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     忙しい読者のために今日の記事を要約すれば
    「ナボコフの文学講義が文庫になった。すばらしい本だから、とにかく読め」
    である。

     しかしこれだけでは何も伝わらない自信がある。

     これだけでうなずいてくれる人はそもそも、ナボコフの文学講義が文庫になったことなど、読書猿に言われるまでもなくご存知だろう。
     というか、ナボコフの『ヨーロッパ文学講義 』も『ロシア文学講義』も『ナボコフのドン・キホーテ講義』も、とっくの昔に読んでいるだろう。


     だからオススメする相手は、別の人たちである。

     そんな訳で、いくつかのバージョンを書いてみた。それぞれは独立して読めるはずである。
     成功している気がしないのは仕方がないが、それでも「こんな本があるなんて、どうしてもっと早く教えてくれないんだ」という批判は回避できると思う。
     
     ちゃんと言ったからな。


    ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)
    ウラジーミル ナボコフ,野島 秀勝

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    ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)
    ウラジーミル ナボコフ,野島 秀勝

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    ※『ナボコフの文学講義 上/下』(河出文庫)は、『ヨーロッパ文学講義』(ティビーエス・ブリタニカ, 1982.7→新装版1993.4)の文庫化である。



    1:

     読むことに慣れた言語の場合、我々は一つ一つの文字を拾い上げて読んでいるわけではない。
     なれない言語を読むときのような、そうした読み方では、文字を追うのに精一杯で、言葉のつながりや、そのつながりが全体として表しているものについて、十分な注意を振り向ける余裕がないだろう。
     当然、文章の内容をうまく受け取ることができない。
     遅く読んでも、理解の水準は低いままである。
     
     その言語を読み慣れた読み手は、すべての文字や言葉を同じようには扱わない。
     大事な部分を中心にいわば拾い読みしつつ、自分の中にある言葉や知識の蓄積でもって補完しながら読んでいく。
     だからこそずっと速く、理解を損なわずに読んでいくことができる。
     
     しかし更に熟達した読み手は、拾い読みと補完でできた自分の読み癖を、読んでいる対象に合わせて作り変えながら読む。
     自分のいつもの読み癖を使っていては、十分に理解できないものを読んでいるのだと知っているからだ。
     こうした読み方ができると、いままで読めなかったテキストを読みこなせるようになるだけではない。
     自分の読み方のスタイルを広げることは、自分の思考のスタイルを広げることでもある。

     精緻に読むことができる人は、精緻に考えることができる。
     おおざっぱなあらすじしか拾えない読み手には、誰かと似たり寄ったりの、あらすじ的思考だけが待っている。
     

     ここでいつもなら読書技術の10冊みたいなリストが続くところだが、吉川幸次郎『読書の学 』(ちくま学芸文庫)やラルボー『罰せられざる悪徳・読書』 (みすずライブラリー)や渋江抽斎『読書指南』や内田義彦『読書と社会科学 』(岩波新書)やどこかの厭世思想家の『読書について』なんかキャンセルしてでも読むべき一冊が近頃、ふたたび書店で手に取ることができるようになった。
     長らく本屋から消え、知る人の間で高値で取引されていた好書であるが、いくつかの理由から、この書を必要としている人の目を回避する恐れがあるので注意を喚起したい。
     
     もしも読書初心者という生暖かいポジションを手放す覚悟ができたなら、真っ先に手にすべき本がある。
     著者は小説家で、題材は誰もが知っているような有名どころの小説ばかりだが、およそ文学に親しみを感じない人にこそ、文学村の連中がずるずると引き回す曖昧で恣意的な物言いに辟易している人にこそ、読んでもらいたい。
     ナボコフがやっていることは、小説を丁寧に、恐ろしく丁寧に、読む。ただそれだけだ。
     精確に読むことが、ほとんどあらゆる〈読み物〉よりも(ジェイン・オースティンよりはもちろん、ある瞬間にはチャールズ・ディケンズよりも!)、はるかにスリリングで愉快で知的興奮をもたらす営みであることを痛感するだろう。
     そして何よりも、あなたの読書スキルはその時、格段に上がっているはずだ。
     保証する。
     


    2:

     ものの見える人の存在(たとえ側でなくても、ただ居てくれること)がありがたいのは、「そんなにも広く深く物事を見ることができるのか?」と、その可能性に驚嘆するだけでも、我々をいくらか前や斜め上に進ませるから、それだけでも我々の認識は広がり深まるからである。
     
     たとえば短いものだと、幸田露伴の「望樹記」という随筆。
     庭にある一本の倒木に始まって、その根から土の下、地下水とその水位、東京の水利と治水へとパノラマは展開していき、最後にまた、一本の庭木に戻る筆の運びは、あまりに日常すぎて見過ごしてしまう目の前の光景を、地下のように目が届かないところで生じているものや、橋げたが一つ増えるたびにわずかに上がる川の水位のように微小すぎて見えないもの、さらに東京という都市をマクロに捉えることなしには見えないものへとつなげていく。
     樹を通して、遠くを眺め、また見えないものを見ようとする、まさに望樹記。

     小説という人の手になるものについて、さらに広く深い(そして細かい)見る/読むことの可能性に驚嘆させるものがある。
     確かにそこに書いてあるのだが、読み飛ばし/読み忘れ/読み落としていた細部が、それもごくごく微細なものが、あらぬところと結びつきながら、その全体の有り様を、まるで違ったものにしてしまうような読み。
     著者は、何か切れ味のいい理論や概念を振りかざしたり振り回すのではない(当然ながら、その反対の立場に立ち、理論家たちの不躾な読み解きを断罪する)。
     手にしているとしたら、先の細さが見えなくなるほどの針。
     その針の先を何度も作品に入れることで、細部をさらに細かく腑分けして、その襞を開いていく。
     辛気臭い? その逆なのだ。
     この恐るべき精度の作業が、実に軽やかに楽しげに、進められていく。
     我々が襞の深さを知るのは、口笛のような語り口と、次々に繰り広げられる謎と謎解きとに、夢中になってその中に進んでいった後だ。
     
     
    3:

     「文学」と聞くと、それだけで嫌な顔をする人も多いだろう。
     それどころか嫌な心持ちになる人も少なくないだろう。
     
     何の役に立たないだけならまだしも、時間がかかる上に、どうしようもないことに恐ろしくつまらない。
     さらに輪をかけて、文学を論じることの残念さときたらもう。
     どんなに面白くってわくわくするような作品も、ポテトチップスに風呂の湯を注ぐよりもひどく、台無しになってしまう。
     
     そんな訳で、今日では小説や詩をつくる人たちですら、文学を避けて通る。
     自分のやってることやつくっているものが、文学呼ばわりされたりしたら目を剥いて否定する。

     この者達に幸あれ!
     
     我々はむしろこの隙に、文学という悪場所に手をつっこみ、ナボコフを手に取ろう。
     作品を論じることが、いつもいつも作者を墓の下で悲しませるばかりではないことを、時に作品のおもしろさをさらに増すことさえあることを、知るために。
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