新書だけでも、『李鴻章』『袁世凱』(ともに岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『日中関係』(PHP新書)、『中国の論理』(中公新書)など精力的に著作を発表している著者ですが、今回のタイトルはなんと『世界史序説』。近年、流行しているグローバル・ヒストリーに対し、東洋史の立場から「もう一つの世界史」を提示するという非常に野心的な内容となっています。
 正直なところ、著者の描き出す世界史像がどれだけの実証性を備えているものなのかはわかりませんが、地中海→大西洋→グローバルといった形で描き出されることが多い「西洋史」からの「世界史」ではなく、農耕民と遊牧民が混ざり合うユーラシアから描き出された「世界史」は非常に刺激的です。

 目次は以下の通り。
はじめに 日本人の世界史を
第1章 アジア史と古代文明
第2章 流動化の世紀
第3章 近世アジアの形成
第4章 西洋近代
おわりに 日本史と世界史の展望

 近年、さかんに「グローバル・ヒストリー」という言葉が使われるようになり、歴史を国別ではなく世界全体から見る、さまざまな地域の関係性を見る、といったことがさかんに行われるようになっています。
 また、以前は大航海時代以降はずっと西欧が世界をリードしていたという視点が一般的でしたが、例えば、ポメランツの『大分岐』では産業革命前までは中国や日本も同じように発展しており、さまざまな偶然から起こった産業革命によって「大分岐」が生じたという見方が打ち出されています。

 しかし、著者はこうした見方もあくまでも西洋中心の歴史であり、西洋と東洋のさまざまな質的な違いを無視した議論だといいます。
 現在の「世界史」においては、時代区分なども西洋史のものを当てはめるような形で考えられており、いわば、西洋の歴史を説明するためにつくられたさまざまな図式に東洋の歴史を無理にはめ込んだようなものなのです。

 そこで、この本ではまず、宮崎市定にならって文字の排列法に注目し、右から左の西アジア、左から右の南アジア、上から下の東アジアに分類します(46p図5)。
 その上で、オリエント、インダス、黄河流域のいずれもが、農耕民族と遊牧民族の隣接地域であることに注目して、ここに古代文明の成立条件をみています。
 例えば、中国では黄河と長江の流域に文明が誕生しましたが、最終的に勝ち残ったのは「中原」と称される黄河流域でした。これは中原が遊牧民族と隣接する地域で、その軍事力や商業ネットワークにアクセスすることが可能だったからだと考えられます。

 4~5世紀は西では西ローマ帝国が滅亡し、東では漢帝国滅亡後の争いが続くという混乱の時代でした。この原因は地球の寒冷化だと考えられています。
 遊牧民族の南下によって西ヨーロッパや中原は混乱し、荒廃した農地を耕作させるために流民を土地に縛り付けて耕作させる制度が採用されました。東アジアでは均田制であり、ヨーロッパでは封建制になります(65p)。
 また、この時代に発展したのが仏教、キリスト教、イスラームといった世界宗教でした。危機の時代にあって信仰の熱が高まったのです。
 現在、仏教は他に比べ信者数などでマイナーな存在となっていますが、この時期には大乗仏教が東アジアに急速に普及しており、日本の遣隋使も「仏教」を一つの口実とした使者だったように(94p)、東アジアを覆う勢いを見せました。

 オリエントでは6世紀になると、東ローマ帝国のユスティニアヌス帝、ササン朝のホスロー1世が、互いに和睦した上で東ローマは西にササン朝は東へと拡大し、繁栄しますが、7世紀になると再び両国は戦うようになります。
 そんな中で誕生したのがイスラームです。アラビア半島で生まれたこの宗教は、シリア、エジプト、ペルシャを征服し、オリエントの統一を成し遂げました。そして地中海も支配するようになったのです。

 一方、中央アジアでは、シルクロードの商業地帯に住んでいたイラン系のソグド人をトルコ系の遊牧民族の突厥が支配するようになります。
 このソグドの商業経済力と突厥の遊牧軍事力の組み合わせは強力で、突厥は非常に大きな勢力となりましたが、7世紀になると唐が突厥を服属させます。唐はソグド人の商業ネットワークとつながるようになり、唐の影響力は中央アジアへと広がっていきます。
 ここに長らく混乱してきた東アジアと西アジアは、唐とイスラームという形でまとまることになるのです。

 しかし、唐は8世紀の安史の乱を境に衰えていき、東ユーラシアの統合は解体していきます。
 一方、西ではウマイヤ朝にアッバース朝が取って代わりますが、アッバース朝からイベリア半島や北アフリカ地域が離脱していき、ウマイヤ朝に比べると東向きな政権となりました。
 中央アジアではトルコ化が進み、ソグド人と融合する形で勢力を広げます。この背景には地球の温暖化があり、草原の再拡大とともにトルコ人の勢力が広がっていったと考えられます(112-114p)。
 中国の北方では、モンゴル系の部族である契丹が勢力を伸ばし、華北に進出し、「遼」と称します。これに対抗するために、中国では「唐宋変革」と呼ばれる変革の中で皇帝に権力が集中するしくみが整えられ、北方の遊牧民族と対峙しました。

 しかし、ここでその均衡を打ち破り、ユーラシアを統合する動きが起こります。チンギス・カン(この本はカン表記)とその子孫たちによるユーラシアの征服です。
 チンギスは武力によってモンゴル高原と中央アジアの統合を成し遂げましたが、その子のオゴデイの代になると、駅伝制度が整えられるなど、巨大な領域を支配する仕組みがつくられていきます。
 モンゴルはさらに金を殲滅させ、ロシアから東欧へと遠征し、アッバース朝を滅ぼしてシリアに進出し、エジプトを窺います。モンゴルの拡大は、南宋攻略を除くと、クビライが大カーンに即位したあたりで停止しますが、モンゴルによってユーラシアは一つになりました。

 モンゴルのもとにはウイグル人やイラン系のムスリムなどが集まり、彼らの商業資本やネットワークを活かす形で広大な地域を支配していきます。
 クビライは都を大都(今の北京)に定めましたが、北京のあたりは農耕世界の北限であり、遊牧世界の南限に位置します(149p)。クビライはこの大都と遊牧世界に位置する開平を拠点に、ユーラシアの商業ネットワークを支配しました。
 税も商業の流通過程から取り立て、また、兌換紙幣を発行し、貨幣経済を拡張しました。

 しかし、このモンゴルも14世紀後半に地球の寒冷化とともに訪れた「14世紀の危機」の中で崩壊していきます。
 中央アジアではモンゴルはトルコ人ムスリムと混淆しティムール朝をつくります。このティムール朝は衰えていきますが、その末裔はインド方面に侵入しムガル朝をつくりました。
 また、西アジアではサファヴィー朝やオスマン帝国が、それぞれモンゴル的な要素を取り入れながらイスラームによってさまざまな民族を包摂しました。
 
 一方、中国では「 反モンゴル」色の強い明が成立します。明は反商業・反貨幣というモンゴルとは対照的な経済政策をとり、貿易も厳しく制限しました。また、遊牧民と農耕民を隔てる万里の長城を改めて構築しています。
 しかし、中国における商業や手工業の発展は深刻な貨幣不足をもたらし、明の海禁政策を揺るがしました。いわゆる「北虜南倭」は北のモンゴルと南の倭寇を差しますが、これは中国経済が貴金属という貨幣を求める中で起こった動きとも言えます。

 明に代わった清は、皇帝が中華の皇帝とモンゴルの大カーンを兼ねることで遊牧世界とのつながりを回復しますが、このころになると交易に中心は陸から海い移りつつありました。
 そこで存在感を増してきたのが、今までユーラシアの中では孤立していたインドです。そして喜望峰をまわってインドに到達したヨーロッパ人たちもインドを中心とした海洋貿易に参加していきます。
 また、ヨーロッパ人が新大陸で発見した銀は中国に流れ込み、中国社会の商業化を進めていきます。さらに中国には隣国の日本からも大量の銀が流れ込みました。

 そして、ここでようやく著者はヨーロッパを論じ始めます(第4章)。ヨーロッパ世界は800年のシャルルマーニュによる西ローマ帝国の復興に始まりますが、ヨーロッパは地中海やオリエントからは切り離されていました。シチリア島は9世紀後半にイスラームの支配するところとなりましたし、ヨーロッパはユーラシアの中で孤立した存在だったのです。
 しかし、温暖化が進むとヨーロッパの農業は生産力を増し、北方にいたノルマン人がシチリアと南イタリアを占領してシチリア王国を建てます。

 このシチリアの王から神聖ローマ帝国の皇帝となり、ルネサンスを準備したと考えられているのが大帝フリードリヒ2世です。フリードリヒ2世はアラビア語やギリシア語を駆使して、近代的な官僚制を整備し、傭兵部隊をつくり上げました。
 フリードリヒ2世の目指したイタリア統一はかないませんでしたが、彼の衣鉢を継ぐような形で北イタリアの都市が発展し、ルネサンスが始まります。商業や金融の技術も発展し、ヨーロッパは地中海、そして大西洋へと乗り出していくことになるのです。

 ヨーロッパではまずスペイン・ポルトガルが世界へ進出し、やがてその地位はオランダ、そしてイギリスへと移っていきます。
 その中でもイギリスは、たんなる海運・通商帝国から政治・軍事的な帝国へと発展していきました。著者はこの背景にイギリスの歴史の中で培われた「法の支配」の存在を見ています。
 そして、産業革命が世界の商品の流れを変えました。今までのスペイン・ポルトガルやオランダはアジアに銀を運び、アジアの商品を買い付けていましたが、産業革命によってイギリスはついにアジアから富を流出させることに成功したのです。
 このヨーロッパの優位をもたらした背景には、新大陸の富を背景にした経済力や軍事力といったものがありますが、それととに著者があげるのが「信用」の問題です。中国では法制度の問題もあって仲間内を超える「信用」はなかなか生まれませんでしたが、ヨーロッパの小国では小国ゆえのきめ細かな統治の中で、こうした法制度が整えられていきました。

 「おわりに」で著者は日本についても簡単に触れていますが、日本には大陸のような遊牧世界と農耕世界のダイナミックな交流は存在せず、ヨーロッパに似た農耕一元社会の中で細やかな統治が行われました。
 近世の成立過程における一向宗やキリスト教徒への弾圧は一種の政教分離を生み、また、鎖国は中国からの輸入を代替する産業(生糸や綿花)を生みました。こうして、日本社会は近代へと移行する準備を整えたのです。

 著者の描く大きな見取り図をこの記事でどれだけ紹介できているかは自信のないところもありますが、壮大かつ、教科書に載っている、あるいは「グローバル・ヒストリー」と銘打つ本とは一味違う「世界史」が描き出されていることはわかると思います。
 最初にも述べたように、この本で提示されている見取り図をどの程度実証できるのかということはわかりませんが、間違いなく面白いですし、世界史に対する新たな見方を提供してくれる本です。


世界史序説 (ちくま新書)
岡本 隆司
4480071555