女だから言えること | 引きこもり、精神病からの生還

太ったおじさんみたいなおばあさんです。キレキャラとおふざけキャラと真面目キャラを分離する才能がないので、丸ごとの自分を出してます。

常識がないコンプレクスについての愚痴

 前回の記事で「失礼だ」「そんなことも分からないのか」がきたので、これについて説明しておこう。もう、これは言われすぎて涙も枯れたやつだが、未だに泣けてくるくらいのコンプレクスだ。私を責める人の常套句は「失礼だ。」「常識がない。」だからだ。

 まず、なぜ常識がないのか失礼なことを平気でやるのかを教えてあげよう。それは育ちが悪いからだ。育ちのいい人達が育ちの悪い人たちを「常識がない」と責めるのはごくごく普通のことだ。それが差別かどうかは私にはわからない。なぜなら、私は常識がない側で相手を不快にさせている自覚があるからだ。だから馬鹿にされても仕方ないのだろうと思うくらいには自尊心を失っている。

 だからこそ、開き直らなければ生きていけないし、強がらないと(イキっていない)と生きていけないから、そのように振る舞う。そしてより一層きらわれる。これが現実だ。夫と結婚しているというステータスがなければ、私はキモくてカネのない上に頭のおかしいおばさんのくくりだよ、間違いなく。

 このブログには何回も書いているが私の家は育児放棄だったので、家族との会話はほぼなかった。なので「普通の人」が教えてもらえるはずの「しつけ」を全く受けていない。だから完全に「常識」が欠落しているのだ。常識とは知識と反復訓練だ。私はそれを全くしていないために、自分に常識がないということにすら気づいていないという非常識さだった。いや、今もか。

 育ちのいい人の中には無意識に育ちの悪い人、つまりは作法、礼儀を演じることの出来ない人を嫌ったり見下したりする人がいる。私は典型的な作法、礼儀、様式、形式を演じる事ができない上に理解もできない育ちの悪い人だ。

 だが、作法や礼儀を演じて見せるのが社会的に「正しい」ことだということくらいは知識として知っている。だから作法がダメな私は自分のことを「わたしは間違っている。」「失礼なにんげんだ。」「常識がない人間だ。」と思わなければならない。これだけで自尊心をかなり削られる。自分が間違っているって思わなきゃいけないのってつらいのよ。だからできるようになろうと頑張ったよ。だけど、できなかったのよ。「できないわけないじゃん、やる気がないだけでは?」と思う人もいるだろうけど、誰しもが自分ができる分野についてはそう思うものだから仕方ないんだろうなとも思う。

 

 大変申し訳無い話しだが、未だに、なぜ人に年齢を聞くのが失礼なのか?、なぜ人に収入を聞くのが失礼なのか?の理由は、正直、全然理解できていない。人間は自分を基準にしか物事を考えられないというが、私も典型的なそれだ。

 自分が年齢を聞かれても収入を聞かれても失礼だと思わないので、相手に聞くのは何故失礼なのか分からない。そういうことだ。さすがにこの歳になってくると考えて考えて考え抜いて、迂闊に年齢を言っちゃうと年齢差別をする人に差別されるからだろうとか、容姿と年齢で人を見る人たちが「見た目のわりに、とし食ってんな。」みたいな発想をするからか?とか思えるようになったが、それ以上のことは分からない。誰かが「それはやっちゃダメよ。」と、教えてくれなかったら未だに聞いてたかもしれない。それくらに常識がない。

 収入についても少なすぎて言うほどもこともない人生だし、多すぎたらタカられるし、少なすぎたら馬鹿にする人がいるとかそういうことなんだろうな?と推測はするがそれが明確な理由なのかはよくわからない。でもきっとそうなんだろうなという程度。私自身は収入を推測されて職場の親しくもない上司から「10万円貸して」って言われたことがあるから、お金の話は職場で極力しなくなったから、そういうことか?とも思うが、それも確信がない。全て体験的にダメなんだと知っただけ。理由は分かってない。

 育ちが悪いから元々常識がないのに加えて、発達障害特有の理由がわからないと納得できない気質があって、謎なことをそのまま抱えている状態なのだ。これは私にとっては結構なストレスなのよ。常識すぎて誰も教えてくれないことは自分で手探りで探り当ててきたつもりだが、未だに欠落している常識が沢山あるのだろう。だが、もはや、どれくらい自分に常識が欠けているか、怖くて知りたくない。だから引きこもっているのかもしれない。

 その居住地域、居住国で言っちゃいけないこと、やっちゃいけない暗黙の了解っていうのはどこにでもあって、それに従わなければならいのは知識として知っている。でも、その暗黙のルールがどういうものなのかは、大人になったら誰も教えてくれない。子供のうちに教わって訓練しておかないと、壊滅的に常識がない人間になると自分自身でも思うし、地元のヤンキーたちを思い出してもそう思う。親が悪いかどうかは置いておいても、何かを教える余裕がない家庭で育った子の常識が低いのは確かだ。あとは子供の理解力しだい。私は親の躾がほぼゼロで、理解力もいまいちで記憶力がかなりダメなので、もし躾を受けたとしても反復訓練をしなければ身につかなかっただろう。だから歳をとった今更やっても、もう身につかかないと思う。

 その点では外国に行けば、「まあこの人はネイティブじゃないし知らなかったんだろう。」で済まされることもある。が、またしかし、「これだから外国人は困る。」というふうにも言われる。それは出会った人の考え方しだいだね。どこに行っても同じか、そういう意味では。

 

 私にとって一番衝撃的だった自分の常識のなさは「挨拶ができない。」という事実だ。私は20歳近くにもなって、自分が挨拶していないという事実に気づいていなかった。そんな事はありえないと思う人は育ちがいい人だ。

 挨拶をするには、まず「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すんだよ、と教わらないといけない。私の場合は、学校で教えてもらったか何かで、その知識はあった。だが、「おはよう」と言われたら「おはよう」と言い返す訓練ができていなかった。だから、職場で「おはよう」と言われても「おはよう」と返していなかったようなのだ。なぜ、他人事なのかというと気づいなかったからだ。

 で、勤め始めて半年くらいたって、上司が涙目で「あなたは、私がおはようと言ってもおはようと返してくれない。私はそれがとてもさみしい。」と言わた。そこで、初めて自分が挨拶をしていないと知った。その上司も、よく半年も忍耐強く我慢したものだと思う。普通なら2~3日で「お前は20歳にもなって挨拶もできないのか!常識がなってない!」って怒られるやつだからね。

 私は、上司が「私が自分で気づくまで待ってくれようとしたのだ。」という気遣いに泣いた。だが、それ以上に、なんでもっと早く教えてくれなかったのかという悔しさもあった、気づいてないだけで教えてくれれば、もっと早くから挨拶をできるように努力ができたのにとも思った。上司と私の二人で泣いている異常な光景だった。

 だが、上司も私にそこまで常識がないとは思っていなかっただろうし、そんなことを言ったら可愛そうだ、傷つくだろう、自分で気づくまで待ってあげようと配慮してくれたのだと思う。思春期の子供を持つ母親らしい発想で、その懐の深さと思慮深さに未だに泣きそうになる。上司のその涙は、もしかしたら私が非常識すぎて、どう教育していいか分からなくなってパニックになっていた涙かもしれない。恐らく、これは発達障害のお子さんを持つ母親の涙に近いのだと思う。それくらいに上司は私を一所懸命に育てようとしてくれた。私の涙は自分の非常識さが悔しくてたまらない涙だった。

 誰にとっても20歳で挨拶ができないなんて想定外だ。自分が挨拶できてないなんて想定外だ。それからは自分の常識や礼儀が気になって気になって脅迫的に礼儀を気にした。意識して意識して、失礼のないように失礼のないようにと常に緊張して挨拶や言動に気をつけた。つもりだった…でも挨拶もし忘れるし、失言も多かったと思う。いや、未だに多いと思う。そもそも常識が何なのか根本的なことが分かっていなくて雰囲気でやってるから、そりゃそうなる。礼儀作法を身につけるために秘書技能検定をとるという程度には努力した。謙譲語や時候の挨拶とかビジネス文書とかも一通り勉強したよ。

 でも、秘書検で謙譲語や冠婚葬祭の知識を丸暗記しても、実行できるかどうかはまた別の話だ。言葉遣いに関しては職場の上司や顧客が知識層だったので訓練できたし、さらなる丁寧な言葉づかいを教えてもらった。「安い」っていう言葉は下品だとか、「ご覧くだい」だと、まだ丁寧さが足りないとか、そういうことね。

 でも、もう全般的に総ざらいするには手遅れだった。昼間は働きながら夜は大学に行きながら、秘書検も勉強して、さらに常識を勉強する気力は私にはなかったし、「日本の基礎的な常識」を大人になってから体系的に教えてくれるような親切な場所は当時どこにもなかったのではなかろうか、あってもネットがないし調べようもなかった。

 育ちというのは積み重ねだ。後から巻き返せるものではない。いや、能力があり、理解力の高い人なら巻き返せるのかもしれない。だが巻きかえせるのは頭のいい人だ。「私はできるようになったよ。何であなたは出来ないの?」と言われても、それはあなたの能力が高いからだとしか言いようがない。私は「しつけ」を受けなかった上に、いや、躾をうけなかったせいか「常識」に対する理解度が異常に低い。

 「常識」に関してはあきらめるしかなかった。私にとっては難しすぎる分野だった。しかも常識は時代によって変わる。それにもついていけなかった。秘書検で教わったマナーも数年後?数十年後?には変わってしまった。もう、今のマナーがどういう定義なのかは分からないし、関わりたくない。実行できないし、覚え直しもできない。もう、それが自分の能力なんだと諦めた。「常識がないと責めるくらいなら近寄らないでくれ。」そうだよ私は常識が理解できないんだよ。だからもうほおっておいてくれ。くらいには追いつめられたよ。常識という言葉が憎いし怖い。

  もうね、「常識がある=正しい」ってことだとすると、常識が分からなくてごめんなさい、ごめんなさい、本当に理解できないです、でも理解できないなりに真似をしようとしたんですよ、でも無能なのでよく分からなかったのですと平謝りするしかない。なんか常識がないのに生きててごめんなさいという感覚だ。だが、それで自分に失望しすぎるとウツが出たり色々ややこしいので、強がったり、開き直ったりで自分をコントロールするしかないの。開き直り、強がり、自虐は私なりの生存戦略なのよ。

 ちゃんとした人達には、ちゃんとすることの出来ない人の気持は分からない。逆に、厳しい躾を受けてそれに固執する人の気持も私には分からない。そうなってくると、器が大きい小さい、心が広い狭い、細かすぎ大雑把すぎ、気にしすぎ気にしなさすぎとか、後はなんだ?もう諍いのための言葉は尽きない。互いが互いの言い分を主張して分かりあえないから不毛なのよ。それが私が見てきた現実だ。結局、誰しも自分の都合で自分の言い分を主張するからね。

 だから、関わらない、が正解なのではないかと、リアル社会では今、旧友たちと夫と精神科関係者としか関わってない。私は迷惑な存在だと自覚があるからリアル社会では出しゃばってないから安心して。あとこんな親だったら迷惑だろうと子供を生むのも早い段階で諦めた。我が子に迷惑がかかるのが分かっていて、どうして生むことができようか。

 こんな人も生きてるよって発信してるのはネットだけだから面倒なことは起こしてないよ。私の事を長年許容してくれてる人としか関わってないから。それでも育ちが壊滅的に悪く、発達障害で色んなことが上手く出来ない人の言い訳に腹がたつなら、君の心の闇も大概だよ?と言うしかない。私なりの抵抗だ。

 ほんと生きててごめんなさい。私の「虚勢」も「安楽死希望」の人達と何ら変わりのない絶望感だよ。振れるベクトルというか逃げ道が違っただけ。健全な人には理解できるはずもあるまいが…生理前と生理中なので余計に頭がおかしいよ。でもこれが私だよ。ウチは全般的に色々できない家系ぽいので、そのことについては下記の記事にも書いたよ。