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【社会】

女性 子ども 死体の山 佐世保空襲を経験・江島麗介さん(86)

江島麗介さん(右)が亡くなった人を大勢見たというトンネルの前で取材する鈴木弘人記者=長崎県佐世保市で

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 十三歳の少年は空襲のさなか、一人で家を守ろうとした。縁側から、隣町が焼けるのが見える。「うちも焼けるかも」。焼夷(しょうい)弾が落ちても火を消そうと、木の棒に縄をつけた「火たたき」をしっかり握った。

 長崎県佐世保市の廃校の教室を活用した「佐世保空襲資料室」で、私は江島麗介さん(86)の話を聞いた。佐世保は私が生まれた街。再現された「火たたき」を手にしながら「これで本当に火を消せるんですか」と聞くと、江島さんは「無理でしょうね」と笑った。

 降りしきる強い雨の中、一九四五(昭和二十)年六月二十八日の深夜から翌日未明にかけ、佐世保市の中心街が空襲に遭った。長男の江島さんは母や弟、妹ら五人を防空壕(ごう)に残して家に戻った。「俺は国を守る。おまえは家を守れ」。そう言って軍の施設に向かった父との約束を果たすために。爆撃で街は昼間のように明るかった。

 幸い、自宅も家族も無事だった。だが夜が明け、おじが空襲で亡くなったと聞き、走っておじの家に向かった。途中のトンネルが、わらのむしろで隠されていた。隙間から女性と子どもの死体が何人も重なっているのが見える。「前からも後ろからも空襲の熱気が来て、逃げられなかったのだろうね」。中に入る勇気はなく、引き返した。

 数日後、近くの山で遺体を焼く手伝いをすることになった。親族らが涙ながらに遺体を運んでくる。大人が頭の方、江島さんが足首を持って遺体の山に放り投げ、よく燃えるように薪(まき)も投げた。「もちろん、気持ちが良いものではない。それでも、大人の命令だったので夢中でやりました」

 梅雨の湿気で傷んだ数百もの遺体から異臭が漂う中、周囲にガソリンがまかれ、火が付けられた。底の方からじわじわ焼けていくのを見ていられず、その場を立ち去った。「人間の最後の哀れさを感じました」

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 海軍の基地近くに住み、「軍国少年だった」という江島さん。緑の軍服が「格好良い」と陸軍に憧れ、中学に入学後すぐに陸軍幼年学校を受験した。不合格となり、翌年に再び受けようと考えていたところ、終戦。米軍が進駐し市役所に星条旗がはためいた。「悔しかったよ。占領されたって思った」

 長い間、「思い出すことがつらい」と戦争体験を話さなかった。中学教諭を退職した六十歳ごろ、自分より上の世代が亡くなっていくことに危機感を覚え、語り部を務めるように。毎年、空襲のあった六月末に小中学校で体験を伝えている。「子どもに伝えることで、自分でも『戦争はよくない』という思いが増してきました」。時に軽やかに、笑顔で体験を語ってくれるのは、七十三年の長い月日の流れがあってこそなのだと感じた。

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 私が産声を上げた産婦人科の病院は、B29の編隊が飛んだ真下だった。私が部活動でサッカーに明け暮れていた十三歳の夏、江島さんは遺体を焼く手伝いをさせられていた。多くの人が犠牲になり、復興した土地で私は生まれたのだ。

 「人からされて嫌なことはしない。この単純な言葉を守りさえすれば、平和は保たれるんです」と江島さんは語る。どれだけの人が、それを守っているだろうか。ヘイトスピーチやいじめなどの問題は、この「単純な言葉」で解決できる。一人一人の小さな意識が平和をもたらす。生まれた土地で、私は初心に戻った気がした。

<佐世保空襲> 佐世保空襲犠牲者遺族会と佐世保市によると、米軍のB29爆撃機141機が1945年6月28日午後11時58分、空襲を予告する「警戒警報」が鳴る前に襲来。翌29日未明までの約2時間、爆撃した。市内の約35%にあたる1万2037戸が全焼し、1242人が犠牲となった。同市では6月29日を「佐世保空襲の日」とし、毎年追悼式を行っている。

 

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