熱中症の危険性は前から叫ばれているが、社会全体としての対策は進まない(写真はイメージ)


 連日の猛暑によって子供が熱中症で倒れるという事故が立て続けに起こっている。ネット上では、猛暑の中での過酷な運動など、馬鹿げた行為はやめようとの声が圧倒的だが、社会全体としてそのような動きになっているとは言い難い。

 合理的な判断をすべきというネット上の見解が、必ずしも社会の多数派であるとは限らない。多くの人が実は改善を望んでいないのだとすると、状況を変えるのは困難だ。

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問題視しているのはネットと一部の識者だけ?

 7月17日、愛知県豊田市の小学校で、高温注意報が出る中、校外学習を実施したところ、1年生の児童が熱中症で死亡した。1年生110人は、徒歩で1キロ離れた公園まで歩き、虫取りなどをしていた。学校側は高温注意報が出されていることは把握していたが、これまで大きな問題は起きていなかったことから、中止するという判断はできなかったという。

 27日には、新潟県加茂市の高校で、野球部のマネージャを務める2年生の女子生徒が、練習場から学校まで走って戻る間に倒れて死亡するという事故が発生した。女子生徒は、練習場から学校までの3キロの道のりを、野球部の男子部員と一緒に走って帰ったが、到着した直後に倒れたという。女子生徒が倒れた直後、監督は呼吸はあると判断し、AED(自動体外式除細動器)を使用しなかった。

 ここ数年、各地で熱中症の被害が相次いでおり、猛暑は大きな社会問題となりつつあるように見える。

 ネットでは「猛暑の中の運動など、いい加減やめよう」「なぜわずかなコストで済むエアコンが学校に導入されないのか」といった、極めて妥当な意見が飛び交っている。メディアにおける識者の見解も、たいていは合理的な判断を求める内容だ。

 だが現実には、こうした事故が毎年のように発生し、それに対して社会として十分な対策を実施するという流れにはなっていない。

 熱中症の問題は、今、急に発生したものではなく、何年も前からずっと指摘されてきたことである。それにもかかわらず、十分な対策が実施されていないという現実を考えると、ネット上での議論や識者の見解と、現実社会との間には相当な乖離が生じている可能性について考えざるを得ない。

政治家の発言が精神論的になる理由

 猛暑の問題については、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が興味深い発言をしている。

 全国的に熱中症で救急搬送されるケースが多発していることについて森氏は、「この暑さでやれるという確信を得ないといけない。ある意味、五輪関係者にとってはチャンスで、本当に大丈夫か、どう暑さに打ち勝つか、何の問題もなくやれたかを試すには、こんな機会はない」(スポーツ紙とのインタビュー)と語っている。

 一部の識者はこうした発言を「精神論的」として強く批判しているが、発言している森氏には、おそらく精神論を振りかざしている認識はないだろう。

 これは森氏の発言ではないが、熱中症によって救急車を呼ぶケースが多発すると、重症患者が後回しになる可能性があるとして、救急車をむやみに呼ぶべきではないとの意見も出ているようだ。

 こうした見解に共通しているのは、日本は厳しい状況にあるのだから、それに打ち勝たなければならない、あるいは社会的リソースが十分ではないのだから、全員がそれを認識した上で行動しなければならないという一種の途上国的な社会規範である。

 一方、識者の見解や、ネット上での意見の多くは、状況をあらかじめ予測し、それに対応できる体制を構築することで被害を減らすべきというシステム的思考である。

 両者はまったく異なるパラダイムに属しており、両者の議論はたいていの場合、スレ違いとなる。

 森氏はすでに政界を引退しているが、首相まで務めた生粋の政治家であり、今でも政治家としての思考パターンを維持していると考えられる。政治家というのは、ある意味で過酷な仕事であり、票が入らなければタダの人になってしまう。どのような発言をすれば、多くの人から支持されるのか四六時中考えているのが政治家という生き物である。

 根っからの政治家である森氏が、精神論的な基礎認識を持っているのは決して偶然ではないだろう。つまり、多くの有権者がそう考えているからこそ、彼等はごく自然にこうした発言をするのだと考えた方がよい。

ネット上の意見は全体を表わしていない?

 総務省が行った調査によると、フェイスブックにおいて自ら積極的に情報発信を行っている日本人はわずか5.5%で、米国(45.7%)、ドイツ(25.9%)、英国(34.9%)と比較するとかなり少ないことが明らかとなっている。

 ツイッターも同様で、積極的に発言している人はわずか9%となっており、米国の半分程度しかいない。ブログ利用者の中で、閲覧だけしているという人の割合は米国の2倍もある。

 日本におけるソーシャルメディアの利用が閲覧に偏っているのだとすると、ネット空間上で飛び交う情報や意見の多くは少数派であり、全体を反映していない可能性が出てくる。もしそうだとすると、システム的な解決策は多くの人が望んでいないということになり、状況はなかなか改善しない。

 マスメディアで見解を披露する識者も同様である。

 彼等は積極的に情報を発信するのが仕事であり、一部の人は啓蒙を目的にそうした活動を行っている。このため、一般社会の感覚とは乖離が生じやすい。

 マスメディアの影響力が今よりも大きかった時代には、(メディアでの主張が正しいのかは別にして)メディアでの主張が「世論」とされ、一種の権力として作用していた。だが、今のメディアにはそうした力はなく、たとえ正論であっても、それを社会に強要する力はない。

 そうだとするならば、識者による主張によっても状況が大きく動く可能性は低いということになる。

身近な問題こそ粘り強く議論を

 この問題は、熱中症だけにとどまるものではない。働き方改革や受動喫煙問題、パワハラやセクハラなど、今の日本において論争が生じているあらゆるテーマに共通した話である。

 日本企業で長時間残業が横行しているのは、ごく少数の上司が、嫌がる全社員に対して暴力的に長時間残業を強要しているからではない。多くの日本人に長時間残業は美徳という感覚があり、残業しなかった人物を批判して優位に立ちたいという潜在意識を持っているからこそ生まれてくる社風である。

 受動喫煙の問題も同じだ。少数の喫煙者だけが集中して権力を持ち、周囲に受忍を強要しているわけではない。受動喫煙などの問題に声を上げる人に対しては、非喫煙者の中からも、和を乱すといってバッシングする人が出てくるからこそ、こうした状況が放置される。

 結局のところ、多くの人が被害者でもあり加害者でもあるというのが実態であり、こうした集団のあり方というのは、まさに前近代的なムラ社会(ゲマインシャフト)に他ならない。

 筆者は昔から、身近に発生する小さな非合理に対しても「ノー」を主張してきた方だが、こうした声を上げると、ほぼ100%、周囲から猛烈なバッシングを受ける。これを貫くのは容易ではないことは実感として理解できる。

 ネットなどで自らの意見を表明することは大事だが、こうした非合理性を生み出しているのが、私たち自身なのだとすると、それだけで状況を変えることは難しい。日常生活の中において、それが身近で言いにくい人物が相手だったとしても、しっかりと意見を主張し、粘り強く説得する胆力を持たなければ、本当の意味での合理社会にシフトすることはできないだろう。

筆者:加谷 珪一