Facebook最大の問題、それはザッカーバーグが「革新的」ではないことだ

フェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグが「広告」を擁護しようとしていることは、これまでの発言からも明らかだ。そのビジネスモデルの根本的なあり方や妥当性に関する疑問をかわすことに終始し、代替案を本気で考えてはいない。「イノヴェイティヴ」であることをやめたザッカーバーグの考え方こそが、フェイスブックに危機をもたらすのではないか──。

TEXT BY JAMES WILLIAMS
TRANSLATION BY GALILEO

WIRED(UK)

Mark Zuckerberg

PHOTO: MARLENE AWAAD/BLOOMBERG/GETTY IMAGES

フェイスブック会長兼最高経営責任者(CEO)のマーク・ザッカーバーグが出席した4月の米連邦議会公聴会は、まるで悔恨と懸念の劇場だった。

そのなかでも、ある突出していたやり取りがある。オリン・ハッチ上院議員(共和党、ユタ州選出)から、「ユーザーが料金を支払わないサーヴィスのビジネスモデルを、どのように維持しているのですか?」と尋ねられたザッカーバーグは、「議員、わたしたちは広告を掲載しています」と答えたのだ。

世界最大規模の広告会社であるフェイスブックを規制する立場にある議員が、なぜかフェイスブックが広告会社であるという事実を見落としていたようなのだが、この点についてはこだわりすぎないほうがいい。有権者のほとんどは、フェイスブックの顧客が広告主であり、世界的に使われているFacebookが広告主の関心を引く手段であり、製品であることに気づいていない。おそらくハッチ議員は、そうした有権者を代表していたのだろう。

むしろこだわるべきは、ザッカーバーグによる素朴だがよく検討された回答だ。「議員、わたしたちは広告を掲載しています」

この言葉には引っかかった。1930年代に、当時生まれたばかりの新聞社で働いていた大胆な編集者が口にしそうな言葉だ。「わたしたちは広告を掲載しています、議員。広告のおかげで、わたしたちは新聞を発行し続けられるのです」。しかしこれは、20億人以上の思考や行動に大きな影響を与えているメディアプラットフォームを運営する大富豪のCEOが口にする言葉とは思えない。

われわれの社会には「広告」がずいぶん前から存在してきたが、われわれは広告に対して、その存在の正当性を証明するよう求める習慣はない。このため、話し合いがそちらの方向に流れたときには、広告の擁護者たちがどうやって自らを防衛するのかに注目すると、有益なことがある。

広告モデルこそがすべて?

例えば、今回のケンブリッジ・アナリティカのスキャンダルにまつわる一連の調査においてフェイスブックは、同社が人々の関心のあり方を管理しているという問題(プロパガンダや説得、フェイクニュース、選挙への干渉など)を、情報管理の問題(プライヴァシー、情報漏えいなど)にすり替えるというPR作戦により、ほぼ全面的な勝利を収めた。その結果フェイスブックは、同社のビジネスモデルの根本的なあり方や妥当性に関する疑問をかわすことに、ほぼ成功したのだ。

ケンブリッジ・アナリティカ問題でこうしたすり替えが成功したこともあり、フェイスブックのビジネスモデルに関する疑問に焦点が当てられた瞬間は、より一層重要な意味をもつようになった。その一例が、前述したザッカーバーグとハッチ議員の短いやり取りだ。

もうひとつの例は、公聴会が行われた1週間前に、「Vox」のエズラ・クライン編集長が行ったザッカーバーグのインタヴューである。

このインタヴューには記憶にある限り、ザッカーバーグとしては最も直接的な広告擁護が行われている。しかも、論点が新しい。今後同社が広告を擁護する際には、この主張をベースにより強固な主張を展開するのではないかと予感させるものだった。

クラインはこのインタヴュー記事において、アップルのCEOであるティム・クックの言葉を引用している。もしザッカーバーグの立場に置かれたらどうするかと尋ねられたクックは、「同じ立場に置かれることはありません」と答えたという。アップルのビジネスモデルは広告ビジネスと無関係だからだ。これに対し、ザッカーバーグは次のように答えている。

「こうした議論は、何らかのかたちでお金を出さない人に関しては、企業として関心をもてないという意味をもつと思います。とても誠意のない考え方であり、まったく真実に即していません。世界の人々を結びつけるようなサーヴィスを構築したいと考えたとしても、現実にはそうしたサーヴィスにお金を出せるだけの余裕がない人は大勢います。だからこそ、サーヴィスを人々に届けるための唯一の合理的なモデルは、多くのメディアと同様に、広告によって支えられたモデルなのです。(中略)裕福な人のみを対象としないサーヴィスを構築したいのであれば、誰でも利用できるかたちにしなければなりません」

「広告によって支えられたモデルは、唯一の合理的なモデル」。これが、しばしば現状打破こそが根本的に重要なことだとみなされている業界における、「革新の王者」による目覚ましい発言なのだろうか?

「いまとは違うものを想像する力」の喪失

自動車業界の大物が「内燃機関はクルマを動かすための唯一合理的な手段」と断言したとしたらどうだろう? 科学者が「0.05以下のp値(有意確率)は、統計学的有意性に関する唯一合理的な基準だ」と主張したら? 中世の領主が「農奴制は民衆が生き永らえる唯一合理的な制度」と言ったら? 権力と金が関係してくると、人は驚くほど早く「いまとは違うものを想像する力」を失ってしまうのだ。

こうした議論で行われている主張はすべて、必ず成立するというわけではないものだ。広告を収入源とするビジネスモデルのもとでは、企業がユーザーを大切にできないと主張する者はいない。

むしろ、この議論で語られているのは、広告を収入源とするビジネスモデルのもとでは、企業の従業員一人ひとりがどれだけユーザーを重視していたとしても、ユーザーの関心に反するダウンストリームのデザインが奨励されるような組織的優先度が生じやすいということだ。統計学者のW・エドワーズ・デミングも述べているように、「悪いシステムは例外なく善人を打ち負かす」のだ。

ここで、いくつかの誤った前提を排除しておこう。まず、人々はすでにフェイスブックに支払っている。もちろん、金は出していないが、時間と関心を差し出している。

次にザッカーバーグは、フェイスブックがユーザーに金を請求する場合の前提として、すべてのユーザーから金を徴収しなければならず、それがフェイスブックに支払う唯一の方法だと決めつけている。

さらにザッカーバーグは、請求金額にかかわらず、「裕福」な人しか支払うことができないと考えている(2017年第4四半期の時点では、フェイスブックが1年間に受け取っている金額を平均すると、ユーザー1人当たりわずか6.18ドルだった)。

ここで挙げたもののうち、いちばん最後の前提には重要な意味が隠されているかもしれない。「裕福な人のみにサーヴィスを提供すること」は、ビジネスとして望ましくないだけでなく、ある意味で不公平だとザッカーバーグは考えているようだ。

ザッカーバーグは現実を直視していない

ザッカーバーグはクラインによるインタヴューのなかで、自身の功績として、いまのフェイスブックは多くの点で従来型の企業というよりは政府に近いと述べている。ザッカーバーグによれば、フェイスブックの目標は世界中の人々を結びつけることだという。しかしザッカーバーグは同時に、その結果、ある種の独占状態につながりうるという意見については否定している。

しかし、「広告は不可欠だ」という主張が公平性を根拠にしているのだとしたら、ユーザーにとってFacebookに代わりうるサーヴィスは存在しないという概念を暗に認めていることにならないだろうか? 公平性とは、社会的正義における原則だ。通常は、市場で競い合う企業が考慮することではない。

例えば、コカ・コーラが低・中所得の国々で製品の販売をとりやめたとしよう。消費者の選択肢が少なくなったと嘆かれることはあるかもしれないが、不公平だと声高に叫ばれる事態になるだろうか?

いずれにせよ、選択性と公平性は確かに、その両方が広い意味で傷つけられている。それは、「ユーザーの興味を引くことができる広告」に代わりうる、意義のあるものが存在しないからだ。しかもこのような広告は、デジタルテクノロジーの時代に突入したいま、別のかたちへと姿を変えている。インテリジェントで、ときにはユーザーに敵対した立場からの説得というかたちへ。

ザッカーバーグたちは、こうした現実を直視していないし、本気で代替サーヴィスを考えようとしてはいない。だからこそわたしたちは、「破壊的革新」を真剣に求めるべきなのだ。

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