15 Kokyomae 01

毎年8月に入ると、昭和20年敗戦の年の出来事が取り上げられるようになる。6日の広島への原爆投下、9日の長崎への原爆、同じく9日のソ連参戦、そして14~15日の宮城事件、15日正午の玉音放送…と続く。毎年、新事実が出たり、新証言が出たり、当事者の回顧録が出たりする。そのいずれもが(ほとんどが)体制に都合のよいプロパガンダであることに、我々はようやく気づきはじめた。

Hirohito 01

今回は8月15日の宮城前広場の真実について取り上げる。15日正午に、昭和天皇の玉音放送が全国(満州、朝鮮、台湾などを含む)と占領地に流され、日本国民は敗戦を知ることとなる。当時メディアはNHKラジオと新聞しかない。15日正午に玉音放送があったわけだが、新聞各社はその内容、つまり敗戦を14日には知り、紙面作りに入る。しかし、天皇の放送があるまでは発表を禁じられたため通常のように朝に配布できなかった。新聞自体は正午頃には刷りあげ、配送が開始されたのは、午後になってから。地方によっては夕刊の時間に15日朝刊が届けられた。さて、問題はその15日の夕刊ならぬ朝刊の中身である。皇居前広場(二重橋前)の玉ジャリを踏んで多くの人々が宮城に向かって土下座し、号泣する様が写真で掲載され、記者の取材記録が載っている。「溢れる涙、とめどなく流れ落ちる熱い涙、ああけふ昭和二十年八月十五日(略)大詔を拝し、大君の在します宮居のほとり、濠端に額づき、私は玉砂利を涙に濡らした。唇をかみしめつつ、道行く兵隊の姿を見ては胸かきむしられ、『作れ飛行機』の貼り紙を見ては、宮城への道々を悲憤の涙を流しつづけた私であった。胸底を抉る八年余の戦ひのあと、歩を宮城前にとどめたとき、私は最早立ってはをられなかった。抑えに抑えてきた涙が、いまは堰もなく頬を伝った。膝は折れ玉砂利に伏し、私は泣いた。…」

Asahi Shusen 01

まだまだ続くのだが、こういう声涙ともに下る記事を書いたのは朝日新聞記者である。この記事は玉音放送の前に当て込みで書かれたものである。宮城前に取材に行ってから書けるはずがない。玉音放送があったころには新聞は刷りあがっていたのだから、記事は捏造だった。また、宮城前の玉砂利で国民が土下座している写真についても、実は14日にヤラセで撮影されたものである。

以下は一般の人の体験談である。「『宮城前に来たから拝んでいこう』という気持ちで二重橋の方へ歩いていったところ、ちょうど『写真』の位置で、腕章を巻いたカメラマンに呼び止められ、『写真を撮りたいので、土下座してほしい』と云われた。他に写真のように多くの人々が座らされ、『撮影しますからお辞儀してください』と云われて撮られたのです。(略)妙な気分で、その場を去ったが、それでもまだ、敗戦終戦ということは思い浮かばなかった。翌15日、大変暑い日であった」宮城前で土下座している写真は教科書などで見た人は多いだろうが、あれはヤラセだったのである。8月14日、あたかも15日にはこういう場面が生じるはずだという見込みで、何も知らされない国民を騙して写真をとり、記事を書いた。それがあのころの、そして今も、の新聞である。

Onizuka Hideaki 01

ノンフィクション作家鬼塚英昭氏は『日本のいちばん醜い日』で、「私は八月十五日について書かれた本をたくさん読んできた。あの日、あの広場にいて、そのことを書いた人の記事を探した。無い、のである。」と書いている。つまり、宮城前で自発的に国民は三々五々集まってきて、玉砂利にひれ伏して号泣したとか、天皇に詫びたなどという事実はまったくなかったのである。

Koichi Kido 01

ただ唯一、鬼塚氏が見つけたのは木戸幸一(内大臣、写真上)の日記の中に、玉音放送のあと、宮城前に続と集まった人々はいて、彼らはやっと絶望的な戦争が終わった解放感から「万歳」を唱えていたという記述を見つける。戦争を嫌っていた国民が「天皇陛下万歳」ではなく、ただ戦争が終わったことを(喜んで)「万歳」と叫んだだけであった。だから木戸は「敗戦というのに何だか奇妙な感じを受けた」と書いた。また、敗戦直後にはまだ権勢を誇っていた在郷運人らが、町内の人に皇居に行って陛下にお詫びしてこいと強要したこともあったようであるが。8月15日付けの新聞に掲載された“土下座写真”については、佐藤卓己著『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』(ちくま新書)でも虚構であることが検証されている。こうしたヤラセは今日も続いている。と鬼塚氏は書く。