2018-08-13 ペリリュー島 訪問記
終戦記念日が近いので関連エントリを。
数年前、ペリリュー島を訪れた時の写真を紹介しておきましょう。といっても「ペリリュー、それどこ?」な人が大半だよね。
ペリリュー島はパラオの近くにある小さな島です。一見とてものどかな島ですが、
海沿いの道には今でも古いコンクリの建造物が残っています。
造ったのは 80年近く前の日本軍。中には、海から上陸してくる米軍を迎え撃つための砲撃用の穴。コンクリには鉄筋まで入っています。
海の上にも 80年も前に造られた橋の脚が残っています。
この周辺は第一次大戦で棚ぼた勝利を得た日本が委任統治領として獲得。「南洋進出、南洋経営の拠点」としていたエリアです。
当時の日本は北と南の両方に領土を拡大しようという野望をもっており、北は朝鮮から満州やサハリン、
南は東南アジアからフィリピン、インドネシアなどに加え、パラオなどの南方の島々を日本領にしようと考えていました。
戦争博物館などでよく見るこの地図、赤線内が日本が進出しようとした(あわよくば植民地にしようとした)区域です。
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当時の日本って、今の中国の 5倍くらい拡張主義的、覇権主義的な国だったとよくわかるよね。
ペリリュー島のあちこちには兵士が寝泊まりしていた洞穴があり、
穴の中にはビール瓶。酒盛りをやってたのではなく、手榴弾を作るため。
これは食器でしょうか。
ガイドに案内されてるとはいえ、何があるかわからないので歩くのがやや怖い。
日本は米軍との戦争に備えてペリリューを含むパラオを軍事拠点化しようと試み、基地や飛行場を次々と造りました。(←今の中国そっくり!) そして当然、それらは米軍の標的となっていきます。
既に敗戦が確定的となっていた 1944年の秋、次々と日本軍を撃退しながら進んで来た米軍は、ペリリュー島に立てこもる日本軍にたいしても総攻撃を開始。
1万人ちょっとの日本兵に米軍は 4倍から 5倍の人数。
てかそれよりも、日本は既に本土からの補給も支援もなく、島に立てこもっている人が全員死ぬまでの玉砕戦。一方の米軍には、いくらでも補給がやってきます。
最初から勝ち目はなく「少しでも本土決戦を遅らせるために、一日でも長く降伏しない」ことが目的の戦いだった。
だから「命を残したまま降伏する」なんてありえない。
島には戦後 80年弱、遺族や生き残った仲間がはるばる日本から訪れ、多くの慰霊碑がたっています。
島全体がリアルな戦争博物館となっており、当時の日本兵が残した旗や
捕虜となった日本兵が残した兵器も見られます。
日本人捕虜を整列させる米軍の写真
これは後から遺族や元同僚の方が持ち込まれたものかな。
草むらになにかあるので近寄ってみると、
飛行機の残骸だったり、
戦車も残っています。
でもそれより、歩いてる横の何気ない木の幹にも物騒なものが立てかけてあったり、
あちこちの壁からこんなものが突き出てるほうが怖いです。
島の大半はこのような密林で、
一般の兵士はこういう洞穴で寝泊まりするのですが、
突如現れたのは、日本軍が司令部として使用し、軍のエライ人向け住居でもあった巨大な建物の残骸。
天井には米軍からの爆撃を受け、大きな穴が。
司令室などがあったのでしょうか。二階のベランダからは軍用の滑走路が見えていました。
上級軍人が使う建物なのでお風呂や
トイレも完備
驚いたのはこんなものまであったこと。
その近くにはさざれ石。。。兵士はみんな「天皇陛下 万歳!」と叫んで自決したのでしょう。
こちらの慰霊碑も日本から持って来られたものですが、
日付が、歴史的には存在しない「昭和 64年 2月」になっていました。製造し、持ってくる間に元号が変わってしまったらしい。
この穴は最期に日本軍が自決した洞穴だということで、
私もお線香を供えてきました
島には米国側の慰霊碑もあるほか、
なにやら新しい慰霊碑も。これ見覚えありますか?
2015年に天皇陛下が皇后とともに慰霊訪問された際、整備されたものです。日本の方向も示してありました。
戦後 70年という節目の年に、ご高齢の両陛下が(宿泊場所もないため日本の巡視船に宿泊してまで!)ペリリューを訪れられたという事実こそが、この島での当時の戦闘の激しさを物語ってますよね。
★★★
終戦記念日が近づくと、メディアはこぞって戦争関連番組を流します。
その中で私がいつも感じる違和感は、「被害者としての日本」ではなく「加害者としての日本」という視点があまりに欠落しているのではないかということ。
ペリリューやパラオを含む様々な南方の島で、もちろん、フィリピンやビルマなども含め、日本が進出して戦争をした国々には、
もともと、その国で平和に過ごしている多くの人達がいました。
彼らの中には、日本と米軍(や連合軍)との戦いに巻き込まれ、命を落とした人がたくさんいます。
なんの罪もないのに、平和な日々をいきなり奪われた、時には命さえ奪われた人たちです。
なかには兵士に乱暴されたり、食料や農地を奪われた人もいたでしょう。
私達の国は、間違いなく戦争の加害者です。どんだけ広いエリアで日本が現地の人に迷惑をかけたか、もう一度、この地図をよく見てください。
こののどかな海を戦場にしてしまったのは、いったい誰なのでしょう?
そんじゃーね。
<関連エントリ>
・靖国参拝
・国と個人