37歳まで童貞だった――ある「非モテ」の告白
平均的なセックスの初体験は10代後半とされるが、ジョセフさん(仮名)はそうではなかった。現在60歳で寡夫の彼は、童貞であることが非常に恥ずかしく、いら立ちを感じていたという。ジョセフさんが自分の体験を語ってくれた。
30代後半まで童貞でした。どのくらい珍しいことなのか全く分かりませんでしたが、それを恥ずかしく思い、人には言えないと思っていました。
僕はとても人見知りするし、不安を感じやすいのですが、孤立してはいませんでした。いつも友達がいました。しかし、親密な関係に発展することはできませんでした。
小学校から大学進学課程まで、周りには女の子や女性がたくさんいましたが、普通の人が通常するような女の子を誘うことは全くしなかった。
大学に入ると、その傾向はますます強くなった。女性と付き合えないとはおもっていませんでした。自信のなさと、自分を魅力的だと思ってくれる人などいないという気持ちが心の奥底にあったのが大きな理由です。
10代後半と20代前半ずっとデートしなければ、自分が心の中で「ほら、あの子はガールフレンドになったし、あの子もそうだった。そうだよ、お前を好いてくれる人はいるよ」と言えるような証拠が積み上げられません。それで、自分に魅力がないという考えが消えなくなり、強まっていく。
友達に相談したことはないし、聞かれたこともありません。正直言って、もし聞かれたら過剰に自己防衛的になったでしょうね。恥ずかしいという気持ちが強くなっていましたから。
人はセックスをしないと社会で見下されるということはないかもしれないけど、普通じゃないと少しでも思われたら、何か異常だと見られる可能性がある。
女性を「ものにする」ことへの文化的な投資がされていると思うんです。大人になることを扱った有名な歌や映画をとってみても、恋愛関係の始まりがテーマになっているものが多いし、一人前の男になるという文化的な「パターン」がある。フランキー・ヴァリが歌う「あのすばらしき夜」は、女性が少年を受け入れて男にするという感じになっている。
こんなことすべてが自分を恥ずかしい気持ちにさせました。
友達のほとんどには彼女がいました。付き合い始めてから、やがて結婚するまでを、傍観者として見ていた。そのことは私の心にポタポタと落ちてきて、自尊心を腐らせていきました。
当時は認識していなかったけれど、孤独でとても落ち込んでいました。性的な関係を持っていないというのが理由だったかもしれませんが、親密な関係が欠けていたこともありました。
今振り返ってみると、僕の母親や父親、姉妹といった家族以外では、15年間くらい、いや多分20年間、ほかの人に触られたり、抱きしめられたりすることがなかった。家族以外に肉体的な、親密な肌の触れ合いは全くなかった。だからセックスだけというわけじゃないんです。
誰か好みの人を見て、興奮したり快感を覚えるようなことはなかった。むしろ直感的な反応は悲しさと暗い気持ちだった。絶望的な感じでした。
断られるのを恐れる気持ちはなかった。自分の好意に応えてくれる人なんていないと確信していたから、断られるという可能性は関係がなかった。
自分の中の防衛機制だったのかもしれませんが、女性を誘うのは間違っているのではないか、強要しているのではないかと強く思うようになりました。女性を「利用」するような男には絶対ならないぞ、という気持ちでした。
女性が自由に日常生活を送って、夜出かけても誰からもアプローチを受けることなく楽しめるべきだと思っていました。
気に入った女性とはよく友達になりました。女性たちの多くは僕の恋愛感情に気付いていなかったでしょう。
当時、彼女たちは自分を求めていないと確信していました。今になって振り返ってみると、本当にそうだったのか正直分かりません。僕は自信という魅力を備えていなかったと思います。
女性に誘われたことはありません。もしそんなことがあったなら、うれしかったな! 女性から誘うことが、当時は今より当たり前じゃなかったかもしれません。
30代半ばから後半にかけて、体調がすぐれないほど気分の落ち込みが激しかったので、家庭医の診察を受け、抗うつ薬の処方を受けました。カウンセリングも受けるようになりました。
状況はそこで変わったんです。
まずカウンセリングで自分に少し自信が持てるようになりました。その次に、抗うつ薬が効いたと思います。内気を克服する薬としても多少効くんじゃないかな。
自分自身も若干成長しました。
ある女性をデートに誘うことができて、その後しばらく付き合いました。
最初のデートでは、不安で緊張していたのを覚えています。しかし、「これはいい。楽しいぞ」と思いました。なので、また彼女を誘いました。彼女は応じてくれて、関係は発展していきました。
最初のデートからわずか数週間で、セックスをしました。10代の失敗談はよくある話ですが、そう、僕はもう10代じゃない。どうするのか分かっていた。すごく楽しくて気持ちが良かった。初体験は良くないって言う人もいますが、良かった。
自分が童貞だとは彼女に言いませんでした。もし聞かれたら正直に答えていたでしょう。
その1年半後に、職場で妻と出会いました。初めて見たときから気になっていた。とても美人で愛らしい大きな目をしていました。夢見るような感じの。
直接誘いはしませんでしたが、共通の友人に頼んで、すでに相手がいるのか聞いてもらいました。彼女が縁を取り結んでくれたようなものです。
最初のデートの日は僕の40歳の誕生日で、1年半後に結婚しました。
彼女はとても素晴らしかった。
彼女が私を好きになってくれたのは幸運でした。彼女は完全で無条件の愛を与えてくれました。めったにないことです。私は幸運でした。
自分の性体験について話したとき、彼女は全面的に受け入れてくれ見下したりしなかったので、良かった。私たちは感情的にとても強くつながっていて、彼女に批判的なところは全くなかった。彼女と一緒にいるのはとても単純なことでした。
結婚生活は17年続きました。悲しいことに3年近く前に妻は亡くなりました。とてもつらかった。
彼女にもっと早く会えたらよかった、あまりにすぐにいなくなってしまったと、いつも感じています。だけど、私が若いころに出会っていたら、彼女は私に魅力を感じただろうかとも思います。
青春時代を振り返ると後悔の念が湧き起こります。起きなかった出来事を悲しむような感じです。私が手に入れられなかった愛おしい思い出、あるいは経験できなかったさまざまなこと。
若いときの恋愛がどんな感じなのか知らないし、異性と段階を踏んでいくのがどんなものなのか知りません。あの不確かな楽しい時間――感じるのは後悔です。
だから私のような状況に今いる人にはまず、本当に真剣に考えるべきだと言いたい。
もしそんな状況の人に気付いたら、手助けすることを考えるべきでしょう。それをどうやるのか、答えは持っていません。もし誰かが私がそうなのか聞いたとしても否定したでしょうから。だけど、気付ける立場の人はいるでしょう。
問題は、私がそうであったように、そういう人は目立たないのです。
薬物や刃物を使った犯罪、早期の性的行為といった、危険だとみられていることを若者たちがするのを私たちは気にしがちです。だから、何かしないのを心配することはあまりありません。
しかし、ガールフレンドやボーイフレンドがいたことが一度もない人が知り合いにいたら、欲しくないんだと決め付けるべきではないかもしれません。応援してあげてみてください。「どうして誰も付き合わないの?」と単刀直入に聞くのは多分よくないでしょう。誰かを誘うのは最初は誰でも不安なのだと説明して、励ましてあげるんです。
緊張するのも普通だけど、誰かと一緒にいたいと思うのも普通だと。これらの感情は人間性の一部だし、それを自分に許さなかったら、人間としての経験の一部を自分から奪ってしまう。
<カナダ・トロントで先月23日、アレック・ミナシアン容疑者が運転するバンが歩行者を次々とはね、10人が死亡する事件が起きた。ミナシアン容疑者はインボランタリー・セリベイト(Involuntary celibate、不本意の禁欲主義者)、あるいはそれを略した「インセル」と呼ばれるサブカルチャー集団への共感を示していた。ネット上で集まったこのような人々は、女性と一生セックスはしないと信じており、性生活で女性とうまくいかないのを女性のせいにすることもしばしばある。インセルのようなネット上の集団の存在をジョセフさんは心配している>
僕の一番の心配には、トロントの事件に集まった注目によって、愛する人をまだ探している人が悪いレッテルを貼られたと感じ、自分を恥ずかしく思うのではないかということがあります。
恋愛できずにいる人たちは人間関係が下手で、どこか変だという考えを、事件が助長するかもしれません。妻と出会う前も、出会った後も自分はまったく普通の人間だと感じていました。自分は変わらなかった。変なところなんて全然なかった。
愛する人が見つかっていなくとも憎悪に満ちていない人はたくさんいる。トロントの事件を起こした動機がなんであれ、それと人間的欲求を満たそうとする気持ちを一緒くたにしてしまうとしたら残念なことです。
愛されたり愛を見つけたりするのは権利や資格ではありませんが、それでも愛する人を求める気持ちは、人生で当然のことです。愛する人がいないのは誰のせいでもない。ただ状況がそうだというだけです。