会談-2
ナザリック大地下墳墓の地表部。
かつては毒の沼地があった場所は、現在は草原へと変わっていた。静かな風が草原の草を揺するという牧歌的な景色が広がる中、突然どんと白亜の壁が聳え立つ。
門から内部を覗けば広がるのは、巨大な戦士像などが置かれた墓地。
草原という場所を考えればあまりにも似つかわしくない異様な光景だ。何の理由も無ければ敬遠したくなるような、何かが致命的に食い違ったような気持ち悪さが存在する。
そんな人が忌避したくなる場所に、現在は3台の馬車が止まっていた。そこには御者がおり、中に乗ってきた人間の身の回りの世話をする者がいる。
ただ、それだけではない。
馬車の周囲には馬に乗った武装した戦士が合計6名いた。彼らは皆同じ紋章を胸に刻んだフルプレートメイルを着用していた。どこかの貴族の私兵という評価が最も相応しいだろう。
そんな戦士達が熱い視線を送る先にいたのは、1人のメイドであり、1人の戦士であり、1人の貴族風の男だった。
「遅い」
口を開き、苛立ちを隠してもいない鋭い声がメイドに放たれる。
言ったのは貴族風の高齢な男だ。
皮膚は皺だらけであり、骨と皮しかないと思えるほど痩せている。髪は殆ど残ってない上に白く細いため、遠目からすると――いや近くからでも禿のように見えた。
全体的に評価して、スケルトンとかリッチといったモンスターに似ているという感想が暴言とは言い切れない男だった。
「遅すぎる。一体いつまで我々を待たせるつもりかね?」
何処に王家から遣わされた使者をこんな場所で待たせる者がいるか。
言葉にそういう無言の声を込め、老人は不快げに睨む。
「大変申し訳ありません。今、アインズ様は急ぎで準備をされております。ですのでもうしばらくお待ちいただければと思います」
ペコリと頭を下げたのはメイド――ユリ・アルファである。その非常に整った顔に深い謝罪の感情を込めての行動だ。男であれば即座に許してしまいたくなるのだが、この問答は既に数度――いや十数度繰り返されているもの。効果はかなり薄くなっている。実際老人の不機嫌さは即座に戻ってくる。
「急ぎの準備というが、ここに来ること以上に何が重要だというのかね?」
嫌味を込めての発言。ユリは深く頭を下げる。その下でどのような表情をしているかは不明だが。
そんなユリに追撃の言葉を放とうと、口を開きかけた老人に、横で眺めていた戦士が声をかける。
戦士といっても、顔を守るヘルムを外したその顔立ちには気品のようなものが漂っていた。生まれたときからそういった生活をしてないものには無理な、貴族の雰囲気ともいえるもの。
確実に王国内に領地を持つ、どこかの貴族である。それが兵士を連れて警護してきたと考えるのがもっとも妥当な線だった。
実際、彼はアルチェルと同じ貴族派閥のある一門に所属する人物だ。
「アルチェル殿。そう目くじらを立てる必要も無いじゃないですか。このような田舎臭いところに住んでいる住人。礼儀という言葉を知らないのも当然です」
アルチェルといわれた老人は微妙な表情を浮かべた。
「そうはおっしゃいましてもな」
立場的には上だが、権力的な意味合いでは戦士の方が上なのだろう。アルチェルの態度は決して孫ほどの人物に向けるものではない。
「確かに王家からの使者をこのような場所で待たせるというのは、あまりにも無礼でありますが、それは礼儀を知るものからすれば。蛮族や亜人などにアルチェル殿は同じことをおっしゃるのですかな?」
「……そうですな」
「アルチェル殿。もしなんでしたら馬車の方でお待ちになったらどうですかな?」
「……悪くはない提案ですな」アルチェルは抜けるような青空を眺める。「ただ、この天気ですと、中も熱せられますので」
「あー、そのとおりですな。風が流れない分、暑く感じますな。これは申し訳ない」
戦士は微妙な謝罪の表情を浮かべ、軽く頭を下げる。
「……でしたら、先ほども提案させていただいたように、応接室がございますので、そちらで待ったいただければと思うのですが」
先ほどのユリの提案。
それを同じようにアルチェルは一言で切り捨てる。
「あそこに広がる墳墓の中で待てというのか?」
こいつは何を言っているんだという表情を隠さずにアルチェルは言う。何が悲しくて墓場で休まなくてはならないのか。確かに快適さは格段に上だろう。しかし、死の匂いが漂うような場所で待っていたいとは全然思えない。
「……いえ、そうではなくてですね」
ユリは言葉を濁しながら視線を動かす。その視線の向かった先がログハウスと知り、アルチェルの顔にははっきりとした侮蔑が浮かぶ。
「あんなちゃちなログハウスで待つのかね?」
「いえ……あそこからナザリック内部に入る道がありまして」
「……墳墓に入る道かね?」
「そうですが、ナザリック大地下墳墓の下の階はアインズ様のお屋敷となっております。その階まで移動されて――」
「アインズ……アインズ・ウール・ゴウンという魔法使いは墳墓にすんでいるのかね?」
「はっ? はい。左様ですが?」
それがどうしました。そんな表情のユリに、アルチェルはおぞましいものを見えるような目で睨む。
常識的に考えて墓場に住むような人間なんか、どの程度の人間か言うまでもない。はっきり言ってしまえば穢れた仕事をするような人にして人に有らざるよう存在だ。おそらくはアルチェルのような貴族の人間が生涯関係を持たないような地位の者。そんな人間に会うために自分が派遣された。そのことが何より非常に不快なのだ。
不快な表情で黙ってしまったアルチェルに対して、ユリは何か失態を犯したかと疑問を感じる。そして両者ともに別の感情に支配されて黙った。
静かになったそんな2人を興味深げに眺めていた戦士はユリに話しかける。
「ところでそちらのお嬢さんは、ゴウン……とかいう魔法使いの何なのかね?」
「私ですか? 私はアインズ様に仕えるメイドの1人です」
「メイドの1人? とするとゴウンというのは何人もメイドを抱えているのかね?」
「はい。左様です――」ユリは紹介されたときの名前を思い出す。「――クロード様」
「ふーん。ちなみに君がもっとも美人かね?」
「……わかりません。美しいという評価は、それをつける人によって変わりますので」
奇妙な感情の入った相槌をしつつ、クロードの視線が再びユリの全身を嘗め回すように動く。
ユリはわずかに視線を伏せる。クロードの視線に含まれている感情はいうまでもなく理解できる。肉欲である。
十分満足したのか、クロードの視線はユリの胸の辺りで固定される。
「ちょっと聞いても良いかな?」
「はい、なんでしょうか?」
「自分が美人だということは否定しないんだ」
きょとんとユリが不思議そうな顔をした。
「……美人なのは間違ってませんですから」
何を当たり前のことを、とユリは断言するような口調で言う。
至高の41人によって美貌を持たされて生み出されたのだ。そんな自分が美しくないわけがない。それを否定することは至高の41人の美的センスを否定することに繋がる。
ただ、至高の41人に生み出された他の存在も、ユリと同じように美貌を持たされて生み出されているわけだ。そのため、自分の方が美しいと断言するのは、やはりその存在を作り出した至高の41人を侮辱する行為に繋がる。そのためあのような返答になったということだ。ただ例外的に至高の41人に直接言われた場合は、否定する可能性も有る。謙遜というものを示すという意味で。
そんなユリの心中を理解できないクロードが、今度はきょとんとした。いや確かにユリは美しい。クロードが抱いてきた女ではこれほどの美貌の女はいない。今まで自分が満足してきたレベルが何なんだ、と思ってしまうほどだ。
クロードが知る限りという範囲まで広めても、ユリの美貌に匹敵できるのはたった1人しかいない。
それは『黄金』といわれる女性だ。
ユリはクロードからすれば、それほどの美貌の持ち主と評価される。
そんな女が、他の者に関して自分の方が美しいと断言できない。それは遠慮によるものか、それとも本当に同じぐらいの美貌の持ち主がいるのか。
ごくりとクロードは喉を鳴らす。
こんな田舎に来るような仕事を受けて最悪だと思っていた。しかしうまく立ち回れば、かなり旨い目を見れそうだと。
再びじれたのか。アルチェルが苛立たしげに口を開いた。
「それで主人はいつ来るのかね?」
「もう、まもなくかと」
とは言ったものの、ユリはアインズがいつ来るか知らされていない。しかし、それを正直に言うことはデメリットしかないというのは馬鹿だってわかる。だからこそ、遅れて申し訳ありませんという謝罪の雰囲気を持って言う。
ただ、本音はちょっと黙ってろではある。
至高の41人のまとめ役である、そして最後に残った1柱。それほどの存在をそこまで急かすとは、温厚なユリと言えども内心、苛立ちを覚えてしまう。決して内心は表には出さないが。
「その台詞は先ほども聞いたよ。こんな場所で待たせた上に、いつ来るのか確実な時間も言うことができない。我々を――王家よりの使者を馬鹿にしているのかね?」
アルチェルの言葉には嫌味というレベルを通り越し、明確な敵意があった。実際、ここまで待たされた経験はない。いや、待たされた経験はあるが、それでも最高級の扱いを受けた上で待たされていたのだ。
草原の真っ只中、日差しを避けることも、飲み物も出ることなく待たされる。こんな経験は初めてであり、不快だった。額にわずかに滲む汗も、着ている服が張り付くような感覚も。
「……いえ、そのようなことは」
ユリが言い訳をしようと口を開きだしたとき、ログハウスの扉が開く。その一瞬だけ視界が揺らめくような、眩暈のようなものがアルチェルを襲う。しかし短い時間で終わるために、アルチェルは気のせいだと判断してそれ以上気にも留めない。
それよりはいま注意すべきは別にあるのだから。
「――お待たせして申し訳ない」ログハウスから出てくる者が言葉を発する。「私がアインズ・ウール・ゴウンという」
アルチェルもクロードもそちらを目にすると、絶句する。嫌味の1つでも言ってやろうかというアルチェルの思いは簡単に砕かれたのだ。
ログハウスからアインズ・ウール・ゴウンはアルチェルたちの方に普通の速度で歩いてくる。
最初に目を引いたのは羽織るように着用している純白のマントだ。それはアルチェルもクロードも目を見開くほどの一品。その下の服も金色を主に、細かな細工が入っている。
儀典官として幾度も仕事をこなしたアルチェルは、他国にも王国を代表して出向いたことがある。その儀典官のどんな仕事を思い出しても、いま目の前にいる人物が着ている服ほど立派なものを目にしたことはない。
異様なのは顔は仮面で隠しているために素顔をうかがうことはできない。それどころか手袋のようなものまで着用しているために肌を一切外に晒してなかったことか。
しかしそんなことはアルチェルからすればまだどうでも良いことの一環だ。
それよりも優先すべきことがある。
正直に認めるしかないだろう。どのようなときでも動揺にしないと自らを評価していたアルチェルは、アインズを前に度肝を抜かれていた、と。
アルチェルなど貴族にもなれば、服というのは素肌を隠すという意味以上のものを持つ。それはその人間がどの程度の地位を持っているかを簡単に説明するためのものだ。服を見ればその人間がどの程度の地位を権力、財力などを持っていると判断がつくのだ。
王であれば王にふさわしい格好が、平民であれば平民にふさわしい格好があるというわけだ。
ではアルチェルをして驚愕するような見事な服を着るアインズ・ウール・ゴウン。
彼はどれほどの力を持つのか。
アルチェルはアインズという人物が魔法使いだとは聞いてはいたが、どの程度の権力者として判断してよいのか迷っていた。
王国での魔法使いという存在は、社会階級的には高くは無い。これが帝国であれば生きる伝説といっても良いフールーダがいるため、かなり高くなるだろう。しかしそういった存在がいない――宮廷魔法使いのような一部の例外はいるが、そういった人物は同時に貴族としての地位も持っている――王国では魔法使いはある種の手に職のある存在と同等の階級におかれることとなる。
だからこそ、魔法使いのメイドであるユリに対して高圧的な立場で出ることができたのだ。社会階級的に低くなるために。
しかしながらアインズの纏う服は、自らが低い階級の存在では無いですよということを明白に語っている。単なる魔法使いではなく、それに何かが付随した魔法使いだった場合は、対応の仕方が変わってくる。
アルチェルは動揺から即座に立ち直る。いまだクロードが動揺しているところからすれば、かなり早い回復だ。
これは経験の差から来るものだろう。
「ふむ、君がアインズ・ウール・ゴウンか」
「そう……です」
アインズの静かな返答。そして互いに黙る。
アインズは内心の不安を必死に押し殺しながら、黙ったアルチェルを眺める。
何かの面接をしたことがある人間なら、この微妙な沈黙を感じたことがあるだろう。
アルチェルもまたアインズを伺う。自らの行動をどのように取るべきか決定するために。
アルチェルの仕事はアインズ・ウール・ゴウンに王の言葉を聞かせるのが第一ではある。同時に、同じ派閥に属する貴族からはどういった人物か。そして手元に取り込むことが出来るのかを調べるという依頼を受けていた。
だからこそアインズ・ウール・ゴウンという人物の内面を多少は知る必要がある。
そのための初手は威圧。水面に石を投げ込んで、その波紋を調べようという狙いだ。
「……そこにいたのに出てこなかったのかね?」
アインズはアルチェルが何を言っているか理解できなかった。
これは単純に知識の違いだ。アインズからすれば、ログハウスはナザリックの通り道だ。別にそこにいたわけではない。だからこそ言われた意味が分からないとばかりに、不思議そうな雰囲気を漂わせるのだった。
そんなボンヤリとしたアインズを前に、アルチェルは言葉が足りず、嫌味を言うことで罪悪感を感じさせようと狙いが外れたことを悟る。
もう一度同じ手段を取っても効果は薄い。そう判断したアルチェルは投げ出すように言った。
「ログハウスにいたのに出てこなかったのかね?」
「ああ! いやいや、ログハウス内には私の住居たるナザリックの内部に通じる通路があるんです。いまそちらを通ってこっちに来たのですよ」
「さきほどメイドが言っていた通路か……。さて私は陛下より派遣された儀典官。アルチェル・ニズン・エイク・フォンドールという。そしてあちらが――」アルチェルは戦士を指し示す。「――私をここまで警護してくれたクロード・ラウナレス・ロキア・クルベルク殿だ」
「はじめまして。ゴウン殿」
「これはお見知りおきを」
軽く頭を下げるアインズ。それを目に、アルチェルは内心頭を傾げる。
アインズの対応にはなんというか忠誠心の欠片も無いのだ。アルチェル自身貴族派閥に所属していることもあって、王にはさほど忠誠心をささげていない。しかしそれでも王の命令だといわれれば、それなりの演技――敬意を表するだろう。
そういったものがアインズから一切感じられない。平民だとしてももう少しは謙るだろう。他国の人間でもだ。
それよりは今までそういった権力とは関係の無い生き方をしてきたような姿。
同じことを思ったのか、クロードがアルチェルのすぐ横に寄ってくるとぼつりと呟いた。
「冒険者みたいですな」
ああ、とアルチェルは納得する。
力だけでのし上がろうとする、品位も高貴な血も無い、階級社会の鼻つまみ者。アルチェルのもっとも嫌いなタイプの存在に酷似している。そう考えればアインズという人物の格好も納得がいく。
一部の優秀な冒険者の所持金は桁が違う。どれだけかというと、アルチェルぐらいの貴族ですら相手にならないほどだ。
もしアインズ・ウール・ゴウンという人間がそれだけの冒険者だとすれば、これほど見事な服を持っている可能性も無いとは言い切れない。
そんな風にアルチェルが考えている間に、アインズはユリと話を始める。
「ユリ。先に戻っていなさい」
「し、しかし……よろしいのでしょうか?」
「ああ。歓迎の準備をしておきなさい」
「かしこまりました」
ユリは頭を下げると、ログハウスに歩いていく。その後姿を見送りながら、クロードが残念そうな声を僅かにあげた。その視線はユリの尻の辺りに固定されているが。
「では……陛下からの言葉を伝える前に確認をしたいのだが、その仮面は?」
「これは魔法的なものでして」
「外したまえ」
アインズは動きを止める。仮面を外した場合、その下にあるのはアンデッドの素顔だ。これを見せるわけにはいかない。だからこそログハウス内部に控えさせているデス・ナイトの出番だろうかと考える。あのときのガゼフと同じ手段でどうにかできるだろうかと考えて。
「……申し訳ないのですが、これを外すわけにはいかないのです」
「仮面を付けたまま、陛下の言葉を聞くと? それを少しばかり無礼だとは思わないのかね? それともその程度の礼儀すら知らないのかね?」
「いや、滅相も無い。仮面を付けたまま聞くというのは失礼に値するとは知っております。ですが魔法的な理由あってのこと。この仮面を外した場合、多くの被害が出るかもしれないので」
被害という言葉を聞き、アルチェルは眉を顰める。
実際、王から聞いた話ではアインズという魔法使いは仮面をつけているということ。その下が別人という可能性も無いわけではないが、そこまでの確認はアルチェルの仕事ではない。
仮面を外すように言ったのも、アインズという人物に対して優位に立ちたいという狙いだ。本当に外されて被害が出た場合、責任を上手く転換できる自信が無い。それにクロードに下手に怪我をされても厄介だ。
だから、アルチェルは言葉を引っ込める。
「……仕方が無い」
「ありがとうございます」
「……では陛下の言葉を伝える」
こんな草原、しかも墳墓の横でと思わなくも無いが、仕事は仕事だ。確実にこなさなくてはならない。
アルチェルは羊皮紙入れから丸められた1枚の羊皮紙を取り出す。そして蝋に王家の紋章が押されていることを確認させようと、両手で持ってアインズの前に恭しく差し出す。
それに対してアインズは手を伸ばした。羊皮紙を渡すつもりなのかと考えてだ。一応、相手が両手で持っているということを考えて、両手を差し出す。アインズの頭にあったのは名刺交換的なものだ。
これは別に外れてはいない。もしアルチェルがいなければそれが正しい作法だ。しかしながら儀典官という人物が一緒に来ているときは、これは非常に無作法だ。
「な!」
慌ててアルチェルは羊皮紙を引き戻す。何をする気だと驚いて。
同格もしくは上位の存在であれば手にとって開くのは普通だが、同格でないのであれば、間に1人挟むのが当然だ。こうすることで地位的に対等にするという狙いで。だからこその儀典官だ。
王国や帝国ではそんなことは無いが、国によっては王の言葉を臣下に直接投げかけないで、途中に王の言葉を聞かせる者がいたりするのもその一環だ。または王という地位に神聖な意味を持たせるという狙いもあったりするが。
「どうしましたか?」
アインズの不思議そうな声。
それを受けて、アルチェルは仏頂面を。クロードは若干面白そうな表情を浮かべていた。今の短いやり取りで、アインズ・ウール・ゴウンという人物がまったくといっても良いほどマナー――宮廷作法という知らないということを悟って。
他国になれば作法は当然僅かに変わってくる。しかしそれでもある程度は共通している部分が在る。それらを知らないというのは周辺国家の知識も皆無ということ。
つまりところ、アルチェルのアインズ・ウール・ゴウンという人物の評価は、礼儀を知らない蛮族などと同じというところまで落ちる。ナイフやフォークを使わずに、手づかみで料理のフルコースを食べるような。
着ている服が自分が買えないような立派なものだというのもアルチェルを不機嫌にさせる。
――なんでこんな者がこれほどの服を……。
アルチェルは気づかないが、自らの心の大元に在るのは嫉妬だ。礼儀作法を知らない蛮族とも思えるような相手が、自分の手が届かないような服を着ている。それが非常に不快なのだ。
自分よりもはるかに劣る者が、自分の恋人よりも非常に優れた相手を連れていたら、激しく嫉妬するだろう。そういう心の働きに似たものだ。
アルチェルの視線に見下すようなものが宿る。
アインズはアルチェルが何も言わないことに困惑を隠しきれなかった。
なんで、黙ったのか。
ミスをしたようなのだが、何がミスなのかさっぱり分からない。
――やはりセバスを連れてくるべきだったか。
王都で色々と動いたからこそ、状況がどのようになっているかわかるまでは隠しておこうと思ったのが裏目に出ている。今からセバスを呼んでも遅くないだろうか。
名刺交換の段階でミスをした営業の気分で、アインズはアルチェルを眺めた。
「陛下からの言葉を伝える」
アルチェルが先ほどよりも硬質な声でアインズに告げると、羊皮紙を広げる。
アインズは少しばかりほっとした。話が進んだことに対しての安堵だ。そんなアインズに冷たい声がかかる。
「……何故、膝をつかないのかね?」
一瞬だけアインズは何を言われたか分からなかった。
「聞こえなかったかね? 陛下のお言葉を伝えるのに、礼儀を示したまえ」
アインズはそのまま立ったまま、どうするかと迷う。
アインズの頭に浮かんだのは漫画とかアニメにありそうなシーンだ。そういったシーンでは王の前にいる者は片膝をついている。ならばやはり自分も膝をつくのが正しいのだろう。
膝を屈するというのは敗北的な意味合いで使われるが、この場合アインズは礼儀作法の一環だと考えていた。アインズ・ウール・ゴウンは邪悪を演じていたが、礼儀を知らなかったわけではない。礼儀作法として跪くのが正しいのならば、そこはすべきだろうという判断が浮かぶ。それにカーミラという強大な存在に対しての切り札になりかねない相手に、上からの命令はしない筈だ。
アインズはそう考える。
では何を思案しているのか。
単純に、付くのは漫画のように片膝を付くべきなのか、はたまたはリザードマンが平伏したときのように両膝なのか。礼儀作法ではどちらの方が正しいのか知らなかっためだ。
「……どうしたのかね?」
アルチェルの苛立ちを感じる声。
何をそんなに怒っているのか。ちょっとだけ面倒なものを感じながらアインズは結果、両膝を大地に付けた。イメージしたのは土下座だ。
アルチェルはため息を必死に耐える。隣ではクロードが鼻で笑っていた。教養が無いのだろうと思ってはいたが、これほど無い人間は珍しいと知って。
アルチェルは両膝をついたアインズを前に、いくらでも文句が生まれるが、もはやこれぐらいしないと話が進まないと考えた。知識無い愚者を相手に、自分の大切な時間を無駄にしてもしょうがないだろうから。
アルチェルは羊皮紙を広げる。そこに書かれていた王、自筆の文章を読み上げる。名代で無い部分にアインズという人物に対する重要さが読み取れる。
その読み上げられる話を聞いていたアインズは正直何を言われているのか分からなかった。非常に装飾過多であり、どんなナルシストが書いているのかと思ったほどだ。
貴殿の善良なる心情と神が授けた幸運が、蹂躙を待っていたかのごとき貧しき村に救いの手を与えてくれたことを感謝するとともにうんぬんかんぬん。
もっとすっぱりとはっきり書けないのか。そういう叫びが起こりそうな気持ちをぐっとこらえる。ほんの1分程度の文章ではあったが、英語のヒヤリングをしていたような疲労感がアインズを襲ってきていた。
最後に書いた王の名前を読み上げ、アルチェルが羊皮紙を巻き取る。
その間にアインズは書かれていたことをまとめる。
村を救ってくれてありがとう。お礼とかしたいから王都に来てね。
それだけだ。
アインズは疲労感を感じながら立ち上がる。膝に付いた汚れを払ってから、顔を上げると眉を顰めたアルチェルの顔があった。
「どうかされましたか?」
「いや……なんでもないがね」
絶対になんでもないわけが無い顔でアルチェルは言うと、羊皮紙をアインズに差し出した。
「…………」
「…………」
アインズはようやく今度は受け取ってよいのかと、羊皮紙に手を伸ばした。アルチェルが引っ込めないことを確認し、両手で再び受け取る。
「それで……それだけですか?」
困ったのはアルチェルだ。何をこいつは言っている。そんな表情でアインズを見る。
王からの手紙以上に何を求めているんだ、と。しかしアインズという人物は礼儀の無い人間。ならばどのような質問を持っていてもおかしくは無い。だからこそ尋ねる。
「……それ以上に何か?」
「……カーミラという存在について何かご存知ですか?」
幾らアインズでもこの微妙な空気は充分に感じている。
確かにこの世界の一般的教養や、貴族社会の決まりごとという物に関しては欠けている部分が多くある。しかし、元々ちゃんとした社会人として会社で働いていたのだ、完全な馬鹿ではない。
だからこそ何故、ここまで軽く見られているのかという疑問が滲み浮かぶ。
自分の重要性がわかっていての対応なのか? それとも知らなくての対応なのか? 自分――アインズがどの程度の存在だと知っているのか? 王国は切り札を持っているのか?
アインズはもう少し友好的に事が進むと思っていた。ナザリックひいてはアインズ達は王国内の人間を、どちらかといえば救っている方だから。それなのに何故、こんな敵意に近いものを向けられなくてはならない。
僅かに黒い炎が心の中で揺らめく。
全てが面倒だ。力で強引に物事を進めればどれだけ楽か。
そんな欲求はナザリックをより安全に維持し、将来の究極の――荒唐無稽な目標のために、アインズは抑えこむ。それでもカーミラという存在を知ってなお、アインズに対してそういう行動に出ているのかという疑問は尽きない。
「陛下に直接尋ねなさい」
知らないことは答えられない。しかし知らないと、自らが教養が無いと判断している者に答えるのは嫌だ。その心がアルチェルに微妙な答え方をさせる。
もしこれがもっと友好的に相手をすべき相手であればこんな答えはしなかっただろう。
王より伝え聞いたガゼフの話や、自らが前で会話した結果、アルチェルのアインズへのイメージはたった1つだ。強い力を持った蛮族。
教養が無く、知識も無い。脳みそがない分、手駒としては使える。
ある意味最悪の評価である。
「……では羊皮紙には王都まで来て欲しいと書かれていましたが、どのように王都まで行くのでしょう。魔法でですか?」
バカかこいつ。
アルチェルの瞳に宿った考えはたったその一言だ。常識すら知らないのかという感情が瞳に宿る。
「……馬車に乗ってだとも。あちらの馬車があるだろう?」
「あの紋章の付いた馬車で行くのですか?」
豪華な――王家の紋章が入った馬車にアインズの視線が向けられている。
アルチェルは本気でここに来たことを、そしてアインズという男の頭の悪さに嫌悪する。常識で考えればそんなわけが無いだろう。その程度も言葉にしなくてはならないのかと。
「……君の乗るのは後ろだ」
「あれですか……」
貧しく、ぼろい馬車だ。2つの馬車が並ぶことでより一層、両者の差を強く感じる。
どう贔屓目に考えても村を救った魔法使いとして――国賓級の扱いを受けて招かれるのではない。国賓級の出迎えならば紋章の入った馬車に乗るのは当然だろう。そうアインズは考えての先ほどの質問だった。しかし答えは違う。ならば馬車を用意したのは王家なんだろうから、結局はアインズをその程度としか見てないという判断まで行き着く。
「……私も馬車を持っているので、それに乗っていっても良いので?」
「陛下が好意で用意してくれた馬車には乗らないと?」
「……好意ですか」
本気で好意なのか? そうアインズは思うが、ぐっと堪える。
「……ならば仕方ないですね」
アンデッドのはずなのに頭が痛い。しかし王国という国の上位と関係を持てるようになったのだ。ここは我慢をして、これを機会に根を張れば良い。第一歩を踏み出したのに、この程度に我慢出来なくなってもしょうがない。
行くとするならナザリックから連れて行く者も必要だろう。やはり身の回りの世話をする人間は必要だろうから。
セバスは外した方が良いとして、メイドを何人かというところが妥当だ。
「……その前に出立の準備が必要です。少し時間をいただけないでしょうか?」
「これ以上、私にこんな汚い場所で待てというのかね?」
「…………」僅かにアインズの仮面の下の表情が凍りつく。「……もう一度お聞きしてもよろしいでしょうか? 少し時間をいただけないでしょうか?」
「これ以上――」
墓地という穢れた場所で王家の使者を待たせるというのはどういう考えだ。そういう言葉を告げようとして、その前に横からクロードの声が掛かる。
今まで静かに2人を見ていたのだが、ある目的に適いそうだと判断して口を挟んだのだ。
「――まぁまぁ。確かにゴウン殿の準備も必要でしょう。私の部下達も休ませたいですしね。ただ、その前に1つお願いが」
「何でしょう?」
「せめてもう少し落ち着ける場所が良いのですが?」
「なるほど」
アインズは周囲を見渡す。
かつて周囲に広がっていた毒の沼地に比べれば、はるかに過ごしやすい場所だとは思うが、確かに草原ではのんびり出来ないだろう
「ではナザリックの内部は非常に美しい場所があります。そちらで休まれると良いでしょう」
やはり墓場か。
そう眉を顰めたアルチェルにクロードはまぁまぁと声をかけた。
「今から出てもエ・ランテル到着までに時間が掛かります。それよりはもしよければ、ゴウン殿。今晩とめてもらえませんかな?」
「……まぁ構いませんよ。準備が忙しくてお相手できないとは思いますが」
「ふむ」
「まぁ良いではないですか。ゴウン殿の服装をご覧ください」
クロードの言葉にアルチェルはアインズの服を眺める。確かにその服装は非常に素晴らしい。いや、服装のみが、だ。
ならばそんな人間がどのような場所で暮らしているのか、少しばかりの興味もわいてくる。もしこれでみすぼらしければ、それはそれで笑い話の種になるのだから。
「はぁ、了解しました。ではゴウン殿、休憩の取れる場所まで案内してもらえるかな?」
「了解しました。では馬の方はログハウスの脇に繋いでおいてくれれば、あとで手のものをやりますので」
アインズはアルチェルとクロード、クロードの部下やアルチェルの身の回りをする者達をつれてログハウスに向かう。結構な大所帯となったが、アインズは別に気にすることも無かった。その奇妙な余裕がアルチェルからすると、不快に感じられる。
相手のどこかが嫌いになると、やることなすことがすべて嫌いになるというタイプの人間がいる。アルチェルはそういうタイプの人間だった。
アインズはそんな不満げな視線を背に受けながら、ログハウスの中に入る。そしてそのまま足取りを止めることなく、1つの部屋を開けた。
そこにあるのは巨大な姿見の鏡だ。外ぶちは金の輝きをもつ金属で出来ており、全面に渡って奇妙なルーンのようなものが細かく彫り込まれている。鏡はまるで水を凍結したように表面に曇りは全く無い。
これこそ転移門の鏡<ミラー・オブ・ゲート>と言われるマジックアイテムである。鏡はこの部屋に来た3者を移すのではなく、その向こうに別の光景を映し出していた。
「こ! これは一体……」
驚きの声を上げるアルチェルに、アインズは内心でチロチロと燻っていた憤懣が、僅かに鎮火していくのを感じる。とはいっても優越感を前に出したりするのは不味い。
「一体、これは何なのですかな?」
「マジックアイテムですよ。2点間を繋げる魔法の力を持っています。つまりこれで用いて転移を行っているということです。さぁこの中に入りますよ」
躊躇う2人に対して、アインズは先に足を踏み込む。そして鏡の光景の中にアインズが浮かぶ。
アルチェルとクロードは互いの顔を伺う。そして意を決し、クロード、アルチェルの順番で鏡の中に入る。
瞬時に視界が変わった。薄い皮膜に触れたと思って時には、別の光景となっていたのだ。
広がるのはまさに美としか形容できない光景だった。
王宮を、いや今までアルチェルが見てきたどんな光景よりも遥かに凌ぐ美しさだ。
アルチェルは呆気に取られ、言葉も出ない。
「こちらになります。応接室でまずは喉を潤してください」
アインズが通路にある扉を指す。扉の左右には非常に美しい2人のメイドが控えていた。1人はユリであり、もう1人は始めてみる顔だ。
アインズの言葉に見え隠れする優越感。それがアルチェルを不快にさせる。今まで自らよりも遥かに劣ると信じていた男にこれだけのものを見せられたのだ。劣等感が桁外れなほど刺激される。
「これほどの財を一体どうやって成しえたんだ」
硬質な声がアルチェルから出た。
「……仲間達と一緒にですが」
自慢というものを感じ取れるアインズの言葉。それはアルチェルの目を細めた。
富という物は無から生まれるわけではない。ある場所からある場所への移動だ。ではアインズ・ウール・ゴウンの財。それは本来であれば別の人間の下に行くべきものでは無いのだろうか。
「財を溜めているようだが、税金は支払っているのか?」
「はぁ?」
僅かにアインズの返答に苛立ちが含まれる。クロードが僅かに困った顔をするが、しかしアルチェルは気にしない。
「充分な税金を納めているのかと聞いているんだ。ここは王国の領内であり、王国の法律が支配する場所。その地で生きるなら収益に応じた税金を支払う必要がある。そしてこれほどの建物に相応しいだけの税金を支払っている者がこの辺りにいるという話は聞かないのだが?」
「…………」
「仲間と築いたという話だが、王国の領内にあるものを不当に占拠しているだけだと言い切れなくもないのではないか? この地が墳墓だとするなら、墳墓の所有者は基本的に王国、もしくは神殿に返るもののはずだ」
基本的に墳墓など墓場は公共のものであり、個人所有というのは滅多にない。勿論、墳墓の一区画を個人所有にするというのであれば当然あるが。
そして常識的に考えれば、アインズの話は考えれば考えるほど胡散臭い。
これほどの煌びやかな場所を個人的に作り出せることが出来るだろうか? ――否。不可能だ。
ではこれほどの調度品を人知れず集めることができるだろうか? これもまた否。不可能だ。
建築するための人手、これほどの調度品を集める膨大な金銭の流れ。そういったものを一切残さずに建造することができるはずが無い。
それらのことを考えれば答えは1つしか生まれない。
アルチェルは元々この墳墓の下には煌びやかな場所が隠されており、それをアインズという人物が不当に占拠したと決定づけていた。
つまりは王国の財産を不当な手段で横領しているのだ。
つまり踏み込んで考えれば、アルチェルの手に渡るだろう宝は、知られないうちにアインズが横から奪っていたのだ。
「不当の占拠であれば、それは――」
「――まぁまぁ、アルチェル殿。それぐらいで」
「…………」
クロードが横から止めに入る。
「まぁ、ゴウン殿。アルチェル殿の言うことも事実ですよ。不当な占拠と思われても仕方が無い状況が揃っています。ただ、まぁ、なんというか我々の心の内に留めても、まぁ、構わないのですが?」
贈り物で満足するだろうクロードとは別に、アルチェルの不満は今にも溢れんばかりだ。たとえ、何か凄い宝をもらったとしても、必ず、アインズが不利になるように行動してやる。
そうアルチェルは考える。
アインズの肩が大きく動く。上がり、それから力なく下に落ちる。
ぐうの音もでないか。アルチェルはそう考えた。しかしアインズの中に生まれたのはそういったものではない。
「――別に俺に関しての話ならば、どうでも良いんだ」
静かな声だ。感情という物を一切感じさせない、平坦な声。
「別に俺自身は大した者だとは思っていない。だから何を言われてもそうなのかなと思うし、侮辱をされても我慢できる。――しかしだ。お前達は俺の仲間が作ったものに対してけちを付けたな。……この俺の大切な仲間たちと一緒に作りだした、宝に唾を吹きかけたな! 糞共がぁ!」
アインズから吹き上がるのは、目で見えるような憤怒。
噴出すような感情の本流を感じ、一瞬、アルチェルもクロードも息を呑む。しかしながらいまだその表情に余裕の色はあった。それは自らが何の目的でここに来たのかという理由によるもの。そしてアインズが上で見せた従順な姿によるものだ。
王家の威光がある以上、たとえ礼儀知らずといえども何かできるはずが無い。そう考え、逆に今のアインズの行為に対してどのようなペナルティを与えるべきか考える余力すらある。
しかし、アルチェルもクロードも、そしてクロードの後ろにいた者たちも、自らの体が震えだしたことにようやく気付く。
広い通路が温度を急激に下がっていくような感覚に襲われたのだ。冬の到来のような冷気。しかし吐く息は白くは無い。つまりは感覚的なものにしか過ぎないと、判断するだけの時間が合っただろうか。
ぴたりとアインズの動きが止まる。そして懐に手を入れると、一枚のスクロールを取り出した。懐にそれほどのものを入れるスペースすらないのにどうやって、と疑問をアルチェルたちが思うよりも早く、アインズはそれを無造作に広げた。
「……死すら生ぬるい。この世界にあるのか知らないが、地獄まで連れて行ってもらえ。《サモン・モンスター・10th/第10位階怪物召喚》」
羊皮紙が燃え上がるのと、魔法陣が床に浮かびあがるのはほぼ同時だった。燃え尽きた灰の欠片が中空に掻き消えていく中、先ほどまで無かったものが広い通路を半分は占拠するようにいた。
伏せというポーズを取っていてなお、見上げるほどの巨躯がアルチェルたちに影をさす。
それは竜を思わせる長い尻尾が伸びた巨大な犬。その頭部は3つあり、燃え上がるような眼光が3対、アルチェルたちを見下ろす。それはケルベロスといわれるモンスターだ。
アルチェルたち、皆の背筋が凍る。
背中に氷水でも流し込まれたような、そんな感覚が押し寄せてくる。
化け物。
いや、そんな言葉ですら生易しいものの出現を受けて、動物の勘がわめきたてているのだ。戦士が武器を抜くということすら忘れてしまうほど。
アインズがモンスターを召喚した狙い。
それが理解できないはずが無いが、あり得ない信じたくないという気持ちがアルチェルの胸襟で沸き起こる。
王国に対して弓を引く行為。そんな愚かな行為をするはずが無いという、アインズからすれば都合の良いといわれるような気持ちが。
ケルベロスの横に立っていたアインズは、そんなアルチェルたちを一瞥すると興味を失ったように、踵を返す。背を見せたアインズに、後ろから恐怖のためにひび割れた声が掛かった。
「わ、私は陛下からの使者だぞ! そのような行為を陛下が許すと思ってか!」
その言葉こそが自らを守ると考え、アルチェルは叫ぶ。いまだこの状況下にあって言葉でアインズを縛れると判断したのだ。
ふう、とアインズは息を吐き出した。そして肩越しにアルチェルを見ると静かに、本当に静かに言葉を紡いだ。
「……だからどうした?」
そのアインズの言葉に含まれていた感情。それを鋭敏に感じ取ったように、召喚されたモンスターであるケルベロスはゆっくりと動き出す。
低い唸り声に満ちた感情は誰にでも分かるような、はっきりとした敵意。
「……好意や敬意を従属と勘違いしていたのか? ならばその勘違いの代価を支払え。そして愚かな主人に仕えた己の不運を恨め」
自らの切り札。それが容易く破り捨てられ、アルチェルは頭の中を真っ白にしてたたずむ。ようやくクロードたちが剣を抜き払う。しかし、本来であれば守るべきアルチェルの前に立とうというものは誰もいなかった。
今まで自信を持っていた鋼の輝きが、その魔獣と比べるとそのあまりの小ささに泣き出したくなるほどだった。
「待って欲しい! アインズ殿、謝罪を受け入れてくれないか? 我々は君の力を確かめるという意味で無理を言ってみたのだ! 君は合格だ! 陛下にしっかりと伝える!」
このままでいれば確実に命が奪われる。そういった必死の思いが、クロードに恐怖を乗り越えさせ口を開かせる。しかし、アインズの心を揺るがすには力が足りない。
「……残骸はこことエ・ランテルの間ぐらいの距離にばら撒いておけ。使者は途中でモンスターに襲われて誰もこれなかった。……そういうことだ。喰らえ、ケルベロス」
「本当に待ってくれ――いや、待ってください! ゴウン様! 本当に悪かった。やりたく無かったが、王からの命令だったのだ! なぁアルチェル殿!」
「……あ、ああ」
理性はクロードに賛成すべきだが、いままで蛮人だと評価していた人間に頭を下げるという踏ん切りがアルチェルは付かない。
しかしクロードからすれば、何を迷っているとアルチェルを殴り飛ばしたい気持ちに駆られる。今、命を、全てを握っているのがどちらか。それは言うまでもない。そしてクロードはまだ死にたくないのだ。
「アルチェル! ゴウン殿に謝罪を!」
必死の叫びにようやく、アルチェルは決心する。己の肥大していた傲慢を、恐怖がねじ伏せたのだ。
「も……申し訳なかった、ゴ、ゴウン殿。私が言いすぎたようだ」
不貞腐れた子供のような謝罪。クロードが顔を引きつらせたのも当然だろう。どう聞いても、本気での謝罪のようには思えないのだから。
しかし、そんな謝罪でもほんの少しは効果があった。
「……ケルベロス」
クロードの頭も、アルチェルの頭も瞬時に噛み千切れるという辺りまで移動していたケルベロスが、主人の声を聞き動きを止める。
その場にいたナザリックに属さない全ての者の顔に、ほんの少しの希望が浮かぶ。
だが、アインズはそれらを容易く閉ざす。
「――悲鳴と呪詛以外、もはや聞きたくないぞ」
後ろで凄惨な光景が広がり、絶望の悲鳴が聞こえる。鎧ごと肉体が食いきられる、想像を絶するような音でも、もはやアインズは振り向こうとはしない。
ただ、不快なために。
不快というが、別段、人の死体や殺される様が精神衛生上まずいということは無い。
アインズはこの体になってから、惨殺などの行為に忌避を感じない。好き好んでていうことは無いが、人が同族というような共感を覚えないためだ。それは邪魔な虫を殺すような感覚に似ている。気分よく眠っていたのに起こしてくれた、わずらわしい虫の足をもいで殺すような行為に罪悪感を覚えないのと同じことだ。
では時折見せるアインズの優しさは何か。
それは雨に濡れている子犬を見たときに、人の心に浮かぶようなもの。さまざまな余裕があれば、子犬に餌をやるかもしれないし、もしかしたら飼おうと行動するかもしれない。しかし、一瞥して通り過ぎたりもするだろう。そういうことだ。
ちなみにある村娘はこの第9階層を見てこう言った。
『こんな凄いところを作るなんて、お友達の方も凄い方だったんですね』
何の裏も無い無邪気な言葉。それがアインズの心をピンポイントで射抜いたのだ。
アインズにとって、かつての仲間達を褒められるということは非常に嬉しいこと。だからこそ気に入ったのだ。アインズ自身、ちょろいと自嘲して笑ってはいたが。
「ユリ。先ほど言ったように、残骸の回収を任せる。手が足りなかったら、誰か使っても構わない」
「畏まりました」
深々とユリは頭を下げる。その横にいたルプスレギナもだ。
それから持ち上げた2人の顔に何かに気づいた色が合った。瞳が僅かに動き、アインズ以外の人物を捕らえている。それを悟ったアインズは振り返った。
最初に視界に入ったのはもはや生きた人間がいない――いや人間という形が残っていない、血の海が広がる通路。その横に寄った、血に塗れたケルベロス。
そして次にアインズの視界に入ったのは待ち望んでいたものだった。
「良い香りです」
いつ来たのか。デミウルゴスが肉塊の飛び散る血の海に立っていた。いや、微妙に足は床には付いていない。その身は僅かに浮かんでいる。
「遅くなりまして申し訳ありません」
そして一礼。顔を上げたデミウルゴスの視線がアインズの服を眺める。それから微笑を浮かべた。
「アビ・ア・ラ・フランセーズですか? 非常にお似合いです」
デミウルゴスは世辞ではなく、心の底からそう思っていっているのだろうが、今のアインズからすれば不機嫌を強める言葉だ。
「それはどうでもよい。それよりもデミウルゴスに早速相談したい件がある。私の部屋に行こう」
「その前に。私がここに来るころ、アウラが表に出て行ったようですが、よろしいのですか?」
「ああ。それはアウラに頼んだ件を片付けに行ったのだろう。なんら問題は無い」
「かしこまりました」
「では、掃除を頼む」
ユリとルプスレギナ。2人の了解を受け、血の匂いが強く立ち込める場所を背に、アインズは無言でデミウルゴスを伴って歩き出した。