誰もが不思議に思う。長崎県の諫早湾干拓事業を巡り、開門命令の確定判決を覆し、福岡高裁は国側の請求を認め、命令を無効とした。確定判決を履行しない国の姿勢こそ問題なのではないか。
司法の役目とは何かが問われていたのだと思う。諫早湾の干拓事業は、一九九七年に「ギロチン」と呼ばれた工法で堤防が閉め切られた。その結果、赤潮がたびたび発生し、ノリは大凶作となった。カニやタコ、エビなどが捕れる豊かな海だったのに、高級二枚貝のタイラギは休漁となった。
だから、漁業者は堤防の開門を求めて提訴した。ところが干拓地では既に農家が野菜などを栽培していた。国と営農者は閉門を求める。利害が対立したが、二〇一〇年には福岡高裁の開門命令が確定判決となった。
むろん、国は判決に従うべきである。だが、それを拒み続けて、開門することはなかった。さらに営農者側が海水流入を懸念して訴訟を起こし、長崎地裁が開門差し止めを命じる判決を出した。司法の「ねじれ」が起きたわけだ。
国側は百億円の漁業基金による解決策を提示し、福岡高裁もこれを支持して和解をめざした。だが、漁業者側はこれを拒否。そして、今回の漁業者側の逆転敗訴、「開門判決は無効」の判断となった。そんないきさつだ。
なぜ確定判決に従わなくてもよかったのか。高裁判決の核心となったのは漁業権の消滅だった。確定判決当時の共同漁業権の存続期間は十年であり、一三年に消滅したという考え方を採った。請求異議といって、特別の事情変更があれば判決の効力を失わせうる法理がある。漁業権そのものがない、それを前提にすると確定判決を覆せるという理屈だ。
だが、本当に代々、有明海で漁業を営んできた人々に根本となる権利がないのか。高裁判断はあくまで形式論に基づいていないか。当時の権利が消滅と言われ驚いているのは漁業者たちだ。失望と怒りを口にしている。当然である。
司法の姿勢として、まずは確定判決をずっと履行しないままで、先延ばしにしてきた国側を厳しく指弾すべきではないのか。確かに国側は金銭的な解決策を出したが、漁業者側が応じないからといって、司法が国側寄りの現状維持を選択しては自己否定と同じだ。
豊かな有明海を取り戻さねばならない。漁業と農業は共存できるはずだ。
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