「離陸してみると、長崎上空は黒雲に包まれ、その下は雨が降っているようでした。一通りの飛行テストを終えて、午後3時頃、着陸前に雲の下に入ってみたんです。地上は完全な焼野原だったですね。真黒な雲が広がっていて、雨がザーッと降っていて。高度500メートルぐらいで、残骸と化した浦上天主堂のまわりを旋回して見てみましたが、そりゃあ酷いもんでしたよ」
と、歴戦の戦闘機搭乗員だった佐々木原正夫少尉(故人・1921年−2005年)は語る。
佐々木原さんは昭和14(1939)年、甲種飛行予科練習生4期生として海軍に入り、空母「翔鶴」零戦隊の一員として、昭和16(1941)年12月8日の真珠湾作戦(機動部隊上空哨戒)を皮切りに、翌昭和17(1942)年、史上初の空母対空母の戦いとなった珊瑚海海戦、そしてガダルカナル島攻防戦、南太平洋海戦などの激戦に参加、空母「瑞鶴」に異動して昭和18(1943)年2月、ソロモン諸島の戦いで重傷を負った後は、主に戦闘機の空輸任務と、新鋭機「紫電」「紫電改」の、実戦部隊に配備される前のテスト飛行に任じた。
昭和20(1945)年7月末、「紫電改」で編成された防空部隊、第三四三海軍航空隊(三四三空)戦闘第七〇一飛行隊に転勤を命じられ、長崎県の大村基地に着任したばかりだった。当時、23歳。この時点ですでに、予科練同期の戦闘機乗り21名のうち、19名が戦死し、1名は米軍捕虜になっている。
「大村に赴任したのは、すでに全軍が、来たるべき本土決戦に備えている時期で、もしも米軍が九州に上陸してきたら、三四三空は全力を挙げて迎え撃ち、一週間以内に総員が戦死するという見込みを聞かされました。『なんだ、俺たち、みんな死ぬのが決まっているのか』と。仕方ない、ここで死ぬんだな、と覚悟を決めました。ただ、三四三空では、一度だけ敵艦上機邀撃に出撃したものの、私自身、空戦はありませんでした」
8月9日――。
「この日はトラックを10台ぐらい連ねて、搭乗員を荷台に乗せ、総員で飛行場裏手の山登りに行きました。三四三空には戦闘七〇一、三〇一、四〇七の各飛行隊があり、それぞれ30何人かの搭乗員がいましたから、かなりの人数です。途中、私たちの乗ったトラックが故障して、修理の間、たまたまアイスキャンデー屋があったので、みんなでなかに入ってアイスキャンデーを食べていました。
すると突然、ガラスがビリビリと震えて、しばらくしてドーン、とものすごい音がした。爆撃か?と外に飛び出すと、南西の方向の青空に、真白い大きな玉が上がっていくのが見えるんですよ。その真白い玉の間から真赤な炎がはしり、そこがすぐ水蒸気に包まれて、まん丸い玉が大きくなりながらゆっくりと上がってゆく。
あれはなんだ? 広島に落ちたのと同じ『新型爆弾』じゃないか、そうだそれだ! などと口々に言いながら、とはいえ、どうしようもないので車に飛び乗ってとりあえずみんながいる山頂までは行き、弁当を食べながらきのこ雲を観察すると、どうやら爆弾は長崎に落ちたようでした。それを見ながらみんな無言になってね……。そのまま帰路について、基地に戻ったのは午後二時頃でした」
大村基地に帰ると、戦闘七〇一飛行隊の整備員が、佐々木原さんに整備のできた「紫電改」のテスト飛行を依頼してきた。ベテラン搭乗員の多くが戦死し、いまや佐々木原さん以上にテスト飛行の経験が豊富な搭乗員は、ほとんど残っていなかったのだ。
「大村基地と長崎は、直線距離で20キロ足らずですから、飛行機なら目と鼻の先です。高度をとって急上昇、急降下、そして宙返りやクイックロール、スローロール、垂直旋回など、エンジンの調子も見ながら特殊飛行を実施してテスト飛行を終え、しかし、どうにも長崎のことが気になるので黒い雲の下に入ってみた。放射能のことなど、そのときは知らなかったですからね。
――雨の降るなかを低空で見た長崎の情景は、一生忘れられません。浦上天主堂の残骸はかろうじてわかりましたが、一面、廃墟となって人の気配も感じられない。思わず息を呑みましたよ。たった一発の爆弾でこんなふうになるなんて、これまで長く戦ってきた経験からも想像もつかない。惨状という言葉では足りない、あまりに酷いありさまでした」