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【太平洋戦争】日本の無条件降伏反対派による蜂起事件

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徹底抗戦派によるクーデター・蜂起・騒乱事件

1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受け入れて無条件降伏し、天皇陛下による玉音放送によってその事実は戦闘中の軍人及び民間人に広く伝達されました。

 大部分の人はそれを受け入れたようですが、中には「降伏はありえない」としてあくまで徹底抗戦を主張する人も多くいました。

 「日本男児たるもの最後の一兵になるまで戦うべし」などと教え続けてきたから、本気でそう考えるやつが出てきても無理はありません。

 8月15日近辺で起きた、降伏反対派による事件をピックアップします。

1. 西部軍による九州独立構想

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九州を独立させ徹底抗戦をする構想

西部軍は連合軍の日本本土侵攻に備え、中国・四国・九州を統括するために設置された陸軍の組織で、昭和20年九州全域の地上作戦を任務とする「第16方面軍」、警備や補給、地方機関との連携を任務とする「西部軍管区」に分けらました。

8月14日、明日昭和天皇による重大発表が予定されていることを知った西部軍管区報道部長の町田敬二大佐は、軍管区司令官の横山勇中将に対し、

 「九州を独立させ、天皇陛下を九州に迎えた上で連合軍に徹底抗戦する」

という構想を伝えました。

しかし横山中将はこの意見に対し「自分はもう老齢であり、そのような気力もない」として申し出を断り、九州独立構想はその名の通り構想で終わりました。

 

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2. 宮城事件

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Photo by RSSFSO

国体護持を目指す陸軍と近衛師団の一部が起こしたクーデター 

宮城事件は「日本のいちばん長い日」などで小説や映画化されているため、かなり有名なお話です。

連合国からの降伏勧告であるポツダム宣言を受け取りその中身を読んだ関係者の一部は、

「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従うものとする」

という文言を読み青くなりました。天皇の地位も連合軍の手に委ねられることになり、その安全を全く保証しないものであったため、陸軍の一部の人間は連合軍から「国体の護持」を保証されない限りは決して降伏してはならないと強く主張していました。

しかし、総理大臣の鈴木貫太郎や外務大臣の東郷茂徳らはポツダム宣言の受け入れを進め、8月14日、翌日に放送する「玉音放送」を天皇陛下の肉声で録音し、録音機を皇后宮職事務室内の金庫に保管させました。

15日深夜、陸軍の畑中健二少佐らの反乱グループは近衛第一師団 団長・森赳中将を殺害。

師団参謀の古賀秀正少佐は配下の近衛歩兵第二連隊に畑中少佐が起案した軍の展開を命令。加えて、宮城のどこかにある録音機の捜索を命じました。

しかし録音機は見つからないばかりか、反乱グループからクーデターの参加を求められた東部軍の田中軍司令官と高嶋参謀長が反乱の鎮圧に動いたため、近衛歩兵第二連隊の隊員は東部軍により説得されて撤退を始め、午前8時前には反乱はほぼ鎮圧されました。

首謀者の椎崎中佐と畑中少佐は、クーデターの失敗後宮城前で抗議のビラまきをした後自殺。古賀少佐もピストルで自殺しました。

そして正午に玉音放送は無事に放送されたのでした。

 

3. 国民神風隊の首相官邸焼き討ち事件

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宮城事件と連動した狂信的右翼の暴動 

「国民神風隊」隊長の佐々木武雄は若い頃から行動派右翼として横浜で名が知れた存在で、戦争中は徹底抗戦を唱えて人望を集めていました。

彼は東京警備軍横浜警備隊(一個大隊)の隊長で、いざというときには首相官邸を襲い、閣僚を全員逮捕し、降伏を阻止しようという計画を立てていました。

8月15日に無条件降伏の号令が出されることを知った佐々木は、部下に時が来たことを告げますが、部下は及び腰になってしまう。意外と人望がなかった佐々木ですが、躍起になって人集めに奔走し、14日の夜までに軽機関銃をもつ一小隊の説得に成功。 さらに勤労動員で川崎の軍需工場で働いていた必勝学徒連盟の、横浜高工応用化学科三年の学生5名を仲間に加えました。

こうして集まったメンバーに彼は「国民神風隊」と名付け、首相の鈴木貫太郎を襲撃することを計画します。

重油(ガソリンと間違えて持って来てしまった)を抱えまず首相官邸に赴き、油を巻いて火を点けた。重油なので全然燃えず、カーペットを燃やしただけで消えたそうです。次いで鈴木貫太郎首相の邸宅と枢密院議長平沼騏一郎の邸宅を延焼させて撤退しました。

その後警察に出頭を求められた学生は逮捕され、5年の実刑になりましたが、主犯の佐々木は逃げおおせて各地を転々とし「大山量士」なる名前で「新しいアジア」建設を呼びかける運動のために日本一周の活動を行いました。

 

4. 厚木航空隊事件

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 8月15日以降も戦闘を継続した海軍航空隊

厚木は現在でも在日米軍の基地がある基地の町ですが、戦争中は厚木の飛行場には敵機の帝都への侵入を防衛する第三〇二海軍航空隊が置かれました。

司令官は小園安名大佐で、『厚木基地を日本最大・最強の基地にして国家の危機を支えてやる』との思いで着任したそうです。

8月15日、天皇陛下の玉音放送を聞いた小園大佐は徹底抗戦を宣言。零戦で全国各地に徹底抗戦を訴えるビラを巻き、帝都上空に現れる連合軍機の撃ち落としを部下に命じました。

8月17日、アメリカ軍の爆撃機4機が横須賀近辺を飛行した時、第三〇二海軍航空隊の航空機が出撃。4機の爆撃機はたちまち餌食になり、ジョゼフ・ラカリテ補佐官が重症を負い、アンソニー・マキオネオ二等兵が死亡しました。この報を聞きマッカーサーは激怒したそうです。

小園大佐の上司が説得にあたりますが彼は聞き入れなかったため、21日朝に小園大佐を麻酔でこん睡させて強制的に横須賀野比海軍病院の独房に連行しました。

上官を失った抗戦派の隊員はその日のうちに基地から逃げていったため、マッカーサーの上陸前には全て鎮圧されました。

 

5. 水戸教導航空通信師団事件

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一部の陸軍軍人が上野公園を本拠にし徹底抗戦を試みた事件 

8月15日、茨城県水戸市にある水戸教導航空通信師団の団員たちは、天皇陛下の玉音放送を皆で聞きますが、第二隊第二中隊を率いる岡島哲少佐、第二隊附の杉茂少佐、林慶紀少尉は降伏に納得できず、同志を集めて上京し「終戦阻止」の蜂起に加わろうとしました。

 17日に上京した岡島少佐らは、上野公園の東京美術学校(現:東京藝術大学)の校舎に侵入して占拠し、ここを本拠にして終戦阻止派と合流を試みました。

同日岡島少佐らは近衛第一師団に赴き、参謀石原貞吉少佐と面会。この時石原参謀は終戦の勅令は事実であり、蜂起を諦めて水戸に帰還するように説得を続けました。

19日午後、陸軍航空本部に赴いた杉少佐と前田中尉は、

「全員引き揚げなければ武力行使する」

という通告されます。驚いた2人は急ぎ上野に戻り、岡島少佐に詳細を報告して部隊の撤収を進言。その夜「撤退か徹底抗戦か」の議論が交わされ、とうとう撤収が決定されたのですが、林少尉が突然石原参謀を射殺。次に杉少佐を撃とうとしますが、荒牧中尉が林少尉の右手首を軍刀で斬った。林少尉は拳銃で自分の腹部を撃って自決してしまいました。

岡島少佐らは翌日に水戸に戻りましたが、田中師団長のこの反乱に対する処分は厳しく、岡島少佐・杉少佐・荒牧中尉は自決を余儀なくされました。

 

6.愛宕山事件

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Photo by Harani0403

 徹底抗戦を主張する右翼団体が愛宕山で集団自決

8月15日の天皇陛下の玉音放送を聞いた後、右翼団体・尊攘同志会の首領・飯島与志雄ら12名は徹底抗戦を主張、17日に内務大臣・木戸幸一と弟の和田小六の邸宅を襲撃し殺害を試みます。

しかし襲撃が失敗に終わったため、東京港区の愛宕山に籠城し、全国各地の徹底抗戦派に蜂起を呼びかけた上で、これに呼応するグループに参加し暴動を起こそうとしました。

彼らは日本刀やら銃やら手榴弾で武装しており、これを鎮圧すべく警察官70名が愛宕山を包囲。警官は投降するように呼びかけますが彼らは応えなかったため、籠城から1週間後の8月22日に強制排除を開始。

すると尊攘同志会の10名は「天皇陛下万歳」を叫んで手榴弾で集団自決をしました。

残る2名の会員の妻は身柄を拘束されますが、2人も5日後に愛宕山の集団自決の場所でピストル自殺をしました。

 

7. 松江騒擾事件

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 愛宕山事件に感化された右翼若者グループが起こした事件

関東で愛宕山事件や厚木航空隊による抵抗運動が発生しているニュースは地方にも届いていました。

山陰でも鳥取県の美保航空隊基地の海軍機が「断固抗戦」のビラを撒くなど、降伏を受け入れられない人たちの活動が活発化しました。

愛宕山で自決した尊攘同志会の会員である岡崎功(25歳)、右翼団体のシンパであった長谷川文明(24歳)と波多野安彦ら20歳前後の右翼の若者らは、「昭和維新を起こし日本精神を復興させ真の皇国を打ち立てる」ための捨て石となることを決意し、自ら「皇国義勇軍」と名乗りました。メンバーの数は14〜48名と資料によってバラツキがあります。

作戦は「島根県庁を焼き討ちにして悪政を敷いた知事を殺害し、県民を騙した島根新聞を破壊し、行動しやすくするため郵便局と電力会社を破壊した後、ラジオ局を占拠し決起を呼びかける」 というもの。

8月24日に作戦は決行され、島根県庁の放火と島根新聞の内部の破壊には成功したものの、知事の殺害や郵便局・電力会社の破壊には失敗し、その足で松江放送局に向かいました。メンバーは松江放送局長に対し、「決起趣意書」の放送を要求するも、局長はこれを拒否。

彼らは「自分たちの要求に応じないのは、天皇と国民に対する裏切りだ」などと主張しますが、駆けつけた武装警官と松江連隊の隊員によって包囲され、最終的には警官らの説得によって投降に応じました。

 

8. 川口放送所占拠事件

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抗戦派の青年将校により放送局が占拠された事件 

 8月24日、関東全域のラジオ電波の発信元であった、川口放送所と鳩ヶ谷放送所が陸軍の抗戦派によって占拠され、約9時間放送が停止する事件がありました。

この日は台風が接近しており暴風雨で、その中を予科仕官区隊長の窪田少佐と本間中尉、彼らが率いる16歳の陸軍予科仕官学校の生徒約60名が川口放送所に押しかけ、放送局員に「自分たちの決起を国民に知らせ、徹底抗戦するよう訴える」放送をするよう要求。

放送局員は「暴風で機器が壊れている」と言い訳して放送をさせませんでした。

次いでメンバーは鳩ヶ谷放送所に向かい、同様の要求を突きつけます。しかしここでも放送局員は「機器が壊れている」と言って放送をさせず、その間に脱出した職員が大宮憲兵隊に通報。駆けつけた憲兵隊により窪田少佐と本間中尉は捕えられ、生徒らは田中大将に死ぬほど怒られて帰宅しました。

 

まとめ

こうやって見ると、ほとんどの日本人は降伏を素直に受け入れ、徹底抗戦派の扇動にも応じずに淡々としていたことが分かります。まあ、突然のことに呆然として良いも悪いもなく、目の前のことに精一杯だったというのが正直なところな気がしますが。 

徹底抗戦派の言う「通すべき筋がある」というのも理解はできなくはありませんが、彼らが語る筋はどう考えても大多数の人を不幸にしかしないので、いったんリセットされて然るべきだったのだろうと思います。

 

参考文献・参考サイト

 宮城事件研究室

"横浜警備隊長 佐々木大尉の反乱" Web版 有鄰

"【戦後70年】「徹底抗戦」うごめくクーデター派 1945年8月13日はこんな日だった" HUFFPOST

松江騒擾事件 - Wikipedia

水戸教導航空通信師団事件秘史

はまれぽ.com

「 「右翼」と「左翼」の謎がよくわかる本」 PHP研究所

 "九州に“幻”の徹底抗戦論 筑紫野の山中の地下壕に西部軍の防衛の思い" 産経ニュース 2015年12月15日