筆者は批判のメールをICREAに送った『プリパラ』ファンの一人である。この文章を執筆している最中に販売方法の変更が発表され、多少ゾーニングが強化されたとは感じたものの、やはり公式から販売してよい商品であるとは考えない。というのも筆者は単純に「性的な抱き枕カバー」を問題視しているわけではない。「女児向けアニメが」「公式に」「成人向けの」「性的な抱き枕カバー」を発売したことを問題視しているからである。これらの諸要素が「合体した」ために、露骨に「まずい」ものになっていると考えている。
フォーマット
くだんの抱き枕のデザインを確認するところからはじめよう。
五人のキャラがそれぞれ露出度の高い水着姿(この水着は本編に出てきたことはない)で寝そべっている様子を描いた書き下しのイラストである。おもて面は仰向け、裏面は横向きないし顔だけこちらに向けた後ろ姿、という柄は、成人向け抱き枕カバーでは非常にポピュラーなデザインだ。
「ビッグクッションカバー」という名前だが、150cm×50cmというと、成人向け抱き枕カバーとして一般的なサイズである。イラストから見ても、フォーマットから見ても、これは「成人向けの性的な抱き枕カバー」の文脈上にある。子どもが見ても性的なものであるとはわからないから問題ないという意見もあったが、これは「子どものためのものを作る大人」の問題として考えるべきだろう。
なぜ「子ども向けアニメの公式から」発売されることが問題なのか?
子ども向けアニメには非常に大きな社会的役割がある。それは子どもの自己認識/他者認識の形成に深く影響を与えることだ。
「レプリゼンテーション」という考え方がある。「自分を代表(=レプリゼント)する者」がいかに表象されているのかを、社会的なメッセージとして受け取ることだ。この発想は自覚の有無に関わらず存在する。
この考え方に照らせば、女児向けアニメに出てくる登場人物の多くはみな子ども自身の投影先であり、自己を代表させる存在である。あるいは現実に関わる他者の代表でもある。子どもたちはキャラクターを自身の身代わり、あるいはそのものとして認識し、物語を通じて価値観を学びとっていく。子どもに向けて放映する作品には、極めて大きな社会的意義があると言えるだろう。
女児アニメのキャラクターを用いて公式が性的な商品を出す行為は、この社会的意義に対して無責任であると言わざるを得ない。子どもの性的客体化を容認するのと同義だ。
「女児のためのセクシー」がかなう領域
ここで明記しておきたいのは、女児自身のためのセクシーと、成人向けのセクシーは、やはり異なるものとして考えるべきだということだ。子どもがセクシーなデザインに憧れる気持ちは尊重すべきであるが、その一方で子どもの性的客体化は忌避せねばならない。
『プリパラ』を例に考えてみよう。
筒井晴香氏はワークショップ「日本のサブカルチャーはダイバーシティに耐えるか」で、『プリパラ』には消費の文脈が複数あることを指摘している(参考:https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2017/03/post-870/)。
筒井氏は『プリパラ』を「安全で」「正しく」「お行儀のいい」作品ではないとし、性的なシーンも含め、消費の文脈をあえて線引きしない「猥雑さ」と「おおらかさ」が作品特有の魅力を生んでいるとしている。
「性的なシーン」の例に挙げられたのは、49話「いもうとよ」である。アイドルのマネージャーであるクマ(声もパーソナリティも完全に成人男性だが、見た目はクマのマスコット)が、同じくマネージャー業をするウサギ(クマ同様見た目以外はほぼ成人男性)の妹・ウサチャをそそのかし、相手が妹だとは分かっていないウサギを性的に籠絡させるという、きわどい一幕だ。妹を「ネコ姉さん」(ウサギとクマが懸想するネコで、パーソナリティは成人女性)だと思い込み、ねこじゃらしで体を愛撫されて喘ぐウサギの姿に、筆者は「私は何を見せられているんだ……?」と驚愕した記憶がある。
同じ構図が、もしアイドル本人だったら、あるいはクマやウサギが現実の成人男性であったら、何も笑えなかっただろう。しかしあくまで小さなぬいぐるみが滑稽に身をよじる様子として描かれるので、まだ笑って見ていられる。いわば「ネタ」だ。
また、登場キャラクターの水着姿自体は作中何度も出てくるし、水着姿のライブシーンもある。
しかしサイバー空間「プリパラ」内に入れるのは一部の例外を除いて原則女性のみだ(※1)。したがってライブ会場を埋めるファンはみな女性、それも主に少女=「友達」である。男性ファンが出てくるシーンもあるが、存在感は薄い。女児のためだけのセクシーを成立させるには、それを性的に観測する存在を同じ平面に入れてはならない。現実の女性アイドルのライブ会場を男性ファンが埋めていることを考慮すれば、ここでも「ずらし」が行われていることがわかる。
(※1)『アイドルタイムプリパラ』では原則として男性のみが入れるプリパラ「男プリ」が登場し、プリパラとの合同ライブも行われるが、あくまで「合同」であり、融合はしない。
同ワークショップの総括として、筒井氏はこう述べている。
各提題で示された状況は次のように一般化して示すことができるだろう。日本のアニメ作品やその受容においては、一方で「ネタ」としてステレオタイプを反復しつつずらすことで生まれる、ドミナントな規範に対する攪乱性・批判性を持った多様な表現が、制作のみならず受容者の想像的な消費を通して生じている。他方で、そのステレオタイプが「ベタ」に受容されてしまうことで、単なるドミナントな規範の反復・強化になってしまうという側面もあり、両側面のせめぎ合いの状況がある(※2)。
(※2)【報告】「日本のサブカルチャーはダイバーシティに耐えるか」 もちろん「いかに撹乱するか」「いかに批判するか」というずらしの手法自体への評価が別途存在する。
プリパラは確かにある種のセクシャルな要素を含んでいるが、その描写の多くは「ずらし」によって巧妙に「ベタ」な性行動を遠ざけることで成り立っている。今回の「ビッグクッションカバー」は、まさに作品が今まで遠ざけてきた「ベタ」の接近そのものであった。この商品は『プリパラ』が丁寧に構築してきた撹乱性を尊重していないのだ。
「ゾーニングが必要な女児アニメの公式商品」?
「そもそもゾーニングなど必要ない」という反発もあったが、少なくとも制作サイドはそう考えていない。この商品が他の商品と異なる扱いを受けていることは明らかだ。
まず、この商品は通販に販売方法を変更するまでは「イベントでの不定期販売」とサイトで明言されていた。今までプリティーシリーズの公式アイテムがコミックマーケットで発売されることは何度もあったが、多くの場合はコミケで売られたのち「プリズムストーン」というプリティーシリーズの商品を扱うショップの店頭に並ぶ。イベントのみの不定期販売が最初から明言されている例はごく珍しい。
また、ICREAが制作したプリティーオールフレンズのグッズはこのカバー以外に複数の商品があるのだが、公式サイトには当該商品だけが掲載されている。Twitterを見るとその理由がなんとなく見えてくる。カバー以外の商品はTwitter上で商品画像とともに紹介されているのに、カバーだけは画像添付がなく、「デザインはこちら」という文言とともにICREA公式サイトへのリンクが貼られているのだ。URLのサムネイルに画像が出ることもない。これらの商品紹介は、現在放送中のプリティーシリーズ最新作「キラっとプリ☆チャン」の公式アカウントでリツイートされている。
ここから考えられるのは、Twitter上であのカバーのデザインをそのまま公開することに問題があったために、カバーだけ公式サイトで紹介を載せてリンク先で見てもらうようにした、という流れである。これらの材料から、公式側が「売り方に配慮が必要な商品」と認識しているように考えられる。
これらの配慮はゾーニングとしてある程度機能しているが、子どもが簡単にアクセスできる場所に情報が置かれているのは変わりない。そもそも子ども向けアニメがゾーニングを必要とする商品を公式に販売すること自体に疑問を感じる。
「あるがまま」の肯定
私自身、『プリパラ』には何度も救われてきた。一貫してキャラクターの「あるがまま」を肯定する作品だったからだ。『プリパラ』では、自分がそうありたいからというだけで異性装をしている子、多動性の強い子、攻撃的な子、二重人格の子など、多様な属性を持つ人々が一切否定されずに描かれる。複雑な生をそのまま受け入れる価値観が子ども向けアニメで提示されたことを、筆者は非常に心強く感じてきた。
だからこそ、制作サイドには作品が社会の中で果たす役割について、あらためて熟考してもらいたい。「公式」から発売することの意味は、決して軽くない。
参考文献
【報告】「日本のサブカルチャーはダイバーシティに耐えるか」(最終アクセス8月10日午前0時50分)
筒井晴香「生の肯定としての「み〜んなアイドル」-『プリティーリズム』から『プリパラ』へ-」『ユリイカ 総特集 アイドルアニメ』(青土社、2016年)
堀越英美『女の子はなぜピンクが好きなのか』(Pヴァイン、2016年)