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投稿コメント一覧 (12コメント)

  • 聖なる空間

     宗教的人間にとって、空間は均質なものではない。

     そこには「聖なる空間」と「俗なる空間」とがあるのだ。

     「聖なる空間」の特徴を、エリアーデは次のように描き出す。

    「(a)聖なる場所は空間の均質性における裂け目を表わす。(b)この裂け目は(天から地上へ〔およびその逆〕、地上から下界へというように)一つの宇宙領域から他の宇宙領域への移行を可能にするところの〈入口〉によって象徴される。(c)天との交流は柱(宇宙の柱、universalis columna)、梯子(ヤコブの梯子)、山、樹、蔓、種々の形象によって表現され得るが、それらはみな世界の軸(axis mundi)に関係する。(d)この世界軸の周囲に〈世界〉(=われらの世界)が広がる。したがってとの軸は〈中央に〉、すなわち〈地の臓部〉にあり、それは世界の中心である。」

     地上における「聖なる空間」は、天上の聖なる世界とつながった場所なのだ。

     したがって、そこにはある「裂け目」があり、「軸」が通っており、そのようにして聖なる世界とつながっている。

     その象徴的な例が、聖なる山だ。

     インドのメール山、イランのハラベレザイティ、メソポタミヤの神話的な〈国ぐにの山〉、パレスチナのゲリジムなどがそれに当たる。

     寺院もまた、聖なる世界とつながった場所と考えられる。

    「寺院が宇宙の山と同一であり地上と天とを結ぶ〈絆〉を具現すると考えられていたことは、バビロンの塔や聖殿の名がすでに証明している。すなわちそれらは〈家の山〉〈すべての国ぐにの山の家〉〈嵐の山〉〈天と地の絆〉などと呼ばれている。」

     人類は、自分たちが暮らす世界がこの聖なる空間であり、聖なる世界とつながった世界であると考えていた。それゆえエリアーデは次のようにいう。

    「以上からわれわれは、宗教的人間というものは出来るだけ世界の中心に近く住むことを願ったと結論せねばならない。」

  • スケートリンクに魚5千匹を氷漬け 「残酷」批判相次ぐ

        ときどき日本人は民度の低いことをやらかすので

         世界では韓国や中国の同類と扱われる

      
    スケートリンクに氷漬けの魚が5千匹――。北九州市のテーマパーク「スペースワールド」が「前代未聞」とうたい、初めて試みた企画にインターネット上で「残酷」などと批判が集まっている。スペースワールドは「誤解を招いた」とし、これらの魚について、「シーズン終了後に供養したい」と説明している。

     「フリージングポート」と名付けられたスケートリンクは冬季限定で営業し、今季は今月12日から始まった。魚を氷漬けにしたのは「氷の水族館」という企画で、公式サイトでは「前代未聞のアトラクション」と説明している。スペースワールドによると、「海の上を滑る感覚を味わってもらいたい」と考えたという。

     リンクの氷には、市場で仕入れたサンマやキビナゴなど約5千匹の魚介類を埋めた。エイやジンベイザメなどの大型魚の写真も埋め込んだ。サイトでは「5000匹の氷漬けにされた魚たちの上をスイスイと滑走」「前代未聞のアトラクションで日本初、いや世界初間違いなし!!」と宣伝。公式フェイスブックでも「世にも奇妙なスケートリンク アホですな~SW(笑)」などと写真付きで紹介した。

  • >>No. 82421

    >そんなの正規の薬品会社で製造している訳ない。


    yahoo知恵袋

    Q ヒロポンって日本製ですか? 作ろうと思えばいまでも作れますか?


    A ヒロポンは 大日本製薬(現 大日本住友製薬)の登録商標名ですので 日本製です。日本近代薬学の祖と言われる長井博士が生み出しました。今でも規制されながら 製造されてますよ。

  • クリスマス、バレンタイン、ハロウィンの次はブラックフライデー


    イオンが導入へ

    ブラックフライデー(英語: Black Friday)はアメリカ合衆国で感謝祭(11月の第4木曜日)の翌日の金曜日のことである。正式の休暇日ではないが休暇になることが多く、伝統的に一年で買い物が最も行われるクリスマス商戦(ホリデーシーズン)の開始の日である。また、ブラックフライデー当日は感謝祭プレゼントの売れ残り一掃セール日でもある。

    1961年ごろからフィラデルフィアで始まり、1975年にはかなり広まった比較的新しい言葉で、当日買い物客で道路が混むのでそう呼ばれている。名付けたのはフィラデルフィアの警察で、人が外に溢れて仕事が増えるため「真っ暗な金曜日」と呼んだことがきっかけとされる。当初、小売店などはこの言葉に不快感を示して「ビッグフライデー」という言葉を作ったが、一般には「ブラックフライデー」で広まった。後に、フィラデルフィアの新聞が、小売業者が儲かり黒字になるという解釈を発表してからは「ブラックフライデー」は良い意味で使われるようになった

  • イエスはなぜ処女から生まれたのか?



    聖霊によって身ごもる   (並行箇所 マタイ1.18)

    天使は答えた。 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
    だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
                    (ルカ 1.35)
     
    エリザベトが聖霊に満たされる

    マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。
    エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。
                          (ルカ 1.41~42a)
     
    神殿にイエスをささげる
    ここは、イエスと聖霊ではなく、救い主の到来を待っている人を聖霊が導き、イエスに会わせます。日本なら、お宮参りにあたる場面です。

    そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえ献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

  • >>No. 150660

    北方領土は日本の固有の領土ではないどころか

          東北さえも日本の固有の領土ではなかった




    東北熊襲発言

    東北熊襲発言とは、大阪商工会議所会頭だった佐治敬三(当時サントリー社長)が起こした舌禍事件である。

    この中で佐治が以下の発言を行った。

    「仙台遷都などアホなことを考えてる人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い」

    この発言が原因で、サントリーに対し東北地方での不買運動が起こる事になった。

    熊襲とは、古代の日本において九州南部にいた反朝廷派勢力をさした言葉で、東北地方の住民は蝦夷と呼ばれていた。いずれの呼称もヤマト王権などの畿内(近畿一円)の立場から征伐される対象としてたびたび登場する。

    当時は首都機能移転の議論が行われていた時期の一つであり、仙台市や南東北3県では誘致活動に熱心であった。同じく近畿地方でも新首都誘致の活動が盛り上がっており、俄かに郷土主義的な対立が高まっていた。そうした中で近畿地方の財界人の筆頭による差別発言が行われ、東北地方を中心として強い反発を招くこととなった。

    サントリーはこれまでにも美術館やコンサートホールを運営するなど予てより企業メセナに多くの資金を投じ、文化的な企業としてのあり方を標榜してきた。こうした文化貢献はオーナー一族出身の社長である佐治の意思で行われていたにも関わらず、その当人から発せられた特定文化・民族に対する蔑視発言は矛盾した行為として非難の対象となった。またそもそもサントリー自体が日本を代表する大企業の一つであり、社会的な影響が大きい事も発言が重く受け止められた理由になった。

  • >>No. 168287

    「病身舞」は日本へ「狂言」として伝ったといわれる



    大韓民国慶尚南道密陽に伝わる、死者の霊との交流を模した伝統的仮面戯では、「霊が入っている身体=病身」として表現される。

    李氏朝鮮中期以来伝わり、主に陰暦正月15日、端午、秋夕などの伝統祭日において、橋の下、森の中などで行われた。人数は10-15人くらいで、それぞれ俗に病身と呼ばれる障害を持つ二人ずつペアになっている夫婦として登場し、トゥンソ(朝鮮の笛)などの基本楽器以外に色々な気鳴楽器が用いられた。

    時代が下るにつれ、李氏朝鮮の支配階級である両班や、両班と平民の中間管理職であった衙前(アジョン)などの下級官吏に対する風刺や非難の意味を込めたパロディーの側面を強めた。日本統治時代には障害者差別をやめさせるために法[要出典]によって禁止されていたが、戦後に復活した。歌詞もあったというが、現在では伝わっていない。

    日韓併合とともに、集会取締令の対象の一つとして禁止され、日本の敗戦後に復活する。 女流演劇家の一人である孔玉振(コン オクチン、1931年 - 2012年 )が、一人舞台で病身舞を演じてから、マスコミを通じて韓国中に知られることとなり、大衆娯楽化した。

  • 修学旅行中デリヘル、教諭懲戒免 サービス巡りトラブル



    徳島県教委は10日、修学旅行の引率中に派遣型風俗店(デリバリーヘルス)を利用し、サービス内容をめぐってトラブルを起こしたなどとして、県内の小学校の男性教諭(28)を懲戒免職とし、発表した。

     県教委などによると、教諭は10月、1泊2日の修学旅行を引率中、児童らも宿泊した大阪市内のホテルの自室に、派遣型風俗店の女性を呼んだ。サービス内容を巡ってトラブルになり、警察に通報された。男性は署で事情を説明するため、無断で外出。早朝、児童が教諭の不在に気付いて発覚したが、他の教員が引率し、修学旅行を続けたという。

     教諭は女性との示談が成立している。教諭は「反省している。子どもや保護者に申し訳ない」と話しているという。

  • >>No. 167440

    >朝 鮮 巫 女 に よ る 古 代 呪 術 カ ル ト 統 治



    卑弥呼は朝鮮 人のシャーマン

    卑弥呼はシャーマン(巫女)として祭祀を司り、政治は男子がとっていたと言われている。これは、「古代朝鮮の各国の王の筆頭ブレインの中に女性のシャーマンがいた」のと似ている。シャーマンは「預言者(祈祷師)として政治の中心人物に含まれ極めて重要なポスト」にあった。古代朝鮮の各国は、シャーマニズムをもつ北方民族(騎馬民族)の覇権争いによって形成され、シャーマンが政治の場に重く位置していた。

    朱蒙王の高句麗建国の際にも、「女性シャーマンが王によりそい、政治の予言(占い)を行って王へのアドバイス」をしていた。「王はわからぬことがあるとシャーマンを呼び相談していた」のである。従って、古代朝鮮のシャーマンには相当な勢力をもつ者がおり、配下にはかなりの数の人材がいたと推察される。

    朝鮮では祈祷が盛んで、その影響があってか、日本でも戦後しばらく祈祷が盛んであった。小さな村には決まったように祈祷をする老婆がいた。40~50年前ごろまで、日本でも霊媒師なる者がおり、困ったことがあると霊媒師をたずねる者がいた。現在でも、神社、お寺での祈祷によって合格祈願、結婚祈願をし、災難、病などを逃れようとする人の数は恐るべき量に達する。このような祈祷による暮らしが生活に密着している国は、先進国では、恐らく韓国・日本において最も顕著であるだろう。北方種族によって形成された朝鮮文化(シャーマニズム)を、弥生時代以降の倭 国へ持ち込んだのは渡来人である。

  • 2016/11/06 12:36

    通州事件



    1937年(昭和12年)7月29日に中国の通州において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した事件。日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害され、殺害方法も猟奇的なものがおおかった。また朝鮮人慰安婦も殺害されている。

  • 東北熊襲発言



    東北熊襲発言(とうほくくまそはつげん)とは、大阪商工会議所会頭だった佐治敬三(当時サントリー社長)が起こした舌禍事件である。

    1988年(昭和63年)2月28日、TBS系列「JNN報道特集」で、東京からの首都機能移転問題が扱われた。

    この中で佐治が以下の発言を行った。

    「仙台遷都などアホなことを考えてる人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い」

    この発言が原因で、サントリーに対し東北地方での不買運動が起こる事になった。

    熊襲(くまそ)とは、古代の日本において九州南部にいた反朝廷派勢力をさした言葉で、東北地方の住民は蝦夷(えみし)と呼ばれていた。いずれの呼称もヤマト王権などの畿内(近畿一円)の立場から征伐される対象としてたびたび登場する。

    当時は首都機能移転の議論が行われていた時期の一つであり、仙台市や南東北3県では誘致活動に熱心であった。同じく近畿地方でも新首都誘致の活動が盛り上がっており、俄かに郷土主義的な対立が高まっていた。そうした中で近畿地方の財界人の筆頭による差別発言が行われ、東北地方を中心として強い反発を招くこととなった。

    サントリーはこれまでにも美術館やコンサートホールを運営するなど予てより企業メセナに多くの資金を投じ、文化的な企業としてのあり方を標榜してきた。こうした文化貢献はオーナー一族出身の社長である佐治の意思で行われていたにも関わらず、その当人から発せられた特定文化・民族に対する蔑視発言は矛盾した行為として非難の対象となった。またそもそもサントリー自体が日本を代表する大企業の一つであり、社会的な影響が大きい事も発言が重く受け止められた理由になった。

  • サン・バルテルミの虐殺



    宗教改革者ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側から「ユグノー」と呼ばれた。1562年以降、フランスはカトリックとユグノーとの内乱状態(ユグノー戦争)となっていた。

    国王シャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスの提案により、ユグノーとカトリックとの融和を図るため、ユグノーの指導者であるナバラ王アンリ(有力な王位継承権を持つブルボン家当主)と王妹マルグリット(国王シャルル9世の妹)が結婚することになった。1572年8月17日に結婚式が行われ、ユグノーの中心人物であるコリニー提督はじめ多くのユグノー貴族が結婚を祝うためパリに集まっていた。8月22日にコリニーが狙撃されて負傷する事件が起こると、ユグノーは憤り、国王に真相究明を求めた。

    2日後、サン・バルテルミの祝日である8月24日、カトリック強硬派のギーズ公の兵がコリニー提督を暗殺し、シャルル9世の命令により宮廷のユグノー貴族多数が殺害された。だが、事態は宮廷の統制を超えて暴発し、市内でもプロテスタント市民が襲撃され、虐殺は地方にも広まり、犠牲者の数は約1万~3万人とされる(後述#犠牲者数節参照)。ナバラ王アンリは捕らえられ、カトリックへの改宗を強制された。だが、内乱はこれでは終わらず、ユグノーは暴君放伐論(英語版)を唱えてより強硬に抵抗するようになり、穏健派カトリックも独自勢力であるポリティーク派を形成するようになった。

    2年後にシャルル9世が死去し、1576年にはナバラ王アンリが逃走してプロテスタントに再改宗した[4]。その後、内乱は新国王アンリ3世(シャルル9世の弟)、カトリック同盟のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリの三つどもえのいわゆる「三アンリの戦い」と呼ばれる泥沼状態に陥る。ギーズ公とアンリ3世が相次いで暗殺された後の1589年にナバラ王アンリが王位を継承する(アンリ4世)。この宗教戦争は1598年にアンリ4世がプロテスタントに一定の制限はあるが信仰の自由を容認したナントの勅令を発するまで続いた。

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