『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』(以下、『手をなくした少女』)は長編アニメーションでまずありえないことが起きている驚異的な体験だ。どういうことか? なんと全編がほぼ即興で構成されているからだ。日本国内でそれを見られる経験はまずないため、注目に値する。
『手をなくした少女』ではおよそ90分、全編が監督による即興のアニメートで構成されている。
即興とは、音楽や演劇のようにリアルタイムで上演するジャンル、または実写映画のようリアルタイムで起きている現場を記録するジャンルではしばしば見られる手法だ。絵画でもライブ・ペインティングという、アーティストの筆跡や勢いをそのまま表現する即興もある。だが、大抵の長編アニメーションではまずありえない。
なぜなら基本的にアニメ―ションは徹底して作り物であるからだ。実写のようにリアルタイムの動きそのものを記録することはできない。アニメーションは性質上、現実のリアルタイム性というものを模造することしかできない。特に長編アニメーションではより制約がかかる。なので即興とは最も相性が悪い。
実験的な作風も可能な短編ならば「アニメ作家が即興で筆を走らせたままに作品を成立させる」ことはあるが、長編になるとまずそんなことはなくなる。それは大多数のスタッフが関わることなどや、ストーリーやキャラクターの具体性がより重要になるためだ。
なのでストーリーやキャラクターの具体性をあえて放置するような、湯浅政明の『ケモノヅメ』のような作品でもない限り、長編で即興のアニメートを見る機会は希少なのである。ところが『手をなくした少女』ではおよそ90分、全編が監督のクリスチャン・ローデンバックによる即興のアニメートで構成されている。それがいかなる効果を上げたのか? 手を無くした数奇な運命を辿る少女の感情が、しなやかな描線から表現されるのだ。
即興と感情
水車小屋に暮らす家族が日々の生活に苦しんでいるある日、父親の前に悪魔が現れる。悪魔は水車小屋の裏にあるものと引き換えに、黄金を与えると取引をする。父親はそれを、家の裏にあるリンゴの木のことなのだと思い、取引に応じた。
ところが、悪魔の狙っていたのはリンゴの木の上にいた少女だった。家族は黄金を得て、これまでとは違う豪華な生活になる。しかし、徐々に悪魔の手は家族に忍び寄り、追い詰められる。少女は自分の両手と引き換えに、悪魔から家族を遠ざける。しかし、家族は崩壊した。手をなくした少女はあてどない旅に出る。そこで王子に出会う。2人は結婚する。しかし、悪魔はいまだ彼女をつけねらい……
グリム童話「少女と悪魔と風車小屋」を原作とした。おとぎ話の持つ寓意と残酷さを表現したストーリーである。筆者がローデンバック監督を弊誌でインタビューしたとき、当初、この原作はよくある長編アニメーションとして企画されていたと話してくれた。
おとぎ話をハイクオリティな長編アニメーションの原作に選ぶのは、ディズニーの『白雪姫』の時代からよくある流れだ。『手をなくした少女』も当初はそうしたオーソドックスな長編として制作される予定だった。しかし一度頓挫し、時を経てたった1人で制作する形に変わった経緯を持つ。
この制作スタイルの極端な変化は、キャラクターの感情表現についても大きな意味を持っている。伝統的かつ製品的な長編アニメーションのスタイルと、アニメーターただひとりの描線そのものだけで表現するスタイルとでは感情表現の質は大きく異なる。
この即興のアニメートにも根拠がある。ローデンバック監督が本作の制作する以前に習得した、意図的に中割りに空白を作るアニメート技術「クリプトキノグラフィー」という手法だ。監督からうかがったところ「1時間で1分間分のアニメを完成させる」というハードなプログラムを経験したなかで「こうした制作手法は1枚の原画に時間をかけずに済むので、早く作れるというメリット」があるという(先述のインタビューより)。
その手法を生かした短編アニメーションの段階ではまだ特定のキャラクターや具体的なシナリオがない分、純粋にテクニカルな印象だった。では長編アニメーションになったとき、この手法はどんな効果を上げたのか? そう、手をなくした少女の生々しい存在感が生まれるのである。
即興のアニメートが描き出す少女の感情
即興とはまさに、リアルタイムの生々しい瞬間を表現する意味で大きく機能する。実写映画では即興の演技、即興の撮影が生み出したものが俳優自身の生々しい姿であったり、画家やイラストレーターのライブ・ペインティングは画家自身の描線を生々しく生かすものだったりする。
ローデンバック監督の即興は、手をなくした少女の生々しい姿を描き出す。
ローデンバック監督の即興は、手をなくした少女の生々しい姿を描き出す。他の長編アニメーションにおけるおとぎ話のヒロインは、「よくできた、破綻のない作り物」であるがゆえにプリンセスとして美しく描かれる。『手をなくした少女』も悪魔によって家族が崩壊した後、王子に見初められ、結婚するプリンセスというストーリーである。
だが他のおとぎ話のヒロインと異なるのが、王子との結婚によって物語がハッピーエンドを迎えるのではなく、結婚は長編アニメーションの途中で実現してしまうということだ。これはグリム童話の原作がそういう展開なのもあるが、ある意味、結局のところ結婚は人生の途中段階に過ぎないということを示している。そしてそれを示すのが即興描写で描かれる手をなくした少女、というのは大変意味深いものがある。
つまりは他の、よくできた作り物の長編アニメーションのおとぎ話のヒロインの持つファンタジーを剥ぎ取った、生々しい姿と感情がそのまま描かれていると言える。ディズニーでも、日本のジブリでも、フランスの長編でも何でもいい。長編アニメーションの登場人物は、まるで生きているように観客に思わせるために、逆に生きた描線を殺してしまうというアンビバレンスを抱えている。
全てを即興で描き切ることで、『手をなくした少女』では何が起きたのか? すべてを生きた描線で長編アニメーションの登場人物を描いたとき、そこに生々しい姿がそのまま現れるのである。そしてその姿は、おそらくはほとんどの人がアニメーションでは目にしたことがないものだろう。