ネットを跳梁するくそアンチどもは、どうしてアンチになったのか? アンチという心理の深層には何が秘められているのか? アンチに未来はあるのか? はたまた、アンチの日常や性質について考えましょう。
ま、馬鹿なだけだろうよ。いっけねえ、結論を言っちまったよ(笑)。
「人生いろいろ。アンチもいろいろ」と某首相のように言って流すかな(笑)。以前、「学会アンチ研究」というサイトを作ったら面白いのではないかと考えたことがあります。このスレのように心理的に分析していくのも面白いですが、私自身の考えとしては、ネット上に散らばっている彼らの論点を網羅し、それに対する回答を与えていくというものです。実際、実に様々な態様を彼らは示していると思います。大雑把に分類すると、1.宗教的反対者、2.政治的反対者、3.差別主義者です。
ネット上で見られる数は、1<2<3という状態のように思います。
分類1
日顕宗、日蓮宗、元学会、元日蓮正宗、顕正会、キリスト教などと出自は様々で、論点は、教学的なものと学会員の社会的行為に対する批判が主体です。一部、政治的批判を加えるものもいます。
分類2
公明党が与党に参加してから増えたような気がします。共産党支持者はもちろんのこと、内部からの批判も多くなりました。自民党も民主党も基本的には保守政党であるという認識に立てば、民主党の批判は必ず矛盾を生じ、矛盾を生じない批判者がどういう思想的傾向をもつのかは明らかです。
分類3
これが一番多い。その心理的な側面をほとんど隠さずに表しているという点でアンチの心理を理解しやすい存在です。俗衆増上慢と言ったほうがわかりやすいですかね。無宗教、一般人というのが彼らのアイデンティティです。だからアイデンティティクライシスを起こしやすい最近の日本人の代表とも言えるでしょう。要するに、大多数の日本人と異なる思想と行動をする学会員の存在が許せない人たちで、一般人と異なるという点で学会員を差別することが公認されていると思っている人たちです。昔の被差別部落に対する差別に近いものがあります。しかし、実際に差別をしている人たちは今も昔も弱者のような気がしますね。「自分より低い立場の人を、差別したい。いじめたい」という根元的欲求が彼らにはあります。2ちゃねらーに多いようで、ネットに引きこもっている自分の弱さを省みることのできない人たちです。何か事があると、彼らはバッシングを行いますが、以上のような理由によると思われます。
実際の所、1も2も3も微妙に混ざり合っていて、分明というわけではありません。心理的な理由というのは、証明が難しいですし、ネタとしてあまり広がりがないような気がします。むしろ、それらの現れとしての彼らの批判を網羅的に収集し分類するほうが価値的な感じがします。それらをあらかじめ学会員の活動家が読んでおけば、「ああ、その批判ね。あるある」と余裕をもった対応ができると思います。青年部向けの折伏パンフみたいなもんで、今だったら「青年と宗教 30問30答」(創価学会男子部教学室編)ですかね。これの拡大バージョンができるということです。Wikiでやるとか。あ、俺、一抜けた。
私の考察によると、アンチというのは俗衆増上慢に含まれない(笑)。現実世界において、学会員と向き合い、直言することができない故に、ネットに書き散らしているだけの連中だと思う。
その特徴は、全くのデタラメか、あるいは、巧妙に嘘を盛り込んだ先入観に過ぎない。アンチは、群集の中にあって石を放つような種類の人間である。また、アンチの目的は、学会の悪口を書くことであり、書くことによって完結している。だから、実際に学会員を脱会せしめることは絶対にない。
常套手段としては、ある特定の個人を通して、学会全体を批判してみせる。結局、アンチどもは、創価学会という鏡によって、自分の価値観の歪みを映し出していると考えられる。
「アンチ」の定義であるが、ネット上で学会の非難中傷を繰り返す人物に限定しておきたい。実際に学会員を目の前にして意見を述べることのできる人物を、私は、「アンチ」とは呼ばない。その中には、当然、耳を傾けるべき意見も含まれるからだ。
確かに「ネット上」というのがポイントかと思います。2ちゃんねるなどを見てみるとあたかも学会を気持ち悪がっていたり、ものすごく嫌っていて絶対に近づかないと思っている人が世の中の大多数のように意見されているものが見られますが、私自身の周りの友人は学会に入っていない人ばっかだけど、そこまで言わないってゆうか知らないって人の方が多いと思います。
また実際に「俺は学会とか宗教とか嫌いだよ」ってはっきり言う人は、いわゆる「アンチ」の人とは違って、「いいところは認める、でもこういうところがおかしい」という人が多いように感じます。全否定って人には今まで私は会ったことがありません。
つまり私もいわゆる「アンチ」と言われる人はネットのみ存在する人だと思っています。少なくとも池田先生に限らず誰か人のことを「死ね」だとか言う人間は私の周りにはいません。心が病んでいるとしか思えません。
ネットアンチに限定すれば――仮想・匿名を隠れ蓑にして、自らの自我を肥大させ解き放ち、日常の鬱憤を晴らす、気晴らしの類でしょう。そうした肥大させた自我の解放に快感を抱き、やみつきになるとネットオタク、ネットヒッキーと化していく。そうした連中が、2ちゃんに集って、ゴロゴロしてると……(爆)。
差別主義に関して言えば、その裏返しの場合もあるでしょう。日本人は、基本的に他より優位に立つことで幸福を味合う・実感するようです。私も似たようなものですけど(笑)。資本主義社会の競争原理、競争社会では、そうなってもやむを得ないでしょう。これが差別の温床でもあり、逆がその裏返しです。
少なからず学会員と縁があった場合に、学会員に見下されたという意識が、アンチと化していく(笑)。折伏などで、自分が見下されたと思い込む勘違いですね。こうした思い込みが、攻撃的な非難となって現れてくる。もちろん、これがすべてではありませんが(笑)。ほんの一例です。
また逆に、自らが優位に立てなかったと自覚すれば、ねたみやひがみも因になりますね。
大体、愛情不足で育ったんじゃないの? 現実で構ってもらえないから、ネットで構ってもらえると、犬が尻尾振るみたいに嬉しくなっちゃう。あるいは、肥大化した自意識に現実が付いて来ないために、ネットで憂さ晴らししているか……。異常に自尊心が高いか……。気位だけは二人前ってカンジ。いずれにしろ、育てられ方が悪かったんでしょうね。ストレートに自己表現が出来ない。親の立場としては、他山の石として見過ごせないような、背筋も凍るおぞましさを感じます。
「日常の鬱憤」というのは、キーワードになるかも。
愚かなまでの攻撃性は、彼等が日常の中で攻撃にさらされながらも、それに抵抗できてない証拠。
その意味では、かに君の言っている「イジメっ子の心理」ではなく、イジメっ子の取り巻きみたいなものだろう。実生活では、おとなしい人物が大半であると想像する。
いわゆる、背景を読むことが出来ないのが特徴的に思うが。
字面だけを追って、そこから悪性ばかりに目を向け攻撃的なる。裏にある善性には、目を向けることが全くできない。想像力が働かない。その人の経験からいって、仕方がないとは思うのですが、なんというか、文字を通しての対話の距離感というのが、異常に接近しすぎている感があります。被害妄想めいた発言もよくある。あたかも自分が言われているかのような錯覚を覚えるのでしょう。しかも、三毒が強情であるという自覚がそれほどないわけだから、荒れるのは必至なのですがね。
「死ね」とかそういった言葉をいってしまうのは小、中学校まででしょ。幼い頃なら言ったこともあるし、言われたこともあるけど。大人になれば色々な形で「死」を考えさせられる機会があるしすごく重いことだとわかりそうだと思うのですが。
私としては批判するのも意見するのもいいと思いますが、心ない言葉やその人がいない場所で好き勝手に言いすぎだと思う。
アンチといわれる人の書き込みなどを見ていると「そこまで不満に思ってたり、怒りを感じているなら直接ぶつければいいのに」と思うことが多々あります。直接ぶつけるというのはその状況によってですが。結局口だけと感じてしまいます。
直接、ぶつけれないからこそ、ネットへと走るに違いない。そして、直接、ものを言えないストレスが拍車をかける。
臆病な自尊心と尊大な羞恥心。それによって彼は虎になりましたが尊大な自尊心と臆病な羞恥心によって成り立っているのが、アンチなのかも知れないですねぇ。もう少し、考えれば良いのに。
人間であった時、己おれは努めて人との交まじわりを避けた。人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。実は、それが殆ほとんど羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍ごすることも潔いさぎよしとしなかった。
ちょっとした事で侮辱されたなどとすぐ怒るくせに、人様の批判はしゃーしゃーとやってのける、こんな阿呆がいる。結構頭がいいヤツなんだけどな。そのわりに周りから敬遠されている。やたら正義ぶるところもあるが、そうやって自尊心を異常に高くしているから、どこかに壁をつくっているからかもしれない。自尊心は大事だが、見栄にはしるとちょっと浮いているようにみえる。
舎利佛の過去世としての身子菩薩。行を立てしに乞眼の婆羅門……云々。布施修行をしていて、その短気がたたって退転したという説話は、みな知っているだろう。舎利佛とは二乗の代表である。頭がいいのである。でも退転するのである。バラモンに罵られたことで、その仏道を閉ざしてしまうのである。
自分が賢い、間違っていない、貴方などと自分とは違う。などと思っている人は要注意だ。
『サイコパスのすべて』という書籍が出版されていますけど、ネットのアンチどもはサイコパスの部類に入るのだろうか?
『サイコパスのすべて』より抜粋です。サイコパスとは、簡潔に説明すると良心の呵責や罪悪感を持つことなく常人に出来ないような犯罪や行為を平然と行うことが出来る特質を持ち、嘘や誤魔化しがうまく、自己中心的で傲慢、口達者 で、感情が浅く、衝動的で、興奮がないとやっていけないようなタイプの人間を指している。いわゆる異常人格の持ち主といってよい。山崎正友みたいな人たちです。
《サイコパスチェックリスト》
1.口達者・表面的魅力
3.刺激を求める・退屈しやすい
4.病的に嘘をついて人を騙すこと
5.狡猾さ・操作性
7.浅い情緒
9.寄生的な行動様式
10.脆弱な行動統制力
11.乱交的な性関係
12.幼少期からの行動上の問題点
13.現実的で長期的な目標の欠如
14.衝動性
15.無責任さ
16.自分の行動に対する責任を受け入れることが出来ない
17.短期の結婚生活の繰り返し
18.青少年時代の非行
19仮釈放の取り消し
20.多種類の犯罪行為
1項目が2点として、北米圏では30点以上の場合はサイコパスと判断される。一方、スウェーデンやイングランドでは25点がその基準となる。 日本ではさらにこれよりも基準となる点数が低くなるのだそうです。
へー。なるほど。ちょっと借りますね。
私の見立てですが、色んなタイプがいるので、アンチがサイコパスの条件に適っていないとしても、特定の項目について、強い傾向性を感じます。
1.口達者・表面的魅力
これは、どっちかというとネットのアンチタイプじゃない。魅力をかもし出そうとするならば、アンチ行動することがむずかしいはず。だから現実世界でこのタイプのため、ネット世界では本音で書きなぐるということになるかも。
いますね。
3.刺激を求める・退屈しやすい
常駐タイプに多そう。ネットに刺激を求めている。
4.病的に嘘をついて人を騙すこと
悪質アンチ
5.狡猾さ・操作性
これも、悪質アンチというタイプ。だが見抜かれている。そして、そのことに気づいていないのも要るようだ。
7.浅い情緒
これは人それぞれ。だが情緒に訴えるアンチもいる。情緒不安定ではありそうだが。
散見される。
9.寄生的な行動様式
創価関係板に寄生しているね。
10.脆弱な行動統制力
不用意な書き込みも多いみたいですね。
11.乱交的な性関係
それはわからない。
12.幼少期からの行動上の問題点
これも具体的にはつかめない。問題点を指摘されアンチかしたというなら、そいう可能性も無いわけではないが、程度問題。
13.現実的で長期的な目標の欠如
未来志向に欠けている、問題解決の方向に向かわない。いつまでも過去にこだわる。これはネットに限らず、アンチの特徴。未来志向でも、方向がちょっとずれているのもいる。それゆえ、創価に対してはアンチ化。認識不足という非現実性が要因でしょう。
14.衝動性
多い。衝動でネットに書いている風である。
15.無責任さ
多い。不確定情報の垂れ流し。無責任きわまる。
16.自分の行動に対する責任を受け入れることが出来ない
上記の責任というものを初めから感じていないようである。
17.短期の結婚生活の繰り返し
?です。
18.青少年時代の非行
逆に、非行に走らないタイプというのも。
19.仮釈放の取り消し
これは、見たことないな。わからない。
20.多種類の犯罪行為
サイコパスというレッテルを貼りたくはないが、予備軍であることは間違いないでしょう。
1.口達者・表面的魅力
これは全く当てはまりませんね。対話が苦手で、誰からも相手にされないから、ネットしか居場所がないんでしょうな。
本気で組織革命をしようとする人は、安易な組織批判を広言しません。また、その手法は、どこまでも自分自身の人間革命を基調とし、功徳に浴す姿で皆をリードしてゆくべきでしょう。
愚かな連中は、必ず、共産党的な手法を好みます(笑)。「反対! 反対!」と。彼等の信心の無さが窺えて、間抜けにしか見えません。
モノ・行為における存在の有無をめぐって、「ない」ことを証明することは
非常に困難である。これを悪魔の証明(あくまのしょうめい、羅: Probatio diabolica)という。もともと、西洋中世のカノン法用語らしい。
「有ることの証明」は、証拠を提示すれば一瞬で完了する容易なことだが、その反面、「無いことの証明」は調査範囲が限定されたケースを除き、立証は事実上不可能である。なぜならば、この世の全ての可能性、或いは森羅万象、を完全に調査しなければならないからである。
ゆえに、公平の見地から立証責任は「ある」と主張する肯定側が負うことになっている。証明できなければ無いものと見なされる。法学では「推定無罪の原則」がそれに当たる。
もしそうでなければ、例えば「お前は魔女だ」「お前は殺人犯だ」「この世にドラえもんは実在する」などのように、どんなに無茶苦茶な主張でも主張者がそれを好き勝手に言いつのるだけで、否定する側が「無いこと」を証明しなければならないという不公平な重荷を背負うからである。
しかし、現実の論争の場では、必ずしもこのことが了解されているわけではない。
【「創価仏法研鑚掲示板」より転載】