糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

08月14日の「今日のダーリン」

・東京じゃなくて京都にいる。
 誰かに会う予定もないし、毎日書くこの文章以外には、
 逃げ場のない締切りなどもない。
 37度とかの暑さでは、外にでるのはやめたほうがいい。
 しかも、ニュースで見ていた雷雨も追いかけてきた。
 高校野球は、それぞれにおもしろい試合をしてくれてる。
 覚悟を決めて「なにもしない」と決めた。
 それでも、雷のごろごろいう音を聞きながら、
 一瞬だけコンビニに行って氷や飲みものを買ってきた。
 そのとき『スポーツ報知』といっしょに
 何年も買ってなかった『週刊文春』をかごに入れていた。

 週刊誌というのはポテトチップスのようなもので、
 これが習慣になると、それを必要とするようになる。
 なにが読みたかったわけでもなかったはずなのに、
 久しぶりにページを開いたら、妙に感心してしまった。
 読みたいことばかりがあるわけじゃないのだが、 
 とにかく一冊のなかに「人の手」がかかっているのだ。
 これだけのページ数を、文章と、写真と、絵と、広告で
 いっぱいにするだけでも、たいへんな労力である。
 ひとつのテーマやアイディアで、
 何ページもつくれるグラフ雑誌ではないので、
 正しかろうがまちがってようが、ただの噂であっても
 読みきれないほどの数のネタが必要なのだ。
 外の作家に依頼しているエッセイの連載などが、
 建物でいえば四隅の柱のように安定的にあるのだが、
 それ以外は、編集部が考えてつくっているものだろう。
 政治、経済、事件、娯楽、色気、のぞき見、文化、趣味、
 「尊敬されなくてもいいから、興味を持たれる」
 というくらいの視点で、山積みに盛られているのだ。

 ネット上でいくら文字数を読んでいたとしても、
 それが社会の似姿だとは、どうしても思えない。
 ネットは、情報の成分に偏りがありすぎるのだ。
 それに比べると、色眼鏡ごしとはいえ、
 ここにはよくも悪くも「社会」があるように見えた。
 それに、何度も言うけれど、手間がかかっている。
 しばらくは「ネットの時代」だとかおだてられていたが、
 ネットというのは、もしかしたら、ただの
 「小袋のポテトチップス」なのかもしれない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
週刊誌の欠点は、大盛り過ぎて読むのに時間を食うことか。