August 12, 2018

「ここにいるよ」と言えない社会

衆院議員が性的指向や性自認のことを「趣味みたいなもの」と言うのを聞いて笑ってしまった。習い事のように何かのきっかけで始めたり、途中でやめたりできるもののように聞こえたから。当事者からすると、むしろ生を貫く芯みたいなものだと捉える人が多いに違いありません。言語にたとえるとどうでしょう。母語と同じように特段意識はしなくても、他者との交流の中で自然と芽生え、育ち、人間としてのポテンシャルを深めてくれる資質の一つであると私自身は見ています。言葉と違うのは、外国語のように学習してまるで違う文化に身を投じることはできない、という点でしょうか。

同性愛者、両性愛者、トランスジェンダーの人々をひっくるめて「生産性がない」ので「支援」に値しないという別の議員が発した言葉も、お粗末すぎて、反論する気持ちも起きません。

私は、日本社会に生きるのに、支援を必要とする意識を持って来ませんでした。でも最初から日本で日本人として生まれ、地域社会で生きようとする若者であったなら、どうだったのでしょうか。

「男(女)の子らしくないぞ」と教室でいじめられ、社会に出れば愛する人の性が違うからといって就職に失敗し、いっしょに部屋を借りたり、ローンを組んで家を建てようものなら門前払いを食らってしまう人は、この国にごまんといます。

その先、倒れても杖となるべきパートナーを病室に呼べず、彼(彼女)の健康保険に入ることが叶わず、老いては介護管理に関わらせることすらできません。先立たれれば相続はおろか、血縁者の反対にあえば葬儀にも出させてもらえません。かわいいそうにと感じる人は多いかもしれませんが、遠い話ではなく、すべて私が日本で出会い見聞きした人の現実です。

LGBTの青年に自傷行為も自殺も発生率が高いのは、「自分たちの親が理解してくれない」ためで、「そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会」だと主張するのはあまりにも浅はかではないでしょうか(杉田水脈「『LGBT』支援の度がすぎる」〔『新潮45』二〇一八年八月号〕)。法の整備も行政の働きかけも不要で、家族で説得(納得)しさえすれば済む話だという主張は以前からあるにはあるが、エビデンスに目を通せば誰もが破綻していることに気づくはずです。

私自身、20年近く同性である一人のパートナーと日々を共にして来た経験から言うと、この国で、性指向のために身に危険を感じたことは一度もありません。数年前、重い病気で入院した時も、窓口で状況を説明すると事務員から看護師、主治医にいたるまで淡々と治療方法や予後のことをパートナーにも伝え、終始、自然体で接してくれました。それは今でも、感謝にたえないことです。

しかし同時に、国レベルでのLGBT差別解消法もパートナーシップ法も、ましてや同性婚もまかりならぬ日本では誰もがそうなるのか、というと、ふたたび「もしも」の点呼が始まります。もしも病院が違い、日本人同士であったり、患者に若干の知名度がなかった場合、どうなったのだろうかと考えずにはいられません。もしも私が先に逝ったら、残された伴侶に不自由を掛けずにおけるのでしょうか。

杉田議員が「支援」と呼ぶものが何か、記事が曖昧で知りようはありませんが、税金の投入ないし減免であるなら、アメリカやカナダ・欧州などの例で分かるように十分に回収できます。同性婚を認めるからといって従来の家族の形に悪影響を及ぼしたり、社会を弱体化させたり、産まれるべき子供の数まで減らす等というデータを見たことはありません。

むしろゲイやトランスという人間の核心に関わる大切な側面を覆わせ続けることで、個々が社会との間に持つべき接点を希薄にさせ、文化にとっても、経済にとっても、未来に向かう大きな活力を削がせてしまうのはあまりにももったいないことではないでしょうか。

積極的に排除はしないが「触れてほしくない」が日本の常識で「美風」であるなら、改めるべき時期に来ていると私は信じます。アンケートにLGBTが「周囲にいない」と答える日本人が多いのは、存在しない、ということではなく、安心して「いるよ」と言えない社会の仕組みに原因があります。ふつうに、「ここにいる」ことが言える社会になってほしいです。

2018年8月12日             ロバート キャンベル

April 12, 2018

平成30年度 東京大学入学式 来賓祝辞

IMG_1600.jpg いくつものハードルを越え、この大学を選び、そして多くの家族や友人の祝福を受けながら、今日ここに集まった新入生の皆さまに、心からのお祝いを申し上げたいと思います。わたくしは去年の3月まで、およそ多くの皆さまが生まれたであろう2000年から17年間、駒場の教養学部で日本の古典文学を教えていた者です。

 わたくしはアメリカで育ち、皆さまとほぼ同年齢で日本語に出会い、その日本語を使ってどう生き、何を生業とするかを真剣に考えた末、日本文学の研究者になることを選びました。20代の後半に来日、幸いめざしていた学問の道筋と与えられた環境が一致したので、今日このように、一度も母語が通じ合える国に戻らず、豊富な文献資料と優秀な仲間に囲まれ、励まされ、その資料が書かれたのと同じ日本語を通してすくすくと充実した日々を送ることができました。

 しかし歳月は、いいことばかりを運んでくれるわけではありません。山や川よりも人の心、とくに心に測り知れず大きな力を及ぼす言葉のボーダーを越え、人と共に学び、働き、愛し合うことの難しさについて、気づかされることも多くありました。

 わたくしが今も解決できずにいる2つの問いがあります。そこで今日、皆さまと一緒にそれらのことについて考えてみたいと思っています。

 ひとつ目。人が他者を理解しようとボーダーを越えた時、その行為が寄り添うこととして喜ばれるのか、それとも行き過ぎた文化への立ち入り、英語でいうcultural appropriationに当たる無神経な模倣や真似として否定されるのか、その線引きが実わかりにくい。

 世界の、とくに欧米の情勢からすと、皆さまが成人になろうとする現在においては、友愛精神だけでボーダーを軽々と越え、文化を共有するなどという甘い夢は描けません。出会うその瞬間から、相手に関する確かな知識と感性が問われる時代になりました。

 お金があり、文化へのアクセスも湯水のごとく自由になる社会の一部が、それまで抑えられてきた人々の領域に土足で立ち入る。アメリカの例でいうと、非白人系や少数の人々たちの歴史やライフスタイルを、そうではない人たちが利用し自分のものであるかのように資本として使うことに対する嫌悪や警戒心は、年々、募っているようにみえます。

 つい先日、わたくしが生まれたニューヨークのブルックリン美術館では、アフリカ芸術部門の学芸員として31歳になるアメリカの白人女性を採用しました。美術史家である彼女の資格に問題はありませんが、ニューヨーク市ある活動家団体は、白人であるということでこの人事に反対しています。さらに自分たちのものでもない文化に越境して入り込み、ということは言い換えれば黒人などを排除してきた欧米における美術史という学問領域も、「美術館」という制度そのものも、legacies of oppression「抑圧の遺産」と見なして、さしあたりこの女性の即刻解雇を要求しています。

 わたくしの知人で、長くドイツに住み活動を続けていらっしゃる多和田葉子(たわだ・ようこ)さんという作家がいます。去年東京で会い、2つの文化を自在に行き来する彼女に対し、これらのことをどう思っているか問うてみました。すると、興味深い言葉が返ってきました。

 多和田さんは数年前、福島の原発事故に取材して作品を書きました。その際、当事者ではない人が本当には理解できないことだから書くべきではない、他人の苦しみを資本に小説を書き、金儲けするのはけしからんことだと思う人たちがいることを初めて知ったと言う。福島の人からみれば東京で生まれた彼女は確かに外部の人ではあるが、原発事故を題材に小説を書いているドイツ人たちから見ればまさに内部の人間に見えます。多和田さんいわく、「自分以外の存在になりきってみる、それができなければ文学は成り立ちません」、とまで言い切っていました。

IMG_1598.jpg 日本で日本文学の研究機関を率いるわたくし自身はというと、先ほど述べたアフリカ芸術が専門の白人女性学芸員に近いものがあるのかもしれません。わたくしはしかし、何千人もの日本人学生に彼らの文化的主柱である古の文学を教えてきました街に出かけては日本の民族衣装である着物を着流しで歩き回っていても誰も文句を言いません。むしろ、「日本人以上に、日本を知っている」というシュールにこえるようなほめ言葉を向けられます。真似ることを文化創出の土台にまで昇華させた日本人だ、と考えれば最高の賛辞に聞こえますけれど、わたくしにはしっくり来ません。

 アメリカで暮らすアフリカが専門の研究者と、日本にいる日本が専門の研究者との違いについて、それぞれが生きる地域の歴史に即して、その背景を丁寧にほどいていく必要はあます。しかし、まず当事者であるわたくしにとって大事なのは、挨拶代わりに「日本人以上」などだと褒めてくれる人の好意を受け入れながら、その気持ちに添わず、むしろ批判する能力を持つことだと考えます。「いえ、そんなことありません」と答えるわたくしは、謙遜というよりも「「日本人」って誰?」、「「日本人以上」とは論理的でないよね?」という冷淡な抗いを込めていますが、同時にわたくしを前にした相手の、その時のおそらく偽らざる気持ちを想像すると、その気持ちに共感を寄せざるを得ません。そもそもわたくしは他者への好奇心から今のような存在になったのですけれど、文脈と場所によってわたくしのような存在人を傷つけることもあり、新たな優れた表現や学び、あるいは学術的知見を生み出すきっかけになるのかもしれません。これから何かを学びながら、大きく変わるに違いない皆さまも、これから、他者と渡り合っていく一人ひとりのバランスを図らなければなりません。このバランスを支えるのは、他でもない、「教養」だと思います。

 いま、共感といいましたが、わたくしがもう一つ釈然としない、ふたつ目の問いは、この共感に関すること。それは、共感や思いやりと言った誰もが否定し得ない衝動のような気持ちが具体的にどういう条件のもとで、人の幸せに繋がるのか、繋がらないのか、ということです。

 教養とは、自分の経験から思いも寄らない他者の言葉にふれたり、前時代に起きたことがらに対して思いを馳せ、知ったりすることで自らを変える力を蓄えることだと考えます。むかし日本語で「おもいやる」と書くのに、「想像」、英語の「イマジン」を意味する2つの漢字を当てていました。自分ではない他者の痛みに思いをやる - 「やる」は「派遣する」の「遣」と書きます - つまり送り込むことによって、自分のことをふり返る、内省し、何とかに進む能力を培います。ひっくるめていうと共感、英語で言うエンパシーになります。

 アメリカのオバマ大統領はかつて、世界の紛争はエンパシーの不足から起きると演説のなかで指摘しました。イスラエルとパレスチナの問題は「お互いが相手の靴を履いて地上に立った時に初めて解決されます」(when those on each side “learn to stand in each other’s shoes”)、そういう名言を残しました。

 しかし人の履き物を穿いて地上を歩き続けるのは中々しんどいことで、大抵の人はできません。日本は外から見ると平和で安定した社会に見えますが、中には多くの亀裂があり、先日の新聞には、子供を持つ親の過半数が、所得格差による学習への機会がでこぼこになることを「仕方が無い」と答えたという調査結果発表ています。朝ごはんも食べられないまま学校へ通う子供が大勢いるという現実も、日本の「見えない貧困」、可視化されない不公平を裏打ちしています。

IMG_1599.jpg ここに、徳川時代の江戸で出版された一冊の本があります。本草学者が書いたもので、タイトルは『豊年教種』。天保4年、1833年だから江戸市民が大飢饉に直面る最中に書かれ、流通した一種のサバイバルマニュアルです。読者に対して、一番困っている人たちにどう接触すればいいかということを説いています。「飢えたる人に粥を施すにハ、尤も恭しく謹(ん)で与へ」るべと。お粥を作って、近所で飢餓に苦しんでいる人に食べさせる。その時重要なのは、普段より丁寧に手渡しをするということ。

 「必々不遜(ぞんざい)にして人を恥(はずか)しむべからず。其(その)人の窮するも、全く天時の変によりて然らしむるなり」、と。あなたから茶碗を受け取った人が困っているのは、気候や天災のせいであって、明日は我が身かもしれません。中国の『礼記』にあるように乞食が戸口に現れたとき「乞食だ、これを食え」と言われれば、その乞食もプライドがあれば「お前の飯なんか食わない」と言って黙って餓死してしまうかもしれない、だから相手の立場をよくよく汲みなさい、と忠告します。「此ごとくなれバ施(す)にも不遜(ぞんざい)にてハ陰徳にハならず、却て徳をそこなふ也」と。

 人にいいことをしようとして、かえって自分の信用を落とし、幸福をすり減らしてしまう危険性を、この本の著者は有事の際こそリアリティ溢れるディテールで述べ切っています。急いで多くのものをいっぺんに食べさせてはいけない、飢餓者に熱いものを渡してはいけない、というように、具体的で検証可能なファクトに基づき、他者への共感を呼びかけています。

 今わたくしたちの目の前に広がる虚報、いわゆるフェーク・ニュースも、「共感」を煽ることでエビデンスとは無縁の主張をかかげ、その主張だけが人々を幸福に導き得るという危険な環境に我々を追い込もうとしています。世界中に広がり、現に、生き死にに関わる争いの引き金にもなっています。

 さて、大学でできること。それとからだを使って、自分が好奇心をもって向かおうとしている目標について他者に説明する言葉を磨くこと。ファクトを切り出して、論理と共感というきわどいバランスをその都度に繰り出すスキルを身に付けることに尽きると思います。これが本来の教養であると、私は考えます。

平成30年4月12日                            ロバート キャンベル

April 10, 2018

「私の東京物語」 【10】 (全10話)

立川 歴史の影と活気

caption.jpg 昨年四月、東京大学を定年前に退職し立川市にある大学共同利用機関法人・国文学研究資料館(国文研)の館長に就いた。20年前に品川区の戸越にあったころとは打って変わって、新しい建物は太陽の光が燦々と差し込み、広い。国文研自体も、数十年間積み上げた情報の蓄積と通信技術の進歩が相まって、これまでとはまるで違うミッションを負っている。

 各地にある古典籍(明治以前の日本の書物)を調査・撮影収集するという保存と公開を中心とした活動から、電子画像で蓄積した膨大なデータをいかに活用し、日本文学研究者に限らず世界のあらゆる学問領域にそれをどう開放するか、という格段に広い視界に立った活動をしている。職員はベテランも若手も、実証的な思考と、グローバルに発信しつつ先方の思いも受け止める柔軟な感性が求められている。

 国文研は立川駅からモノレールで2駅のところにある。施設が広い分やや不便。周りには裁判所、国立国語研究所、国立災害医療センターに、映画「シン・ゴジラ」のロケ地として一躍有名になった陸上自衛隊立川駐屯地がある。これらに隣接して国営昭和記念公園という美しい緑地も広がっている。

 公園も駐屯地も周囲の施設も、元々は大正時代に開かれた日本有数の飛行場の一部で、立川はその頃「空の都」と謳われた。戦争と米軍による接収を経て、日本に返還されたのはたかだか40数年前。私が働いた場所の中では最も歴史が新しく、現在の活気と過去の影が入り交じった不思議な魅力的に満ちた街であると感じている。

2018220日付、東京新聞朝刊より)

April 9, 2018

「私の東京物語」 【9】 (全10話)

駒場 時の移ろい

IMG_1454.jpg 東京で2つ目の職場は東京大学教養学部の駒場キャンパスであった。昨年3月まで、17年間も通った場所なので風景は今も胸に焼きついている。

 早春はキャンパスの東側、矢内原門跡の石碑の前にひっそりと咲く梅林の梅。実がなると、知り合いの印刷業者が落ちた実を丁寧に拾い集めて酒に漬け、1年ほどかけ琥珀色になった美酒を私のポストに入れてくれていた。

 正門の西側にある坂下門から上がってくると、小川が流れその先に古い八重桜が並んでいる。入学式の頃華やかに咲くソメイヨシノより開花は遅く、静かにゆったりと花をつける。毎朝研究室に入る前、いつもほっとさせらた。

 駒場といえばキャンパスの東西を走るイチョウ並木が見事。11月下旬ごろの晴れた日には、東京特有の真っ青な空の下、黄金に燃えるイチョウと、その下をにぎやかに行き交う学生の黒髪やくすんだ色の洋服が絶妙に調和し、まるで動く絵画のようになる。

 駒場キャンパスは、戸越にあった国文学研究資料館もそうだったように、江戸時代から続く歴史のある土地であった。将軍家の鷹狩場から明治政府の駒場農学校となり、関東大震災の後、旧制第一高等学校がここに移った。同じ頃かつて本郷にあった旧加賀藩前田家は屋敷を東大に譲り、代替地の駒場に移ってきた。戦後、旧制一高は東大教養学部に、前田家の屋敷は駒場公園になった。かつての封建領主の土地が公園と研究・教育施設に分かれて育つという独特の歴史をもった空間で、私は時の移ろいを満喫した。

(2018年2月19日付、東京新聞朝刊より)

April 9, 2018

「私の東京物語」 【8】 (全10話)

戸越 公園の池

 IMG_1592.jpg 福岡から東京へ移り住んで20年余り。その間3カ所の職場で働いてきた。場所は都区部と多摩地域に分かれるが、それぞれがかつての国立機関という共通点がある。

 たとえば戸越。1995年春、僕は九州大学から当時品川区豊町にあった国文学研究資料館(現在は立川市)の助教授に着任した。毎朝、東中野から新宿で山手線に乗り換えて大崎駅で降り、15分ほど歩く。途中、景色のよい坂道があり、アジフライのおいしい小さな洋食屋もあった。僕はこのルートがお気に入りで、いつもここを通っていた。

資料館の敷地に入ると、右手のうっそうとした木立の中に旧三井家が大正時代に建てた3階建ての資料庫がある。正面にある白いタイル張りの建物が本館。ロビーを突っ切って行くと高い天井まで伸びるガラスの壁には扉があり、出ると建物と同じぐらいの広さの円い池があった。ここは無音の世界。初夏には黄ショウブが咲き、池の畔(ほとり)で亀が甲羅干しをしている。一羽のアオサギがそれをじっと見つめている。

ここは隣接する戸越公園とともに江戸時代には旧熊本藩細川家の下屋敷があった土地で、池も大名庭園の一部だった。明治時代に旧三井家が買い取り、戦後の財閥解体で国の所有になったと聞く。

池の地下には樋(とい)が通っているとも聞いた。隣の公園の池との間を、魚たちが自由に行き来できるように作られたというが、この話、今でも本当かうそか定かではない。

(2018年2月16日付、東京新聞朝刊より)

April 8, 2018

「私の東京物語」 【7】 (全10話)

築地 2人の恩人

IMG_1589.jpg 築地で命拾いをした。2011年の夏、熱を伴う風邪のような症状が続いていたが、そのうち治るだろうと考えていた。8月に宮城県の鳴子(大崎市)で東日本大震災被災者との読書会があり、帰ってくるとぐったりして、これはただごとではないと直感した。毎年人間ドックを受けていた明石町の聖路加国際病院で診てもらうと、医師は「感染性心内膜炎です。放置すれば死にます」という。

 即入院し1ヶ月半、安静と抗生剤で感染症は治したが、菌に侵された心臓の弁を修復しなければならない。半年後、心房を開く大手術を受けた。その時、僕は年上の2人の女性に救われた。偶然、同じ主治医に診てもらっていたという作家の内館牧子さんは手術前、「キャンベルさん、麻酔が切れると声は聞こえるけれど体が動かないのよ。霊安室に運ばれちゃうと怖がらないで、手を握り返せるまで我慢しなさい」。術後その通りの体験をした。おかげで恐怖に陥らずに済んだ。

 手術の翌々日、自転車漕ぎのリハビリ器具に乗せられた。文字通り心臓が飛び出るほど怖かった。ところが隣で元気よく漕いでいる女性がいる。80歳代の松永あや子さん。築地生まれの築地育ち、漕ぎながら戦争末期の話をしてくれた。ある時、上空にやってきた米国の戦闘機が「ここは爆撃しない。安心せよ」とビラをまいたという。「信じていいのか。でも父は信じるといって逃げなかった。だから私も空襲に巻き込まれずに助かったの」。心拍を忘れ、凄絶な体験を淡々と語りながら漕ぐ松永さんに大きな勇気をもらった。持つべきは先輩である。

(2018年2月15日付、東京新聞朝刊より)

April 6, 2018

「私の東京物語」 【6】 (全10話)

銀座 特別な場所

IMG_0539.jpg 僕にとって銀座は、東京であって東京ではない特別な空間である。だいいち地図もナビもなくてもさくさく歩ける。京橋から新橋の間の8丁の街は格子状のブロックごとに並んでいる。 

 そういえば江戸時代に急なお客に出す「八杯豆腐」(はちはいどうふ)という料理があった。豆腐1丁を拍子木状に切って落とした簡単な汁物だが、銀座の街割りもまさに豆腐1丁を8つに切って詰めたように見える。スクエアな形にフラットな地形。まさに豆腐的。渋谷や麻布のように視界が急に狭くなったり変化することはない。

 ニューヨーク生まれの僕は、銀座にいるだけで落ち着く。坂道が織りなす美しい景観はないが、ストレスなく歩けることで、歩いている内に目的地も忘れ自分が進んでいる舗道と同化するような気持ちになる。すれ違った人の洋服やしぐさ、間断なく続く店のウインドー、ずっと先までつながっている車の列も目に入り、意識の中に溶けてゆく。

 一度だけ銀座に泣かされたことがある。1丁目に、友人の森岡督行が営む「1冊の本だけを売る」ことで有名な素敵な本屋「森岡書店」がある。立ち寄った際「上階に空室があるから見ていかない?」と森岡君。建物は昭和初期の歴史的建造物。上がってみると、天井の高さが2階分ある広大な四角い空間。頭上にバルコニーがせり出す。聞くと戦前、芝居の稽古場に使われていたらしい。「借りたい」という欲望に駆られ即申し込んだが、タッチの差で先客がいた。銀座らしい、見るも目の毒な話であった。

(平成30年2月14日付、東京新聞朝刊より)

April 5, 2018

「私の東京物語」 【5】 (全10話)

神保町 コーヒーと和装本

018f90ae7533b99feeb43adb1561815d66da7e2ef0.jpg 薄い銀紙を注意深く剥がしていくと、ラム酒に浸った柔らかく口中に甘い汁を放つきつね色の「サヴァラン」が1個待っている。苦いホットコーヒーと一緒につまみながら、道の向こうで買ってきたばかりの和装本を紙袋から取り出し、片手で読む。今はなき神保町の名店「柏水堂」の奥の席。その日の釣果を1丁ずつめくり、読むというより眺めることを何よりの楽しみにしていた。たとえば1820年代に出版された「訳準笑話(やくじゅんしょうわ)」という1冊を買った日は、読みながら、著者が思いついたばかげているけれど鋭い諷刺のひとつひとつに感心したものである。コーヒーと洋菓子と和装本は、実に相性がいい。

 「道の向こう」と書いたのは、柏水堂など古い飲食店はみんな靖国通りを挟んで古書店とは反対の北側にあるからだ。南向きでは本が日焼けして傷む、というわけで古書店は昔から通りの南側に北向きに並んでいる。戦前からあった「柏水堂」や今もあるビアホール「ランチョン」が醸し出す知的で華やかな空間に対し、くすんだ色の値札がひしめく通りの向こう側は静かな世界、まさに僕らにとって戦場であり、楽園である。

 古書店街の真ん中に「一誠堂」という堂々たる老舗がある。1990年代後半、小説家中村真一郎氏旧蔵の漢詩文集コレクションを調査するため、ここの収蔵庫に日参したことがある。作業が一段落すると、店の売り場で和装本を1、2冊買い込み、太陽が降り注ぐ北側へと通りを渡っていく。日差しの強い夏日であったことを記憶している。

(平成30年2月13日付、東京新聞朝刊より)

April 4, 2018

「私の東京物語」 【4】 (全10話)

東中野の「別荘」

 1980年代後半から続いたバブルがはじけ、しめしめと思った。九州大学文学部専任講師の給料では、カタツムリの速度でしか人生の塀は登れない。塀もマンションもバブルのおかげで、ウサギが跳びはねるように暴騰していた。しかしバブルがはじけ、ローンさえ組めばこの僕も中古マンションのオーナーが夢ではないと思いはじめたのは、1992年ごろ。福岡から毎月、調査と古書店巡りで通っていた東京に「別荘」を持つことにした。

IMG_5781.jpg 古い友人の紹介で不動産屋さんと一緒に10軒近く物件を見て回った。東中野に築28年の昔社宅だったマンションが見つかった。部屋とほぼ同じ広さの庭があり、静かで日当たりもよく、即決した。東郷神社の六畳一間も捨てがたかったが、私物を置きたいし、いつまでもお世話になるわけにはいかなかった。

 決めたのはいいけれど当時、永住権をもたない外国人が住宅ローンを組むのは大変だった。「パスポートに永住権の申請受理印さえあれば何とか」と、銀行員が耳打ちしてくれた。意味は後で分かった。入国管理局に申請を受理させる条件は、まず10数種類の書類をそろえること。前科なしで定収ありは序の口で、違法薬物を使っていない証明(内科で尿検査)から、心神喪失者でない証明(精神科で面接テスト)等々、今思い出すと噴き出すような場面が多かった。

 無事ローンが下り2年後に東京へ引っ越した。東中野は素晴らしい。新宿で終電をやり過ごしても歩いて帰れる。すると寒い夜明け、庭の餌台から番(つがい)のメジロがあきれ顔でほほ笑み、やさしく鳴いてくれた。

(平成30212日付、東京新聞朝刊より)

April 3, 2018

「私の東京物語」 【3】 (全10話)

IMG_6567.jpg原宿 東郷神社の夜

 中野三敏先生の父は、敏雄さんといい僕はお祖父様と呼んでいた。戦時中海軍参与官を務めた方で、戦後旧海軍関係者らが発足させた「水交会」に関わり、原宿にある東郷神社の宮司たちとも親しかった。福岡の先生のお宅を訪ねると、お祖父様はいつも2階から下りてきて、お茶を飲みながら僕らの話に耳を傾けてくれた。深みのある立派な声で楽しそうに笑っていた姿が目に残っている。

 中野先生の下で専任講師に就くと、大学から給料が入るようになった。僕は毎月、そのお金で東京に行き、国会図書館をはじめ古典籍(明治以前の日本の書物)の宝庫と呼ばれる場所を歩き回っては、帰りに神保町の古書店をのぞいていた。それを知ったお祖父様は、東郷神社境内に建つ古い宿泊施設を紹介してくれた。若い神職が地方から上京した際に泊まれる小さな2階建ての施設で、看板があるわけでもなく、都会の森にひっそりとたたずむ究極のプライベート空間であった。

 お祖父様の紹介で、お酒1本を携え社務所にうかがうと「いつでも泊まりにいらっしゃい」と、寛大な言葉が返ってきた。根城は2階の六畳一間。押し入れにきれいなシーツと布団がありトイレと風呂は共同。1泊1500円也。地方住まいの大学専任講師にとって福音、いや天の恵みである。それから10年ほどの間、数え切れないぐらいお世話になった。上京する度、夜の原宿を抜けて神社の木立に入り、ぐっすりと眠ることができた。

(平成30年2月9日付 東京新聞朝刊より)