3話
部屋を移動した3人が最初に行ったのは、腹を満たす行為だ。
3人は床に正座をする。座布団が無いため、直接床の板の上にだ。しかしながらティースも佐久夜もそれが苦だと言う顔は見せない。その2人を前に重蔵もまた表情を崩すことは出来なかった。
3人の中心には丸テーブル。そしてその上には昼食が並べられていた。
食卓を飾るのは、キュウリの浅漬け、味噌汁、数種類の穀物を混ぜたご飯という食事だ。質素かつ素朴な食事だが、重蔵はその鼻腔を振るわせる、懐かしき日本の匂いに胸を詰まらせていた。この世界の食事は基本的にパンを主食とするものが大半だ。もしくはオートミールのようなもの。ご飯を主食とする文化は、重蔵が旅をしてきた中ではなかった。
ちなみに旅人であった重蔵も多少の食事は持っていた。しかしながらそれはせいぜい干し肉の塊がほんの少しだったのだ。元々、重蔵の計画としてはラッケルブレルで金を稼ぎ、食料を買い込む予定だったためだ。
現在その残った干し肉は佐久夜の手に渡り、水に浸されてある。そうして今晩の夕食に並ぶ予定である。
重蔵が昼飯のことを考えていなかったということもあり、3人で食事することと相成ったのだ。
「さぁ、どうぞ、召し上がれ」
「いただきまーす」
佐久夜の声に答え、ティースがペコリと頭を下げて箸を取る。この食事を作ったのは佐久夜である。というよりも家――より正確には神殿だが――のこと全般は佐久夜の仕事だといっても良いだろう。
神を働かせる。
ある意味罰当たりな行為のように思われるが、佐久夜とティースが納得している以上、新入りである重蔵にそれに対して何かを言う資格は無い。10年間の年月によって生まれた関係に、口を出せるほど2者を知っているわけではないのだから。
「重蔵もどうぞ」
「はい。いただきます」
ぺこりと佐久夜に対して頭を深く下げると、重蔵も箸を取った。
滅多に箸なんか使わないのに、ちゃんと箸を動かせる。
こういうときに、重蔵はほっとする。自らの身にいまだ日本の文化が宿っていることに。自分が生きてきた世界が実際にあるんだと確信が得られて。
恐怖というものを忘れつつある重蔵にとって、最大の恐怖とは自分の子供や妻というものは幻なのでは、という疑心に駆られること。もしかすると自分は元々この世界に生を受けた者で、自分の思いは狂人の妄想なのではというもの。それに拍車をかけるのが、15年間の間に磨耗していく記憶だ。
そして証拠というものが無いこと。
この世界に現れた時、重蔵が持っていたものは着ていた服だけだ。その服もボロボロになり、もはや重蔵が日本人であるという証拠となる形どったものは無くなった。
しかし、今日、重蔵は決して夢ではないという確信を得るに至ったのだ。
箸を持ったまま動かない重蔵に、佐久夜は不思議そうに問いかける。
「どうしました?」
「いえ。美味しそうな食事でして、手を出すのに戸惑ってしまいました」
「お世辞が上手いですね」
コロコロと笑う佐久夜から目を動かし、重蔵は味噌汁のお椀を手に持つ。お椀を通して手に伝わる、味噌汁の温かさに心が揺れる。
味噌汁を啜った重蔵が眉を顰め、それから直ぐに懐かしそうな笑いを浮かべた。
「美味しくないでしょ?」
そう言ったのは料理を作った佐久夜だ。
「そんな滅相もございません!」
「本当は出汁を入れるんですけど、内陸の所為で魚関係はちょっとお値段が張るんです」
魔法というものがあるこの世界において、海産物を内陸まで運ぶ手段というものは確立している。冷凍、転移といった手段だ。しかしながらそういった魔法というプロセスを使う以上、周辺で取れるものに比べれば当然値段は高くなる。
勿論、決して手の届かない食材ではない。ただ、単純に佐久夜やティースたちの懐が貧しいため、そちらに回せる金が少ないためだ。
そのため佐久夜の作った味噌汁は味噌の味がするだけの、スカスカとしたものだった。
美味しくなくてごめんなさい。
そうやって頭を下げる佐久夜を、必死に重蔵は止める。自らの神に料理を作らせ、そしてそれに不満を言えるはずが無い。
「出汁も入れられたらもっと美味しいんですけど……」
「いえ、本当に。これでも充分美味しいかと思います。味噌汁なんて何年ぶりか。それに1つ懐かしいことを思い出しました」
「それは?」
「妻が始めて作ってくれた味噌汁がまさにこんな味でした」
ふっと重蔵は視線を中空にさ迷わせた。
「まだ小学生だった頃です。お湯に味噌を入れれば味噌汁が出来ると思っていたんでしょうね。いや、確かに出汁入り味噌を使えばそんなことにはならなかったのかもしれませんが……。まぁ、次からは普通に作ってくれるようになりましたが、その時ちょっと言ってしまいましてね。もうカンカンでしたよ。そのため次に作ってくれるまで結構時間があった記憶があります。……懐かしい味です。本当に」
その双眸に深い悲しみと深い喜びを同時に湛えながら、ずっ、と重蔵が味噌汁を再び口に含む。
「――美味しく思います。木花之佐久夜姫様」
「そうですか」
ニコリと佐久夜は笑い、それ以上は言葉にしない。
ただ――
「まだ堅いですね。良いんですよ。もっと砕けた話し方で」
佐久夜の言葉に、うんうんとティースも横で頷いていた。
「そ、そのような滅相もございません。本来であれば木花之佐久夜姫様とご一緒に食事が出来る立場だとは……」
畏まったように、自らの体を小さくする重蔵に佐久夜は笑いかけ、視線を横で食べているティースに向ける。
「――そういえば、昔のティースも言ってましたね」
「――そうですね。懐かしいです」
佐久夜とティースは2人で笑いあい、それからその目を重蔵に向けた。
「外や礼儀を守るべき場所でしっかりやってくれるのなら、私はまるで構いません。それに家族みたいなのですしね」
「家族ですか……?」
重蔵の瞳に陰りが生まれる。佐久夜は僅かに目を伏せた。
「――重蔵には酷な言葉でしたね」
「……いえ、そのようなことは。木花之佐久夜姫様」
「とりあえずは重蔵さん。佐久夜様です」
「しかし……」
「佐久夜様です」
ティースと重蔵が互いの見詰め合い、最初に目をそらしたのは重蔵だ。ただ、その目が本当に良いのかと問いかけるように佐久夜の元に向かう。
それに対して佐久夜は満面の笑顔で頷いた。助けは来ない。それを悟った重蔵は天井を見上げ、それから力なく落とす。
「……さ、佐久夜様」
「はい」
「そして私がティースです、重蔵さん」
「……ティース」
「はい!」
「では私も重蔵で構いませんが……」
「うーん。でも重蔵さんって感じなんですよね。私よりもお年召してますし」
重蔵の表情がショックを受けたように凍る。例え相手が自らの子供と同じ年齢ぐらい少女とはいえ、間接的におっさんと言われるのは堪えるのか。
そんな重蔵を佐久夜は目にし、『鬼』を封じ、人に戻すのも意外に容易なのではという思いを抱いた。
――やはり鍵はティースですね。
佐久夜はそう判断しながらキュウリを摘むと、口に入れる。
ポリポリとした食感。
成功ですね。
染み込みすぎた漬けものは美味しくありません。
神である佐久夜に飢えという概念は存在しない。信仰さえ得ていれば、食事を取らなくても存在していけるのだ。食事をしたとしても意味は無いのだ。それどころか、食費が掛かるというのは貧しい2人からすれば大きなデメリットだろう。
そんな佐久夜が何故食卓を囲むのか。それは単純にティースの願いだからだ。
1人で食事をしても寂しい。
本当にティースが寂しいからとは佐久夜は思っていない。それはティースの優しさなんだろう。その優しさは重蔵まで届くのか。いや、今届きつつあるのだろうか。
ショックをいまだ受けているのか箸を動かす手が重い重蔵と、美味しそうな顔でキュウリを食べているティースを交互に佐久夜は見比べる。
こういうときはなんというべきですか。神ですら知らない時は。神のみぞ知る……運命のみぞ知るなんでしょうかね。
そんなことを思いながら、佐久夜は出汁の入ってない味噌汁を啜った。
やがて食事が終わると、すぐさまティースは席を立つ。
佐久夜は佐久夜で、全員分の食器を重ね、洗い場に持って行く。1人で部屋に残った重蔵からすると、非常に肩身の狭い時間の経過だ。勿論、自らの神にそのようなことは出来ない、佐久夜の仕事を手伝わせてくれとは言った。しかしながらそれは優しくだが、きっぱりと断られたのだ。
この神殿内の仕事は自らの役目。どうしても無理ならお願いしますが、この程度のことに手伝いは要りません。
そうはっきり言われてしまっては重蔵もしつこく言うことはできない。
それでも本来であれば一番下っ端の自分が率先して行わなくてはならないのに――そういう思いが起こるからこそ、なお肩身が狭いのだ。
それから数分もしないうちに救いの主の音が聞こえた。
ミシミシ、パタパタと軽い足音が聞こえ、ティースの元気な声が部屋に広がったのだ。
「持ってまいりました」
出て行ったときとは違い、ティースの手の中には水晶のようなものがあった。小さいものであり、濁ったようなあまり質の良いとは思えないようなものだ。
「はい。お疲れ様です」
濡れた手をタオルで拭きながら、再び佐久夜が姿を見せる。
そして3人でクリスタルを置いたテーブルを囲むように座る。先ほどの食事の時と同じである。
「えっとまずは信仰を佐久夜様に届ける方法をご説明しますね」
「よろしくお願いします」
「はい、任せてください! 佐久夜様に信仰を届ける手段は2つです。1つが信仰してくれる方法。よくある神様に祈りを捧げる手段です。もう1つが直接、信仰を届ける手段です」
「前者と後者の違いは?」
「はい。前者は殆ど届かないけど、後者の場合は全部届くっていう違いです」
筒を使って息を吹きかけた場合と、普通に息を吹きかけた場合、どちらの方が遠くまで大量に届くかということだ。
「そしてこのクリスタルはその直接信仰を届けるのに使われるんです。これを使うことで信者の信仰を抽出することが出来るんです。そしてこのクリスタルを佐久夜様にお渡しすることで、佐久夜様が信仰の力を得るという方法です」
「……ならば、他の神の元よりそのクリスタルを奪ってくれば?」
「……重蔵。冗談でもそのようなことは言ってはいけません」
「そうですよ。それにクリスタルは最初に手に持った神の波長に合わせます。ですから他の神がそれを手にしても使えないんですよ」
「ならば……どのように信仰を集めれば?」
重蔵の瞳の中に歪んだ炎が見えた。どのような手段をとってでも、その役目を叶えてみせる。強いが、それと同じぐらい邪悪なものだった。見据えられた佐久夜の手が汗でびっしょりと濡れる。
『鬼』が出るか。佐久夜はいつでも拍手を打てるように、自らの手に付着した汗を服で拭う。
しかし、そんな佐久夜の警戒心は容易くぶった切られた。
「簡単ですよ!」
ばーんという擬音を背負ったようなティースの発言だ。その天真爛漫という言葉が相応しいような声に、重蔵は目を白黒させる。突風が小さなともし火をかき消すように、もはや先ほどの黒い炎は吹き飛んでいた。
「重蔵さんが偉業を成し遂げればいいんです!」
「い、偉業ですか?」
「はい! やっぱり凄い人がいると、その人に憧れて同じ神様を信仰しようとする人はぐっと増えるんです。そして、ここは迷宮都市です。ですから――」
「――迷宮の完全攻略?」
「……うぅ、先に言われてしまいました。でもそういうことです。迷宮を攻略したり、迷宮で名前を売れば絶対に信者の方は増えます」
「なるほど……でしたら自信があります。この私の全身全霊を持って、迷宮に絡んだ偉業を成し遂げて見せます」
深々と重蔵が頭を下げる。
「頼みますよ、重蔵。そして1つだけ忠告が」
「はっ!」
「偉業を成し遂げようとするのです。悪としてではなく、善として成し遂げなさい」
「はっ? はっ! 畏まりました」
「そうですよ。やっぱり正義の味方の方がカッコイイですからね」
ティースの言葉を聞き、重蔵と佐久夜の視線が交わる。そして苦笑を互いに浮かべた。
「え? 違うんですか?」
「いえ、ティース。あなたの言うとおりです。……正義の味方になれとは言いません。ですが、遠回りもまた近道であると知りなさい、重蔵」
「――畏まりました」
一歩下がり、重蔵は額が床に付くぐらい深々と頭を下げる。
「では! 話も終わりましたし、クリスタルに信仰を移しますね! 次は重蔵さんの番ですからね」
顔を上げた重蔵が見た光景は、ティースがクリスタルを両手で包み込むように持ち、目を閉じているところだった。クリスタルの中に一瞬だけほのかな光が起こるのを、重蔵は見逃さず捕らえる。
先ほどと比べればクリスタルはまるで変わってないように思える。しかし、重蔵の異常なまでに研ぎ澄まされる感覚は、クリスタル内に光が非常に僅かに灯っていることを察知していた。
「ふぅ」
流れてもいない汗を拭う振りをして、ティースが佐久夜にクリスタルを渡す。
「どうぞ、佐久夜様」
「ありがとう、ティース」
佐久夜の手の中に納まった瞬間、重蔵の目はクリスタル内で微かに灯っていた明かりが掻き消えたことを確認する。
「じゃぁ、次は重蔵さんの番ですよ。えっと今までこれを使われたことは――無いですよね」
「はい」
「別に痛いことなんかはまるで無いですから。クリスタルを手に持って、それに佐久夜様への思いを込めてください」
言われても感覚的なことというのは理解するのが難しい。
重蔵はクリスタルを手に持つと、自らの神への思いを込める。
何卒、家に帰してください。日本に帰してください。そういった思いを込めて。
「今まで信仰を込めたことが無いなら、結構どかんって来るかも――」
ピシィ――。
非常に硬質な音がティースの言葉を遮る。
「え?」
「え!」
「えー」
3者の声が同調した。内包した感情はそれぞれ別だったが。
重蔵の手の中にあったクリスタル。それは誰の目から見ても、大きな傷があった。真ん中を大きく走る1つのヒビ。それは先ほどまで無かったものだ。
「わ! わ、われてるー!」
「も! も、申し訳ありません!」
「諸行無常の響きあり……かしら」
タイトルが決まらないです。どんなタイトルだと良いんだろう……。