2018年08月08日

因果論の肯定は極楽信仰と変わらない

もう何年も前のことだが、ある時、コメントでこんな意見を頂いたことがある。
「あなたがブログで述べている日蓮とか創価の思想ってさ、結局のところ日蓮や創価のいうとおり信仰すれば、死後必ず救われるという極楽信仰と変わらないように見えるんだけど」と。

当時のわたしは、創価の教えるところの似非日蓮仏法とやらをほぼ妄信していたから、
「なにを言っているんだ、そうじゃあないんだがな。……けれども言われたことを検証してみると、確かにコメントされたことはそう的ハズレではいないところもあるんだよね……」などと考えた。

けれども、思想や精神性を鍛錬してきた今になってみれば、コメントしてくれた人の認識はほぼ正しかったのだと思っている。

仏教においてそもそも釈迦が否定した三世にわたる因果だとかを肯定するなら、創価や大石寺が宣揚してきた日蓮仏法なるものは、生きている今も極楽にいられるし、それに加えて死後も極楽にいけるという思想にすぎないということだ。

しかし、こんな思想は正しい仏教理解から見れば、ある種のユートピア論であり、単なるお花畑思想であり、「ありのまま」に生きるという仏教を極端に歪曲し、貶めた陳腐な思想でしかないのだ。
このように因果論を肯定することは、極楽信仰に陥りかねないということだ。

考えてみればいい。
祈りとして叶わざるはなしという思想を。
苦しものは苦しい、悩ましいものは悩ましいと「ありのまま」に見ることもせず、とにかく祈れば絶対によくなるんだ、変われるんだという誤魔化しを勧めていることなど容易にわかるではないか。
今ここをありのままに見もせず今を生きる、死んだあともありのままに見ず生涯をおくる。
そういう信仰態度は、生きている今も、死んだあとも、あるかどうかもわからない極楽を求めている迷妄信仰そのものではないか。

少なくとも、念仏を非とした日蓮が、そのような思想であったはずは、絶対にありえないだろう。
そういうことだ。したがって、日蓮は三世永遠の因果など肯定しているはずがないことがわかろう。

そもそも確実に存在する「今」を否定し、「今」に不満足を憶えて祈りを叶えたいとか、変わりたいと思っているなら、死ぬまで不満足で納得できない生をいとなむことになる。つまり生きながらの地獄道を歩んでいいるということだ。
そのことをもって、日蓮は念仏的思想を拒絶し否定したことなど、まっとうに思索できる人なら、容易に辿りつける答えだ。

だから日蓮は病気になった信徒に対して(どの題号の御書か失念したが)、
「病気になった今を契機に、あなたも病気が治る云々ではなく、このさい悟りの境地に達してみてはいかがですか?」と語りかけているわけだ。
それは、とりもなおさず、「今ここを、ありのまま」に受けいれることが悟りの境地だという日蓮の思想であることなど、容易に窺い知れるというわけだ。

まあ、創価思想や、似非日蓮仏法を妄信している人には、どんな論理的説明をしても無駄だろうがね。
マルクスが「宗教はアヘンだ」といったのは誠に正鵠を得ているというわけだ。
思い込みの権化になにをいっても無駄というわけだ。


時間論的因果論も、2、3度丁寧にここで説明したが、アヘン患者には理解できないのだろう。
なにもわたしが勝手にそういってる訳じゃなく、龍樹が『中論』で説いているという話だ。アヘン患者たちは、自分たちが龍樹より賢いとでも思っているのだろう。お可哀想に。他者から学ぶ機会を得ていながら、学ぼうとしない気の毒さよ。

いつまで経っても、弘安の大御本尊いっている人たちもお気の毒だ。
それは偶像崇拝だからだ。偶像崇拝とは、人間が作ったものを崇拝することだからだ。
この自然界には自然界の摂理や法則がある。その摂理や法則を人間ごときが完全に説き顕せるはずがないからだ。
よって歴史的にどんな貴ばれてきた本尊であろうと、聖遺物であろうと、それを信仰の対象にすることは偶像崇拝でしかない。
だから釈迦も涅槃経でいっているわけだ。自灯明、法灯明とね。
だからそもそも法華経の題号も、すべては空であり、断言できるものなど一つもない。すべては縁起によって勝手に起こってるだけだという意味の、「妙法蓮華経」になっているわけだ。

九識論だっていい加減な寄せ集めだ。そもそも論理の違う、識論に如来蔵思想を無理矢理に縫い付けたものじゃないか。いやそもそも法華経すら寄せ集めの経典ではないか。
後半部分は現世利益のために付け足された経典でしかないじゃあないか。
何にしても、無知ってのは恐ろしいものだ。それ以上に、知らずして思い込みで信じる恐ろしさよ。


ともあれ、M・ウェーバーの著作にはある種、一本の筋が通っている興味深い話でもしておこう。
彼の著作に、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』というのがあるのだが、これの論理は面白いのだ。

プロテスタントとは、カトリックとは対照的に、教会や司教や司祭の権威を認めず、信仰のよりどころを自己と聖書に求めたことは多くの人が知っていることだろう。
しかし、これにも問題があった。
聖書の記述にこんな内容があるからだ。
「救われる、救われないは、人の信仰心や志で決まるのではない、神の御心によって決まるのだ」と。

どこぞの誰かさんなど、虚無をやたら嫌っているようだが、キリスト教においてさえこういう論理があったことを知っておくといいだろう。

つまり、そうした聖書の文言を、プロテスタントの人びとは、こう解釈したということだ。
「救われようが、救われまいが、俺たちに出来ることは、真摯に真剣に信仰の道を行くことだけだ!」と。
実に潔いではないか。たとえ死して無になると知っても、俺たちに出来ることはより良く生きることだけだ。
プロテスタントの人びとは、正しく仏教を理解すれば必ず到達するであろう同じ境地に達したということだ。

そして、このような思想が社会活動にも生かされ、社会的に成功しようがしまいが、社会的功利を得られようが得られまいが、俺たちにできることは、とにかく真摯に真面目働くことだと考え、実際にそれを実行したがために、資本主義やこの世界は飛躍的に進歩したという歴史的事実があるというのが、ウェーバーの論理なわけだ。

どこぞの誰かさんなど、社会的に成功することだけが人生の目的だといった思考をしているようだが、このようなカトリック的、あるいはオーソドックス的キリスト教徒たちが、近現代や資本主義やこの社会を進歩前進せしめたのではないということを考えてみれば、結局、誰かさんのような、「功利主義や現世利益重視」の思想が、利益がないなら働きませんという人間の堕落を助長させてきたことなど、容易に窺い知れよう。

昨今のニュースを見たって、そういうことはわかる。
希望のない世の中になったから、将来性が補償されていない世の中になったから、今の若い人たちは可哀想だとか、今の若い人たちは希望が持てていないだとか云々、見事なまでに「功利主義や現世利益重視」がつくりだす世界を映しだしているではないか。


従って(ある人もそのように述べていたが)、日蓮が言ったところの、「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」といった文を日蓮の真意にそって解釈するなら、叶おうが叶うまいが、「今ここ」で「ありのまま」に、自分に出来ることを出来る範囲でやっていくために、すべては叶うと信じてやっていきなさい。キリストが復活したように、非合理的に思えても、自然現象では決して起こりえない奇蹟が起こるといった、そういう思いがなければ、この苦悩の海を渡っていくことはできないのだから、とでも言いたかったのだろう。

ところが、日蓮の書いたものを文字どおり自動機械的に解釈すると、迷信するアヘン患者や、妄信者や狂信者、はてはオカルト思想が生まれるというわけだ。

なににしたところで、利益がなければやらないとか、叶わないならやらないとかいう思考の底にどんな執着があるかをよく自分で見つめるのが大事だろう。

たぶんそこには、貧乏臭く、意地汚い欲望の虜になった己が見えることだろう。
そしてそういう己こそが、エゴに満ちみちた自分だというわけだ。


随分、脱線したが、M・ウェーバーは政治学の世界においても、「救われようが、救われまいが、俺たちに出来ることは、真摯に真剣に信仰の道を行くことだけだ!」と同じ本質を語っているというわけだ。

例え、政治というものが力や支配、ひいては暴力だと熟知していても、それでもなお、政治でもって人々を幸福に導くのだという志のある人間だけが政治家であるべきだと。
つまりこのウェーバーの論理は、政治が最終的に暴力であることを知ったうえで、それでもあえて、非暴力の政治道を行くんだという、凄まじい自覚と決意が必要だといっていると解釈してもいいわけだ。

結局のところ、いかなる分野であろうと、そのような「それでもあえて」という克己心や自己実現を目指すのが、人間にある使命であろうし、ある種の義務だとさえいっていいのだろう。

さて、その克己心に従って、まずは自分のことに努力している人は? と周囲を見れば、まあ、いない。
他人のことをあげつらって非難し、批判し、偉そうに批評して自己正当化している輩ばかりしか見えないというわけだ。

少なくともわたしは自己の信じるところを語っているつもりではあるがね。
誰かをひきあいに出して、自己正当化するなどという卑怯なことはしていないつもりだ。
誰から学んだ、誰それがこういってると引用はするが、それは致し方ないだろう。

そもそも、人間は何一つ創りだすことなどできないのだから、先達から学ぶ以外に方法がないからだ。
歴史という過去を見つめて、勝手に起こってることってさ、繰り返されてるところがあるよねと問うていく以外に、人びとのなかに共通感覚や普遍性を呼び起こさせる手段がないからだ。

法華経だってそういう解釈もできよう。
様々な如来や菩薩が現れるが、だいたいに於いて、彼らは過去と現在を会通し、それをもって未来をも予見しているのだから。
しかし、そういう過去・現在・未来の会通を三世永遠の因果論だとか、馬鹿げた見方をすると極楽思想に陥るというわけだ。

法華経にあるそういった会通は、過去の歴史を検証すれば、今なにが起こっているかはわかる。今起こっていることがわかれば、未来がどうなるかはある程度予測ができ、その予測をつかって、より良く生きるために知恵を働かせることもできると解釈すべきなのが当たり前だろう。
序品から方便品の流れは、まったくもってそのようになっているじゃあないか。
過去に素晴らしい教えが説かれた、そのとき、俺はそこにいた、お前もいたじゃないかと(弥勒と舎利弗)。するってーと、これから釈尊も素晴らしい教えを説くだろう!

そもそも、法華経で、未来に成仏が約束された菩薩なんかはたくさんいるが、その菩薩が実際にこのような名の如来になって成仏しましたという明確で実際的な記述がでてくるかどうか考えてみるがいい。
釈迦は未来の成仏の記別は与えるが、与えられた誰それが、のちに事実としてこのように成仏しましたなどという記述はありはしないのだから。
つまり、われわれに言えることは、過去から学び、今をよく見極め、未来をより良くする努力ができるのであり、より良くなると信じることはできても、良くなった未来を確実に知ることはできないし、必ずしも良くなるとも言えないということだ。

法華経にある三世観は、そのように解釈するのが正しい解釈であることなど、自明の理だということだ。
それを三世の因果を完璧に説いているから、成仏は間違いなしだとか思い込むのは勝手だが、そんなものはオカルトに過ぎない。


この動画はアメリカ版どっきりカメラみたいなものだ。

因果論や罰論をふりかざして、人を裁くような人たちには是非にも見て欲しいものだ。
どんなにネットで高尚な理論を書き並べられられようが、現実に差別にあったり、酷い目に遭っている人が目の前に現れたときに行動できるのか。大事なのはそこだ。

日々にツイッターで政治問題や差別やヘイトへの批判をいうのなんて簡単だが、実際その人がどういう人柄なのかという大切な部分は見えてこないってことだ。ネットなんてしょせんその程度だってことだ。

ipsilon at 07:31コメント(0) 

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