昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

映画『太陽の墓場』に見る釜ヶ崎@鉄道編

 

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以前、昭和35年(1960)に大島渚監督によって撮られた『太陽の墓場』という映画の話を書きました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

今回はその続きなのですが、すぐに続きを書こうという意思だけは持ち続けた結果、かなりの月日が経ってしまいました。本当はすぐ後にアップしようかと。
しかし、忘れていたわけではありません。亀のようなスローペースながら、徐々に堀を埋めていっていたのです。
そして今回、やっと書き終えました。


が、鉄道編と銘打ったように内容が超マニアックになってしまったので、少し「濃度」を調整した上で今回の公開です。

それでも、ここからは鉄分と大阪史濃度の濃い、マニアックな話となります。

マニアックな話に興味がない方は、ここでお引取りいただいても大丈夫です。でも、できれば読んでね(笑

 

なお、少し時間を置いてしまったので、キャストなどのおさらいは上のリンク先をどうぞ。といっても、あまりする必要はないかも。

 

 

 

 南海電車

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愚連隊を抜けたいと悩む武(佐々木功)を花子(炎加世子)が見つけ、うちがボスの信に話つけたるわと彼と道端で交渉しているシーンです。左の男は20歳の津川雅彦、まだ映画出演2作目の初々しい姿です。

(※このブログを書いている最中、津川雅彦さんの訃報が飛び込んできました。ご冥福をお祈りします)


信の後ろにコンクリートの壁があります。これは南海電鉄の高架線で、アングルを変えると

 

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電車が走っています。
南海電車なのは明らかなのですが、さてどの車両なのか。映像に残る「現物」だからこそ、ここは「考古学」の出番なのです。

 

次のシーンを見てみましょう。

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これで形式を答えよ、となると鉄道イントロクイズになるのですが、他サイトの情報も加味すると、

 

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高野線用の「ズームカー」(21000系)か、

 

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本線で使われていた旧1000系(11001系)のどちらかになります。こちらは形式がややこしいため、「11001系」に統一します。

え?この二つ、何が違うの?全く同じやんか!

鉄道マニアでも何でもない人、いや、鉄道マニアでも車両に詳しくないと見分けがつきません。正直、私もわかりませんでした。

さてこういう時はどうするか。

このネット多様化時代、わからなければSNSに晒すべし。自分に知識・知恵がなければ人のを拝借すればいい、これが21世紀の賢い調べ方。

そこでTwitterで大募集をかけてみると、鉄道車両に詳しい「車両鉄」が速攻で食いついてくれました。

「これは本線用の11001系です」

 その人はきっぱりと即答・断言しました。

 

なぜそこまで断言できるのか聞いてみたところ、さすがは専門オタクだと敬礼したくなるような答えが返ってきました。

まずは基本知識として、高野線用21000系の1両あたりの全長は17m。これは山奥に入る山岳用車両なので、車体長が他の車両より短いのです。
対して本線用11001系は20m車体長に3mの差があります。


これが、側面の窓の数になってあらわれてきます。

 

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ズームカー21000系の窓の数は13個。先頭から2-8-3という配置です。

 対して11001系はどうなっているのか。

 

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窓の数は16個3-9-4の配置で高野線の電車より3つ多くなり、これが3mの差となります。

これを頭に入れつつ、映画内の電車の窓の数を数えてみます。

 

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窓の数で11001系だということが判明しました。

私も広く浅くのライト鉄マニアとして、21000系の車長の知識は持っていました。しかしながら、窓の数まではさすがに把握できず。このBEのぶ、車両鉄の深き専門知識に脱帽であります。

 

現地で映像の場所を探索してみると、11001系であることが更に明確となります。

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映画のシーンの高架は現在でも残っており、地図の位置であることは確定です。

映画のカメラは北を向いていたこととなり、電車が進んでいた方向は難波駅。つまり電車は難波行き。
それならいちばん左の線路は本線用。17mの高野線用車両が走っているわけがない。この理屈でも1000系なことが確定です。

 

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映像のいちばん右端あたりは、現在新今宮駅難波方面ホームとなっています。映画のシーンを意識して似たような角度で撮影した2018年の姿が上の写真です。

ちなみに、後で詳しく書きますが、南海の新今宮駅は映画の当時は存在していません。

 

 


謎の線路

逆に、同じ鉄道でもどこかわからないシーンがあります。

『太陽の墓場』オープニングで、戦争を煽る謎のルンペン(煽動屋)が花子に絡み、おもろいやっちゃと花子が仲間に引き入れるシーンがあります。

 

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このシーンで、建設中の鉄道の高架線が映っています。まだ架線が敷かれていない架線柱が見えるので、鉄道で間違いありません。

 

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次のシーンでは、奥に駅が見えます。

さて、ここは一体どこなのだろうか。
これを指摘しているほぼずべてのサイト・ブログ・SNSでは、当時建設中だった大阪環状線西九条~天王寺間と結論づけています。

 

今は大阪市内をグルリと回っている大阪環状線ですが、

 

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戦前は

「城東線」:天王寺~鶴橋~京橋~大阪

「西成線」:大阪~西九条(終点は桜島)

「臨港線」:今宮駅から大阪築港(大阪港)。貨物専用

の3つに分かれていました。

見ての通り線路がつながっていないので、現在のような環状運転は不可能です。しかし、これら3つの線路をくっつけ「環状線」にしようという計画は、戦前からありました。

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(昭和10年(1935)1月11日『大阪毎日』より)

計画自体は戦前からあったものの、戦争と敗戦、そして戦後復興の中おそらく後回しにされ、戦後に余裕が出てきた昭和30年代に実現したと考えるのが自然でしょう。

 
そういうわけで、西九条-弁天町-大正-天王寺間が開業したのは、映画上映翌年の昭和36年。映画製作中は工事中と言われると、ああなるほどなと。
しかし、この高架線の曲がり具合が、釜ヶ崎周辺、具体的に言うと現在の新今宮駅周辺には見当たらない。
どの角度で撮影されたのかがわからないのですが、Google Mapで分析してみる限り、うーんと首を傾げざるを得ない。
すべてが大阪で撮影されたとは限らないと推測すれば、もはやどこか解明不可能。
個人的に、工事中だった大阪環状線とは断言し難いので、ペンディングとしておきます。大阪環状線なら、建設途中の姿が映像、それもカラーで残る映像の有形文化財ものなんですけどね~。

 

 

映画予告編に出た超レア車両

映画のラストシーンでは、武と花子がデキちゃった上に、花子と寝た武がうっかり愚連隊のアジトの場所を言ってしまいます。
愚連隊は人殺しもいとわないヤンキー集団だけれども、組織として固まっているヤクザは商売敵でもあり天敵でもあります。ヤクザが正式な軍隊ならば、愚連隊はゲリラ。人員も練度も豊富な「軍隊」に本気で襲撃されたら、愚連隊はひとたまりもありません。だから、見つからないようにアジトを変え、裏社会のゲリラ、いや安らぐ場所のない流浪人として生きて行かざるを得ない。


ヤクザとも一脈相通じている花子は、アジトの場所をヤクザに知らせヤクザが愚連隊を襲撃。信の手下は武を除いて全員殺されてしまいます。


花子がバラしたことを知った信は、当然彼女を殺しにかかります。

 

太陽の墓場ラストシーン

太陽の墓場ラストシーン2

これは、信に追いかけられた花子が国鉄の線路へ逃げているシーンです。

 

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彼女が上った場所は、赤で丸をした位置となります。

 

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花子が上った関西本線の土手は現在コンクリートで固められ、家や倉庫も建っているので近寄れません。 

 

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 が、映画に映った勾配標識は当時と同じ場所に立っています。まあ、表示が違うので当時のものではないはず。

 


信のカンで花子に教えたのが武だとわかると、殺意の矛先は武の方へ。
信は持っていたピストルを取り出し、武の心臓を貫きました。しかし、武は最後の力を振り絞り、信の足を離さないまま、二人は汽車に轢かれ…
愛してしまった男が目に前で轢死したのを見た花子は、茫然自失のまま近くの酒場へ転がり込みます。
自暴自棄になってしまった花子は、
「こんな時代、いつになったら終わるんや!」
と飲んでいた人に絡み、最後はケンカとなります。

 

二人を轢いた汽車は、本編では汽笛の音だけで本体は出てきません。
しかし、宣伝用の予告編にはその姿が残されていました。

 

 

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 『予告篇』の映像を切り取ったものです。

時間にして2秒ほどのシーンですが、この1枚には貴重な歴史情報が詰まっています。


①関西本線(大和路線)が非電化

写真は現在の新今宮駅付近で、SLが走っている線路が現在の関西本線、それを高架で跨いでいるのが南海本線です。
今は電車が走っているところですが、映画のロケ時の昭和35年は非電化でした。よく見ると架線がないでしょ?

この区間が電化されたのは昭和48年(1973)、「大和路線」という愛称がついたのはJR化後です。

 

②大阪環状線がない

これについては上述したとおりです。
当時の新今宮駅付近は大和路線の線路しかないので、当然複線ですが、その跡が駅の真下に残っています。

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南霞町・・・じゃなかった、今は新今宮駅前駅と名を変えた阪堺線の駅ですが、JR線と交差するホーム奥に、昔のレンガ積みの土台の跡がくっきり残っています。
映画の頃を含めて昔は内側の線路2本分(複線)だったのが、大阪環状線開通後に外側2本が作られ、レンガの土台の上をコンクリートで固めた作りになっていることが一目瞭然です。

今は堤防のようなコンクリートの壁になっていて、到底線路上には登れません。しかし、昭和35年当時の線路の土手がレンガの角度なら、確かに花子のような女性でも登って行けるかも。

 

③新今宮駅がない

今しか見ていないと到底想像もできないですが、SLが走っている場所、今の新今宮駅です。①や②以前に、そもそも新今宮駅がないのです。
新今宮駅は、映画が上映された4年後の昭和39年(1964)に作られた、意外に新しい駅だったりします。南海の方の開業は、そのさらに数年後となります。
なので、昭和35年には新今宮駅なんて影も形もありゃしません。

 

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(『定点観測 釜ヶ崎』より)

新今宮駅がない頃の国鉄・南海交差点の写真は、上の写真のように何枚か残っているのもあるのですが、映像として残っているのは『太陽の墓場 予告篇』くらいじゃないかと。

 

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この映像切り取り部分の汽車は湊町駅・・・現在のJR難波駅方向を走っていますが、現在位置は、大和路線JR難波方面行きホームということです。

ただし、新今宮駅の地点に駅を作ろうという計画も、戦前からありました。

 

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(昭和12年7月4日『大阪毎日』より)

南海が昭和初期に国鉄をまたぐ形で高架になった時も、
「国鉄と交差するところに駅を作れるような構造にしろ」
という条件で許可されました。


以上のことで食いついてくるかな~と予想しつつ、Twitterにアップしました。「新今宮駅があらへんやん」ということだけでも、文明が破壊されない限り二度と再現できないシーン。歴史を知らない人には十分ネタになるかなと。


しかし、さすがはDEEPな鉄道マニア。食いつき方が私の予想のはるか斜め上でした。

 彼らが指摘したのは、下の写真赤矢印の車両。

 

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別にどうということはない、ただの客車やんかと。

私も最初はそう思いました。なんでそんなとこに集団で騒いでんねんと。
ところが、これが鉄道史の常識をひっくり返すようなレア車両だったらしいのです。

 

戦災復旧車

先の戦争で被害(戦災)を受けた国鉄の車両は、

蒸気機関車852両(全両数の14.8%)
電気機関車39両(13.4%)
電車563両(25.1%)
客車2,228両(19.1%)
貨車9,557(7.5%)

合計:13,239両

 

と相当の数にのぼりました。

戦災を受けた電車は、

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こんなものや、

 

戦災車両終戦直後

こんなものまで多種多様。

当然、無傷の車両もあったのですが、それらはすべて進駐軍に接収され。

 

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(『終戦直後 大阪の電車』より。石橋駅に止まる阪急宝塚線の専用車)

白帯を巻いた「連合国専用列車」として利用されました。
「連合国専用列車」というと、イコール進駐軍、イコールアメリカ軍専用、つまりガイジンしか乗っていないというイメージがあります。
が、あくまで「連合国」なので中国人や、「中国人」となった台湾人も乗車可能だったということは、意外に知られていません。

さらに戦争が終わり移動の制限がすべてなくなったのはいいけれど、車両が戦災を受けまともな車両が少なく、少ない列車に人が押し込められるような修羅場でした。

 

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(『思い出の省線電車』より)

これが一例ですが、

 

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インドの通勤電車顔負けの光景が、70年前の日本に存在していました。

そんな状態に鉄道会社はじっと見ているだけではなく、戦災での車両不足と急激な需要に応えるべく急ごしらえの車両を大量増産することとなりました。
それが「戦災復旧車」と呼ばれている車両グループで、戦災で死亡した客車の台車だけ流用したり、逆に車体を急ごしらえで改造したり…フランケンシュタインの鉄道車両版というべきものでした。

 

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国鉄版「戦災復旧車」は、「70系客車」と呼ばれている一群でした。
全国にあった戦災被害を受けた車両のうち、17mのものや20mの車体のものを急ごしらえで改造し投入したもので、全国で260両ほど存在していたものです。
車両鉄によると、映画に映っていたのは「オハ70」という系列で、17m客車をフランケンシュタインしたものだそう。扉を見ると2つしかないのが「オハ70」の特徴だそうです。

 

しかし、しょせん70系客車は応急処置的なつなぎ役。輸送も車両のやりくりも落ち着いた昭和30年までには、荷物車などに転用され淘汰されました。
「オハ70」も、旅客用としては昭和29年には全車引退、荷物車としても昭和30年代前半にはお役御免、車庫で放置プレイのまま朽ち果て・・・のはずだったのですが、昭和35年でもその戦災復旧車が現役で走っていた動かぬ証拠が映画の中にあるとくれば、鉄道好きの大きなお友達が食いつかないわけがない。
(映画から)4~5年前に絶滅したはずの魚がまだ生きていた!と、彼らはワクワクドキドキです。
当然、私はそんなつもりでアップしたわけではないのですが、これが超レアお宝映像だったのです。

 

おわりに


映画は、俳優たちの演技やストーリー、映像美などエンターテイメントとして見るのがふつうです。
ところが、視点を一つ変えて見てみるととんだ歴史学のネタになることが、『太陽の墓場』で証明されました。これはこの映画に限ったことではなく、昔の映画を歴史学の視点で見返すと、予想だにし得なかったお宝が見つかるかもしれません。

大島渚監督はすでに故人ですが、映画を通してこんな映像の大阪史を遺してくれていたとは、「死せる大島、生けるBEのぶを走らす」か。

 

そして最後に改めて、この映画に準主役として出演した津川雅彦さんのご冥福をお祈りします。惜しい昭和の名優がまた一人逝ってしまいましたが、時は非情なり、仕方ない。

今頃は、兄貴と奥さん、そして大島監督とあの世でワイワイやっていることでしょう。

 

==こんな記事もあります。よかったらどうぞ==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

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