宮台真司の話で一番注目したのは「人間は感情を持つことで進化した」という指摘だ。
これについては先日食事をしながら議論した。

ライオンのたとえをした。
ライオンはオス1匹が何匹ものメスを率い、君臨する。
そして子供を大量に生む。

しかし、別のオスライオンがこのコミュニティを襲い、オス同士の戦いに勝ったとする。
次にどうするか?

負けたオスライオンの子供を全部噛み殺すのだ。

そして更に、そうすることによって多くのメスライオンが、新しい「主」に発情するのだという。


実に恐ろしい話だが、やはりこういう不条理を「恐ろしい!」と思う衝動、すなわち「感情」が、いつしか人間に芽生えた。
ライオンの所業を恐ろしいと感じ、自分のコミュニティに対する愛情をますます深めることによって、当然のことながら、人間は種の保存を確固たるものにしていったのだ。


さてそんな宮台が最近提唱しているのが、「感情の劣化」である。




つまり為政者が民衆の「感情」を操作し、「全体主義」化することで、民衆はいつでも「入れ替え可能」になり、個としての主体性を失う、ということだ。

この中で宮台はこんなことも言っている。

いわば個人がむき出しのインターネットのなかで、自分が見たいものだけを見て、自分がコミュニケーションしたい仲間とだけコミュニケーションするので、感情の劣化が深刻化するのです

まぁこれはこの際今は置いといて、しかし、今人間に必要以上の感情の「進化」を求めるのは、「ライオンよりマシなくらいだしなぁ」と、悲観的に思うしかない。
同様に、人類史上、人間の感情が今よりマシだった時代も、考えにくい。

なんかどんどん悲観的になってしまうのだが、最近、人間に「これ以上」を求めることが、非常に不毛に思えてしょうがない。
人間は所詮「ライオンよりはマシ」なくらいであり、これ以上はないし、過去にもなかったのだ。

そのくらいで生きていくしか、もう方法は残ってないのかも知れない。
今日もTwitterをぼんやり眺めて、溜息混じりにそう思う。


感情があるだけ儲けものだ。もうそう思うしかない。