「テレビの表現の天才。」安藤優子が語る“育ての親”逸見政孝の存在

直撃!シンソウ坂上
カテゴリ:芸能スポーツ

  • 無茶ぶりでも淡々とニュースを伝える誠実な姿が人気に
  • 順風満帆と思われていたとき病魔が襲い、当時“前代未聞”のがん公表会見を開く
  • 25年の沈黙を破り、番組でコンビを組んだ安藤優子さんが逸見さんへの思いを告白

テレビの黄金期を支えたアナウンサーの逸見政孝さん。

48歳という若さで亡くなった逸見さんと番組でコンビを組み、誰よりも近くで見てきた安藤優子さんに、番組MCの坂上忍がインタビュー。

そして、最期を看取った逸見さんの家族や関係者にインタビューを重ね、逸見さんが何を伝えたかったのか、その"シンソウ"に迫った。

"父親・逸見政孝"はテレビの姿とは正反対

1945年、終戦の年に大阪で生まれた逸見さんは、アナウンサーを目指して早稲田大学へ進学。当時の様子を知るのは、大学の同級生でのちにフジテレビにアナウンサーとして同期で入社する松倉悦郎さんだ。

2002年にフジテレビを退社した松倉さんは、現在は住職をしている。

松倉悦郎さん

松倉さんは「逸見さんと初めて会ったのが入学式。関西からアナウンサーになるために上京してきたということを熱っぽく語っていました。それで『僕と同じだね』と言うと、彼は非常に衝撃を受けていました。彼はその頃、大阪弁がまだ抜け切れていなかった」と当時を振り返った。

1968年にフジテレビに入社し、念願のアナウンサーとなった逸見さんが人気者になったきっかけが、夕方のニュースの前に放送されていた「夕やけニャンニャン」で司会進行を務めていた片岡鶴太郎さんとの掛け合い。

スタジオからの無茶ぶりにも淡々とニュースを伝える姿が、お茶の間で大人気となった。

誠実なキャラクターで人気者となった逸見さんだが、"父親・逸見政孝"としての顔は正反対だったという。

長男・太郎さん

長男・太郎さんは「厳格な父親といいますか、非常に寡黙。家ではほとんど話さない、笑わない。いわゆる、みなさんがイメージする穏やかな、優しい笑顔が見られるということはほとんどなかったです」と明かした。

「逸見さんは本当に天才だと思いました」

そんな逸見さんは1987年に、運命的な出会いを迎える。

その相手はフリーキャスターとして活躍していた安藤さん。フジテレビでの初仕事が逸見さんとの「スーパータイム」だった。

1987年10月に放送が始まった「スーパータイム」。逸見さんは当時42歳、安藤さんは当時28歳。

当時の映像を見た安藤さんは「懐かしい」と笑みをこぼし、「逸見さんは最初に『スタジオはお任せください、僕に。あなたは好きなように、どこへでも行って、何でもいいのでおやりください』とおっしゃって。私はずっと後輩ですよ。そんな私をすごい立ててくださって。そんな方、初めて見ました」と明かした。

また、「私は『育てていただいた』と言いましたが、ニュースをやっているときに、起きていることと状況把握と伝えることは両立させないといけない。瞬時的に。それができていた逸見さんは本当に天才だと思いました。テレビの表現の天才というか…」と、安藤さんは逸見さんからすべてを教わったという。

そして、逸見さんは管理職への昇進を機に、人生の大きな転機を迎える。

1989年3月31日、当時43歳の逸見さんは「スーパータイム」を卒業した。

アナウンサー生活の半分だという10年半もの間ニュースを伝え続けた逸見さんは、未知のバラエティの世界へ。

フリーとなった逸見さんは、これまでの真面目なイメージを破り、バラエティ番組に次々と出演。さらに、「たけし・逸見の平成教育委員会」では、のちに大の親友となる北野武さんとも共演した。

偽りの病名を公表し…がんの手術

人生が順風満帆だと思われていた頃、逸見さんの体を病魔が襲っていた。

「スーパータイム」の放送直前、逸見さんや安藤さん含めていつものようにスタッフと昼食をとっていたところ、「食欲がない…」と具合の悪そうだった逸見さんが突然倒れてしまう。

生放送直前ということもあり、世間に漏れないように当時、河田町だったフジテレビの隣の東京女子医大へと極秘で運ばれていた。

1993年1月18日、健康診断の結果、医師から告げられたのは「初期のがん」。医師からは「初期のものだから切れば大丈夫」と言われ、その言葉を信じ、1日でも早く仕事に復帰するため、がん細胞摘出の手術を受けた。

そして、この時に世間に公表された病名は「十二指腸潰瘍」。周囲への配慮のため、偽りの病名を公表した。

だが、手術後に妻の晴恵さんと娘の愛さんには、医師からがんが予想以上に進行していて、初期のものではなく、5年の生存率はかなり低い状態だということが告げられた。

不安を拭い切れない妻・晴恵さんは、退院後に「他の病院でも診てもらおう」と相談を持ち掛けるが、逸見さんは「先生を信頼している。一度、お願いした先生なんだから、最後までお世話にならなきゃいけないんだ」と断られてしまった。

夫のことを思っての妻からの提案だったが、一度人を信頼したら裏切らない、逸見さんの頑なな信念がそこにはあった。

娘が見た“前代未聞”のがん公表会見の前日

がんであることを世間に隠しながら逸見さんは仕事に復帰するが、その後、へそ付近からしこりが見つかる。

がん再発ということを晴恵さんは医師に問うが、医師からは再発を否定される。不信感を募らせた晴恵さんは、逸見さんに土下座をし、別の医師にも診てもらうこととなった。

妻の勧めでがんの専門医がいる大学病院へ転院。すると、医師から「腹部のしこりは再発したがん」だと宣告され、逸見さんはこれ以上隠し続けることはできないと、記者会見で本当の病名を明らかにするという決断をする。

娘・愛さん

娘・愛さんは「検査の結果が出たのが金曜日。その週末は家のベッドでずっと横たわって、難しい顔をしながらきっと頭の中で、会見で何を話そう…ということを自分で台本のように書いていたんじゃないかと思います」と話した。

1993年9月6日、午後3時。
テレビ史に残る前代未聞の会見が行われた。

逸見さんは会見の中で、事務所を通じてのコメントという形では真意が伝わらなかったり、誤解が生じることもあるため、自分の口から説明したいと話し、『十二指腸潰瘍』での手術は嘘であり、「私が今、おかされている病名の名前は『がん』」だということをつまびらかに明かした。

そして、「私は1年後に亡くなるのは本意ではありません。3ヶ月、ここで休養して闘ってみようと思いました。もう一回、いい形で『生還しました』と言えればいいなと思っています」とがんと闘う決意を述べている。

この時の映像を見た坂上が「あの頃、がんだと公表した人なんて見たこともなかったですよね」と安藤さんに問いかけると、「絶対しないです」と、逸見さんの会見がどれだけ異例だったかを語った。

安藤さんは「今でこそ、本人に告知することを是としますが、本人に直接言うことなんて当時はあり得ないし、会見を開いて言うなんて考えられない時代だった。それはなぜかというと、『がん=不治の病』という、医学の進歩的にもそういったイメージが強かった。絶対に人前で公表するなんてことは考えられないです」と話した。


実は会見の中で、家族も初めて聞くことになる最初で最後の逸見さんの弱音があったという。

娘・愛さんは「いつも聞くのが辛いなという一言があって、それが『やっぱり僕、人間ですから死ぬのは怖いです』と。強がりながらも、本当の心の底からの本音なんだろなと。あの時以降も、ああいった本音は見せなかった」と打ち明けた。

「25年経っても、こんなに悲しい…」

会見から10日後、胃のすべてを摘出する大手術が行われた。13時間、家族は不眠不休で付き合った。

術後、安藤さんは生放送の合間をぬって闘病中の逸見さんのもとを訪れ、番組に贈られてきたたくさんの応援の手紙を渡していたという。

家族以外、面会は許されていなかったはずだが、家族も逸見さんも安藤さんの面会を許してくれたといい、面会のたびにお見舞いの品としてパジャマを持って行ったが、逸見さんは絶対弱音を吐かなかったという。

だが、1993年12月24日のクリスマスイブ。

逸見さんは意識不明の状態に陥った。

最期の様子を娘・愛さんは「私が海外から帰ってきたりすると、父に『ただいま~』と海外みたいに(抱きついたり)するのを嫌がりまして。とにかく触るなという感じで。でも最後くらいはと、抱きついちゃいましたね」と、逸見さんは娘の思いが詰まった抱擁で最期の瞬間を迎えることとなった。

そして、1993年12月25日に逸見さんは48歳でこの世を去った。

安藤さんは「私は家にいたんです。危ないということは知っていました。今でも鮮明に覚えているのは、お風呂にお湯を張って、その中へ顔を突っ込んで泣いていたんです。どうしていいか分からなくなっちゃったんだと思います。25年経っても、こんなに悲しい…。信じられない」と目に涙を浮かべた。

安藤さんにとって”育ての親”である、逸見さん。坂上は安藤さんに「逸見さんはどんな存在だったんですか?『だった』なのか『存在なんですか』なのか…」と問いかけた。

「たぶん、『存在なんですか』だと思うんですけど…」と、自身にとって今でも逸見さんは大きな存在だと打ち明けた。

「テレビは本当にその人を映すと思います。このことを改めて気づかせてくれたのは逸見さん。テレビは本当に誠実に向き合えば、その人を誠実に映し出す。逸見さんはあのままなんです。それを教えてくれた人なんだなと思います」と語った。


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