戦時中親切にしてくれた 「東芝府中の斉藤龍次郎さん」を探してください 台湾の廖来章さんが呼び掛け
★戦時中親切にしてくれた
「東芝府中の斉藤龍次郎さん」を探してください
台湾の廖来章さんが呼び掛け
産経新聞 2018.8.14 23:05
https://www.sankei.com/life/news/180814/lif1808140031-n1.html

廖さんが大切にしている昭和18年秋、
長瀞(埼玉県)で撮影した写真。
前列左端が斉藤龍次郎さんと娘。後列左端が廖さん
15日は終戦記念日。
台湾・雲林県に住む廖来章(りょうらいしょう)さん(88)も、
この日を特別な思いで過ごす一人だ。
73年前、東京で玉音放送を聞いた。
その頃、動員で働いていた東京・府中の東芝工場で、
とても親切にしてくれ、「養子に」と申し出た日本人に
会いたいと、台湾に戻った後も探し続けている。
昭和18年7月、
台湾にいた廖さんは当時の高等小学校を卒業後、
志願動員で日本に渡り、現在の東芝府中事業所で働いた。
その時、とても親切にしてくれたのが監査部にいた
斉藤龍次郎さんという男性。
年齢は35歳から40歳ぐらい。
妻と2人の子供とともに、
工場近くの社宅に住んでいたそうだ。
廖さんらは社員寮で集団生活をしていた。
斉藤さんはとても面倒見がよく、
廖さんらがおなかを空かしていないか、寒くないかと
心配してくれたそうだ。
通信教育を受けていた廖さんの勉強をみてくれたり、
斉藤さんの妻も、着物を縫ってくれたりした。
長瀞(埼玉県)に遊びに連れて行ってくれたこともあった。
みんなで歌ったり、持参した野菜で飯盒(はんごう)炊さんを
したりした。
「紅葉がとても美しかった」。
廖さんはその時の写真を今も大切に持っており、
懐かしく思い出すという。
やがて終戦。
混乱の中、台湾の事情も分からない。
斉藤さんは心配して、廖さんに「うちの養子にならないか」と
申し出てくれた。
だが、台湾の父親から戻ってこいと電報が来た。
さんざん悩み抜いた末、21年2月、故郷に帰る船に乗った。
その後、中学校の教員として働き、校長になった廖さん。
「お礼がしたい」と思い、何度か訪日して
斉藤さんの行方を捜したが見つからず、
東芝府中事業所にも行ってみたが分からなかったそうだ。
廖さんは
「斉藤さんは
もしかしたらもう亡くなっているかもしれないが、
せめてお墓参りをしたい。
親族の方がいれば会ってお礼がしたい」
と話している。(慶田久幸)
◇
斉藤さんの消息をご存じの方は
〒100-8077(住所不要)産経新聞社会部東京編集部まで
郵便、またはメール(shuto@sankei.co.jp)で
お知らせください。
(引用ここまで)
朝鮮から動員された『三井協和隊』の記録より
6 協和隊の生活
http://ww32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/kyosei/kyosei6.html
3500人の協和隊員は、軍隊式に管理されていた。
協和隊長は堀川元中佐、協和副隊長は正畑元中尉で あった。
14中隊で構成され、各中隊長は日本人で
元下士官出身の予備役であった。
各部屋単位の内務班は 12人で班長がいて、
4班ごとに小隊長、各中隊に4名の副官で構成された。
副官や小隊長には日本語を理解するものが選ばれ、
中学校など高等教育を受けた者が多い。
中隊長を通じて直接隊員を管理する 副隊長とは別に、
協和隊員の事務的なことをする本部役員室があった。
本部役員は三井造船所から 派遣された職員で、
食糧・給与・空襲情報・三井造船の生産現場との連絡や
配置などを担当した。
ここにも、本部代表副官として、
禹奎鎬氏ら4~5名の協和隊員が配属されていた。
(中略)
「食事は、杉の木箱に薩摩芋が中心を占め、
海草の塩汁にタクワン数切れだけだった。
これは、年中同一だった」と金龍玉氏の証言だが、
多くの隊員がいつも腹がすいていたと異口同音に 語る。
ただ、食糧事情に関しては
当時の学徒動員の学生も同じような証言がある。
協和隊員には給与が出た。
『産報龍骨』に36歳で家族8名の工員が267円である。
30歳の勤務年数 6年、二等工員で150円となっている。
当時の朝日新聞に新規応徴士の給与が統一定額化した。
この基準で計算すると、協和隊員53円である。
食費を差し引いて40数円もらったのではないか。
この額は証言とも一致する。副官は、80数円だった。

玉野三井協和隊で
歩哨にたつ呉善福氏
12 日本人との交流
http://ww32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/kyosei/kyosei12.html
差別と暴行を働く日本人もいたが、
一方で心温まる協和隊員との交流も記録に残っている。
一部を紹介したい。
① 中隊長との交流
証言をしてくれたのは第8中隊の森中隊長である。
「私の仕事は隊員の送迎で、時には隊員の 先頭に立って
工場入口まで行き、又帰る時もそうしました。昼間には、
学徒動員の3年生の軍事教練を 受け持ち、
また寮で休んでいる隊員10人ぐらい海岸に連れて行き、
海水を煮詰め、天候のいいときには 5キロぐらいの塩を
つくりました。
ただ、食糧事情が悪かったのは事実で、
これは協和隊員だけでなく
日本全体がそうでした。
酒やタバコの配給も副官を中隊長室に呼び、
彼等に任せました。
なにやら 喧しい事を言った中隊長もいたと聞きますが、
人間は心から付き合えば分かり合えるものと
確信して います。
このタバコ盆は、第八中隊の隊員がお餞別にくれたものです」
その他、内海第6中隊長の父親が亡くなった時の
香典帳が存在している。
副官をはじめ第6中隊隊員が お供えをしている。
また内海中隊長と隊員が一緒に
金毘羅に参詣している写真も現存している。
第3中隊の松岡中隊長は、
副官の金龍玉氏をお正月に自宅に招き
お酒やおせち料理をご馳走になった。
一緒にアリランを歌ったと
金龍玉氏は懐かしそうに話してくれた。
(中略)
③ 日本人との交流
学徒動員できていた旧制中学生との交流では、
一緒の現場で働いた者同志の親しみのある
肩を 寄せ合った写真がある。
合同新聞昭和19年12月26日付には、
岡山海軍監督長加藤恭亮技術大佐が
「頑張る協和隊員」「協和隊の働き振りは見事であった」
と高い評価文章を寄稿している。
また昭和20年5月15日付「巷」に、
一学徒も前述のような投稿している。
宇野商店街にマルトミという 呉服屋があった。
父が朝鮮半島へ行っていた事もあり言葉が話せたことや、
母が畑の作物を工夫して 協和隊員に食べさせたこともあり、
よく出入していたと、当時中学生だった福原氏は語ってくれた。
協和寮には、医務室があり石田先生と
三井病院から派遣されていた
看護婦の木村(水畑)礼子さんがいた。
石田先生はすでに亡くなられていたが、
木村さんは当時の様子を話してくれた。
「てんかん」という 病気が多かったことや
皮膚病にかかっている協和隊員が多かったという。
家も協和寮に近く、塩が欲しいといって
こられた事もあったという。
木村さんは、当時16歳で
隊員のアイドル的存在だった。
それゆえ、多くの隊員は彼女をよく覚えている。
彼女を10年前に韓国へ連れて行き、
協和隊副官に 会わせた時、
「あんたの注射はへただった」と笑って話しあった。
本部副官の禹奎鎬氏や
第11中隊 副官の申鉉溌氏は、
日本人の女子挺身隊員との交際を
していたという。
13 帰国船
http://ww32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/kyosei/kyosei13.html
禹奎鎬氏は次のように証言している。
「予定によれば、協和隊員の帰国船が出るのは、
翌年3月であった。
しかし、隊員にとっては一刻も早く帰りたい。
帰るから3日分の食糧をくれ、
といってくる隊員もいました。
当時一人300円ぐらい払えば
港にいる密航船をチャーターして、
郡別単位で10人、20人と玉野を去っていきました」
金龍玉氏も次のように手記を寄せている。
「終戦後、確か降伏署名の翌日(9月3日)出発して
帰国しました。
韓国から引揚者を乗せてきた密航船だった。」
崔鐘曄氏も次のように証言している。
「9月20日頃、118人が300円づつ出し合って
宇野にいた 密航船をチャーターして帰国しました。
途中台風にあいながらも、
広島―若松―釜山―三陟と、
2~3日でついたような記憶がします」
(中略)
禹奎鎬氏の証言によれば、
「10月15日頃に、
出勤率が悪くて月給が少なかった者、
また自分たちで 手配の出来ない、
金遣いの悪かった者もいて、
自分の自費で密航船に乗れない隊員
143人が残った。
私も、本部の教官と交渉して、
中隊長や教官がお餞別として
15000円のお金を工面してくれ、
三井造船所から
重油を現物支給してもらい、
143人を連れて帰りました。
帰国したのが、10月26日でした」
もちろん、
戦後も日本に在住した協和隊員もいると思う。
しかし、帰国を希望した大半の協和隊員は
こうして帰国した。
(引用ここまで)
リンク先URLを貼り付けると文字化けするので
かなりの文章を引用していますが
このサイトでの証言から解ることは
一部の日本人による差別や暴行があった事は事実。
しかし、一部の日本人との思い出もあった。
朝鮮から動員された共和隊には
お正月などには、お酒・タバコ・みかんなどの特配があった。
配給を中間搾取する悪い人がいて、
副官の朝鮮人が本部庶務主任に抗議すると
庶務担当者は靴を 脱ぎ土下座をした。
特高はその行為を危険視して約40日 取調べを受けた。
いつの世も
良い人もいれば、悪い人もいる。
当時、全体が残虐な差別主義なのではなく…
意思の疎通があった者同士は理解し合えた。
「個人」として、人間同士の交流した者は、思い出が残る。

日本の学校で学んだ朝鮮の人達もいれば
朝鮮総督府の職員だけではなく、
教師として赴任した人など半島に移住した日本人も
朝鮮語を学んでいた人達もいたのだよ。
李承晩は、戦前アメリカに住んでいたから
そんな交流は全く経験していない。

★終戦後、米国人捕虜から
病院長に手渡された感謝状
http://mituzi.blog.fc2.com/blog-entry-68.html
★「玉音放送」を境に
日本人と朝鮮人の立場が逆転した、あの瞬間
少女Cが語る「終戦」の記憶
崔 碩栄 2017.09.24
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52973
★【鄭大均・首都大学東京教授インタビュー】
姜尚中の耐えられない軽さ!?
在日をウリにする進歩的文化人の功罪とは
日刊サイゾー 2011年10月30日
http://news.livedoor.com/article/detail/5979387/
★敗戦革命の仕掛け人、
ハーバート・ノーマンのスパイ疑惑
http://blog.livedoor.jp/catnewsagency/archives/32883129.html


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「東芝府中の斉藤龍次郎さん」を探してください
台湾の廖来章さんが呼び掛け
産経新聞 2018.8.14 23:05
https://www.sankei.com/life/news/180814/lif1808140031-n1.html
廖さんが大切にしている昭和18年秋、
長瀞(埼玉県)で撮影した写真。
前列左端が斉藤龍次郎さんと娘。後列左端が廖さん
15日は終戦記念日。
台湾・雲林県に住む廖来章(りょうらいしょう)さん(88)も、
この日を特別な思いで過ごす一人だ。
73年前、東京で玉音放送を聞いた。
その頃、動員で働いていた東京・府中の東芝工場で、
とても親切にしてくれ、「養子に」と申し出た日本人に
会いたいと、台湾に戻った後も探し続けている。
昭和18年7月、
台湾にいた廖さんは当時の高等小学校を卒業後、
志願動員で日本に渡り、現在の東芝府中事業所で働いた。
その時、とても親切にしてくれたのが監査部にいた
斉藤龍次郎さんという男性。
年齢は35歳から40歳ぐらい。
妻と2人の子供とともに、
工場近くの社宅に住んでいたそうだ。
廖さんらは社員寮で集団生活をしていた。
斉藤さんはとても面倒見がよく、
廖さんらがおなかを空かしていないか、寒くないかと
心配してくれたそうだ。
通信教育を受けていた廖さんの勉強をみてくれたり、
斉藤さんの妻も、着物を縫ってくれたりした。
長瀞(埼玉県)に遊びに連れて行ってくれたこともあった。
みんなで歌ったり、持参した野菜で飯盒(はんごう)炊さんを
したりした。
「紅葉がとても美しかった」。
廖さんはその時の写真を今も大切に持っており、
懐かしく思い出すという。
やがて終戦。
混乱の中、台湾の事情も分からない。
斉藤さんは心配して、廖さんに「うちの養子にならないか」と
申し出てくれた。
だが、台湾の父親から戻ってこいと電報が来た。
さんざん悩み抜いた末、21年2月、故郷に帰る船に乗った。
その後、中学校の教員として働き、校長になった廖さん。
「お礼がしたい」と思い、何度か訪日して
斉藤さんの行方を捜したが見つからず、
東芝府中事業所にも行ってみたが分からなかったそうだ。
廖さんは
「斉藤さんは
もしかしたらもう亡くなっているかもしれないが、
せめてお墓参りをしたい。
親族の方がいれば会ってお礼がしたい」
と話している。(慶田久幸)
◇
斉藤さんの消息をご存じの方は
〒100-8077(住所不要)産経新聞社会部東京編集部まで
郵便、またはメール(shuto@sankei.co.jp)で
お知らせください。
(引用ここまで)
朝鮮から動員された『三井協和隊』の記録より
6 協和隊の生活
http://ww32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/kyosei/kyosei6.html
3500人の協和隊員は、軍隊式に管理されていた。
協和隊長は堀川元中佐、協和副隊長は正畑元中尉で あった。
14中隊で構成され、各中隊長は日本人で
元下士官出身の予備役であった。
各部屋単位の内務班は 12人で班長がいて、
4班ごとに小隊長、各中隊に4名の副官で構成された。
副官や小隊長には日本語を理解するものが選ばれ、
中学校など高等教育を受けた者が多い。
中隊長を通じて直接隊員を管理する 副隊長とは別に、
協和隊員の事務的なことをする本部役員室があった。
本部役員は三井造船所から 派遣された職員で、
食糧・給与・空襲情報・三井造船の生産現場との連絡や
配置などを担当した。
ここにも、本部代表副官として、
禹奎鎬氏ら4~5名の協和隊員が配属されていた。
(中略)
「食事は、杉の木箱に薩摩芋が中心を占め、
海草の塩汁にタクワン数切れだけだった。
これは、年中同一だった」と金龍玉氏の証言だが、
多くの隊員がいつも腹がすいていたと異口同音に 語る。
ただ、食糧事情に関しては
当時の学徒動員の学生も同じような証言がある。
協和隊員には給与が出た。
『産報龍骨』に36歳で家族8名の工員が267円である。
30歳の勤務年数 6年、二等工員で150円となっている。
当時の朝日新聞に新規応徴士の給与が統一定額化した。
この基準で計算すると、協和隊員53円である。
食費を差し引いて40数円もらったのではないか。
この額は証言とも一致する。副官は、80数円だった。
玉野三井協和隊で
歩哨にたつ呉善福氏
12 日本人との交流
http://ww32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/kyosei/kyosei12.html
差別と暴行を働く日本人もいたが、
一方で心温まる協和隊員との交流も記録に残っている。
一部を紹介したい。
① 中隊長との交流
証言をしてくれたのは第8中隊の森中隊長である。
「私の仕事は隊員の送迎で、時には隊員の 先頭に立って
工場入口まで行き、又帰る時もそうしました。昼間には、
学徒動員の3年生の軍事教練を 受け持ち、
また寮で休んでいる隊員10人ぐらい海岸に連れて行き、
海水を煮詰め、天候のいいときには 5キロぐらいの塩を
つくりました。
ただ、食糧事情が悪かったのは事実で、
これは協和隊員だけでなく
日本全体がそうでした。
酒やタバコの配給も副官を中隊長室に呼び、
彼等に任せました。
なにやら 喧しい事を言った中隊長もいたと聞きますが、
人間は心から付き合えば分かり合えるものと
確信して います。
このタバコ盆は、第八中隊の隊員がお餞別にくれたものです」
その他、内海第6中隊長の父親が亡くなった時の
香典帳が存在している。
副官をはじめ第6中隊隊員が お供えをしている。
また内海中隊長と隊員が一緒に
金毘羅に参詣している写真も現存している。
第3中隊の松岡中隊長は、
副官の金龍玉氏をお正月に自宅に招き
お酒やおせち料理をご馳走になった。
一緒にアリランを歌ったと
金龍玉氏は懐かしそうに話してくれた。
(中略)
③ 日本人との交流
学徒動員できていた旧制中学生との交流では、
一緒の現場で働いた者同志の親しみのある
肩を 寄せ合った写真がある。
合同新聞昭和19年12月26日付には、
岡山海軍監督長加藤恭亮技術大佐が
「頑張る協和隊員」「協和隊の働き振りは見事であった」
と高い評価文章を寄稿している。
また昭和20年5月15日付「巷」に、
一学徒も前述のような投稿している。
宇野商店街にマルトミという 呉服屋があった。
父が朝鮮半島へ行っていた事もあり言葉が話せたことや、
母が畑の作物を工夫して 協和隊員に食べさせたこともあり、
よく出入していたと、当時中学生だった福原氏は語ってくれた。
協和寮には、医務室があり石田先生と
三井病院から派遣されていた
看護婦の木村(水畑)礼子さんがいた。
石田先生はすでに亡くなられていたが、
木村さんは当時の様子を話してくれた。
「てんかん」という 病気が多かったことや
皮膚病にかかっている協和隊員が多かったという。
家も協和寮に近く、塩が欲しいといって
こられた事もあったという。
木村さんは、当時16歳で
隊員のアイドル的存在だった。
それゆえ、多くの隊員は彼女をよく覚えている。
彼女を10年前に韓国へ連れて行き、
協和隊副官に 会わせた時、
「あんたの注射はへただった」と笑って話しあった。
本部副官の禹奎鎬氏や
第11中隊 副官の申鉉溌氏は、
日本人の女子挺身隊員との交際を
していたという。
13 帰国船
http://ww32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/kyosei/kyosei13.html
禹奎鎬氏は次のように証言している。
「予定によれば、協和隊員の帰国船が出るのは、
翌年3月であった。
しかし、隊員にとっては一刻も早く帰りたい。
帰るから3日分の食糧をくれ、
といってくる隊員もいました。
当時一人300円ぐらい払えば
港にいる密航船をチャーターして、
郡別単位で10人、20人と玉野を去っていきました」
金龍玉氏も次のように手記を寄せている。
「終戦後、確か降伏署名の翌日(9月3日)出発して
帰国しました。
韓国から引揚者を乗せてきた密航船だった。」
崔鐘曄氏も次のように証言している。
「9月20日頃、118人が300円づつ出し合って
宇野にいた 密航船をチャーターして帰国しました。
途中台風にあいながらも、
広島―若松―釜山―三陟と、
2~3日でついたような記憶がします」
(中略)
禹奎鎬氏の証言によれば、
「10月15日頃に、
出勤率が悪くて月給が少なかった者、
また自分たちで 手配の出来ない、
金遣いの悪かった者もいて、
自分の自費で密航船に乗れない隊員
143人が残った。
私も、本部の教官と交渉して、
中隊長や教官がお餞別として
15000円のお金を工面してくれ、
三井造船所から
重油を現物支給してもらい、
143人を連れて帰りました。
帰国したのが、10月26日でした」
もちろん、
戦後も日本に在住した協和隊員もいると思う。
しかし、帰国を希望した大半の協和隊員は
こうして帰国した。
(引用ここまで)
リンク先URLを貼り付けると文字化けするので
かなりの文章を引用していますが
このサイトでの証言から解ることは
一部の日本人による差別や暴行があった事は事実。
しかし、一部の日本人との思い出もあった。
朝鮮から動員された共和隊には
お正月などには、お酒・タバコ・みかんなどの特配があった。
配給を中間搾取する悪い人がいて、
副官の朝鮮人が本部庶務主任に抗議すると
庶務担当者は靴を 脱ぎ土下座をした。
特高はその行為を危険視して約40日 取調べを受けた。
いつの世も
良い人もいれば、悪い人もいる。
当時、全体が残虐な差別主義なのではなく…
意思の疎通があった者同士は理解し合えた。
「個人」として、人間同士の交流した者は、思い出が残る。
日本の学校で学んだ朝鮮の人達もいれば
朝鮮総督府の職員だけではなく、
教師として赴任した人など半島に移住した日本人も
朝鮮語を学んでいた人達もいたのだよ。
李承晩は、戦前アメリカに住んでいたから
そんな交流は全く経験していない。
★終戦後、米国人捕虜から
病院長に手渡された感謝状
http://mituzi.blog.fc2.com/blog-entry-68.html
★「玉音放送」を境に
日本人と朝鮮人の立場が逆転した、あの瞬間
少女Cが語る「終戦」の記憶
崔 碩栄 2017.09.24
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52973
★【鄭大均・首都大学東京教授インタビュー】
姜尚中の耐えられない軽さ!?
在日をウリにする進歩的文化人の功罪とは
日刊サイゾー 2011年10月30日
http://news.livedoor.com/article/detail/5979387/
★敗戦革命の仕掛け人、
ハーバート・ノーマンのスパイ疑惑
http://blog.livedoor.jp/catnewsagency/archives/32883129.html
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