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白洲三四郎の日記

白洲三四郎(しらすさんしろうshirasusanshirou)がミニマリスト計画を実現するまでの記録。旅立ちのために、断捨離を実行中。

母の情け、母の恩

父も母も、そして長男も亡くなってしまい、孤独をしみじみと感じる今日この頃です。

仕事柄、ビジネス書や自己啓発書をよく読むのですが、その度に、母親のことを思い出します。

遠い過去の記憶なのに、あの笑顔が今も鮮やかによみがえるのです。

Win-Win

ビジネスの世界でいう人間関係で、よく使われる言葉が「Win-Win」。はてなワードは、「Win-Win」について、以下のように説明しています。

「自分も勝ち、相手も勝つ」――取引などにおいて、関係する両者ともにメリットのある状態であること。

これと似たような意味でよく使われるのが「give-and-take」。kotobankは「give-and-take」について以下のように解説。

相手に利益を与え、自分も相手から利益を得ること。

ここ数日間、読み返しているスティーブン・R・コヴィーの「7つの習慣」にも「Win-Win」という言葉が出てきますが、どうも馴染めないのです。

「Win-Win」とか「give-and-take」とかいう言葉の意味は理解できるし、そういう人間関係も存在することを知っています。

ただ、私としては、そういう関係を意図的に目指すことに、抵抗があるのですね。

もっとハッキリと言ってしまうと、嫌いな言葉の部類に入ります。

無償の愛

では、私の母親が私に注いでくれた愛情はどうかというと、ただ「与えるだけの愛」です。「無償の愛」と呼んでも良いでしょう。

そもそも、母親は、何かをする時に、報酬とか、見返りとかを期待していません。

では、仕事でも、無料奉仕をしていたら、ビジネスとして成立しないではないか、という意見が出てきそうです。

もちろん、仕事では報酬を得ないことには、その仕事を継続できません。

しかし、Win-Winの関係を意図的に築こうとは、私はしたくないわけです。

そうではなくて、自分が少しでも豊かな人間になるため成長し続け、プラスのエネルギーを発してゆけば、私の作った波動を浴びた人にプラスの影響を与えられるだろう。

その結果、巡りめぐって、私が成長し続けるための力をもらえるようになる、また自分の信じる仕事を続けられる報酬がもたらされる……。

そのように考えたいのです。

誤解してほしくないのは、私はここで、きれいごとの理念を述べたいわけではありません。

きれいごとではなく、むしろ逆のこと。

死ぬか生きるか、命がけの覚悟のことを、語りたいのです。

母親の愛を示すエピソードがあります。

そのことをお話しすれば、決してきれいごとではなく、抜き差しならないことであると理解していただけるでしょう。

母親の笑顔の意味

私は33歳の時に大病をしました。

肝臓病で入院し、いったん退院したものの再発。

直後に、交通事故、親友の死、仕事上では機密文書を盗まれるなど、災難続きで、とうとう倒れてしまいました。

当時、自分の名前すら書けないほどに憔悴しきった私は、生まれ故郷の浜松で静養することになったのです。

その時、私を看病してくれたのが、母親です。

後で知ったのですが、私が帰郷する直前まで、母親は寝たきり状態でした。

それがどうしたことか、私が変わり果てた姿で帰ったその日から、バッと起きだし、献身的に動き回ってくれたのです。

そして、半年後、私が回復して、再び浜松を出ることになります。

出発する時、母親は笑って、ちぎれんばかりに手を振ってくれました。

あの笑顔を、私は一生、忘れません。

あの母親の笑顔を忘れた時、本当の私ではなくなってしまう、とさえ思う時があります。

元気な母親の姿を見たのは、それが最後でした。

私が家を出た、その日に母親は再び倒れ、寝たきりになってしまったのです。

これは奇跡のような事件ですが、その奇跡を起こしたのは、母親の無心の愛、それ以外の何ものでもありません。

ちぎれんばかりに手を振ってくれた、あの時の笑顔の意味を、今なら静かに語れる気がしています。

母親の恩に報いる生き方

私は私自身の親不孝のために、母親というかけがえのない存在を失いました。

この悔しさは生涯消えないでしょうけれど、今後の人生に悔いを残さないための生き方を死んだ母のためにもしたいのです。

私自身、不徳の輩であり、万人に無償の愛を与えるなどという大そうなことはできないでしょう。

ただ、母の情け、母の恩に報いるためにも、「Win-Win」などという作為的な言葉は使いたくありません。

計算をどがえしにして、人と関わり、自分の信じることを淡々とやりつづけたいと思うのです。