法華経弘通の偉大さ

      『創価学会と日蓮仏法と活動』というブログに、「嘱累品」についての記事が掲載され興味がわきました。コメントしようと考えて、書き始めたところ、長くなり過ぎ、投稿するためには不適切と思われましたので、自分のブログに掲載することにしました。できれば、事前に当該記事を読んでいただければよく理解できると思います。

      ◇◇◇

      管理人さま、法華経に関して、誰もが思う疑問を記事にしていただきありがとうございます。

      植木訳の「法華経」は、大学時代に学生の身分にしては高価だったのですが、出版されてすぐ買い求めました。その後普及版も出版されたようですので、機会があったら注文したいと思っております。
      それ以来わたしは、法華経はもっぱら植木訳を基準としております。このような優れた研究が、創価内でも採用されることを願うばかりです。偏向なく公平に、優秀なものは採用し向上の糧にしていただきたいというのが、賢明な会員が考えることではないでしょうか。
      管理人さまの思考過程は当然のものと思います。よく熟読されており、疑問をおろそかにしない姿勢に学ばせていただきました。日蓮の御言葉を引用するまでもなく、「学」こそ信仰者の実践の芯になり動機になるものと常日頃感じておりますが、会員の間では、その意欲も減退しているように感じられ、会則変更や教義の深化に対する問題意識や情熱も劣っているように思います。
      普及版が出版されたとき、ほとんど同時に、対談「ほんとうの法華経」(ちくま新書)も出版されました。読まれましたでしょうか?
      この本は、法華経訳本とセットになっていると考えたほうがよいと思います。この対談の相手である橋爪大三郎氏は知られているように著名な社会学者であり、宗教にも強い関心を持ち、対談相手として申し分がないように思います。法華経に関して、新しい知見を展開している植木氏に、質問したいことを質問しているというふうな初心者的趣きもあって、植木氏から納得する回答を引き出しているところにおもしろさがあります。いくら訳本でも原典を理解するのは難しく、卓越した熟達者の解説が必要です。また、法華経は最良の信仰者のためのラーニング経典とも言えるでしょう。
      嘱累品第二十二」で本来は終わっているはずの法華経も、その後の六品を加えることによって法華経全体の主題と論点に曖昧さが逆に追加されたようにも思います。管理人さまが指摘されるような疑問が起きるのは当然ですが、法華経の内容の重要な意味も明らかになるような気もします。法華経に一切の無駄はないということと、考えれば考えるほど深い意味があるということです。
      法華経は、弘教する法と弘教する人間が揃わなければ、結局は弘教できません。弘教する人間がどのような人間なのか、法を付属する意味はそこにあると思いますが、別付属と総付属の二通りの違いがなぜ必要だったのか、その相違を知ることによって、釈尊滅後の法華経弘通の偉大さと困難さが明らかになります。

      わたしが説明するよりも、「ほんとうの法華経」から引用します。
      植木:神力品では、お釈迦さまが久遠以来教化してきた地涌の菩薩に限って付属されました。しかし、地涌の菩薩以外の菩薩たちが取り残されています。そこで、彼らに嘱累品の冒頭で付属がなされます。中国では、前者が本門の教えによって化導され、後者が迹門の教えによって化導されてきた菩薩という意味で、それぞれ本化の菩薩と迹化の菩薩と言われます。また、前者が特定の菩薩に限定して付属され、後者が総体的に付属されていることから、それぞれ別付属と総付属と呼ばれました。
      橋爪:でも、その解釈の根拠は、経典のどこにも書いてないじゃないですか。
      植木:そういう言葉はありませんが、話の内容から分類したということでしょう。
      橋爪:具体的には、釈尊が右手を取っていますよね。《それらのすべての菩薩たちを一まとまりに集合させ、神通の顕現によって完成された右の掌で、それらの菩薩たちの右手をとって、その時、次のようにおっしゃられた》とあります。「それらのすべての菩薩たち」というのは誰ですか。ここには地涌の菩薩は入らないんですか。
      植木:地涌の菩薩の付属はすでに終わっていますから、入る必要はないと思います。
      橋爪:では、地涌の菩薩以外のすべての菩薩、ということですか』


      何を付属したのか。
      橋爪嘱累品って短いですよね。四頁しかない。ここでは、何を付属したんですか。(中略)ここは、法華経を弘めることを付属していませんよ。釈尊はここで、阿耨多羅三藐三菩提を弘めることを付属していますが、法華経以外の経典にも、阿耨多羅三藐三菩提は出てきます。ここでは、何を付属したのかわからない。上行菩薩に付属した内容と、善男子に付属した内容は違うんですか。
      植木:法華経の弘通ということでは同じだと思います。その内容は、別付属では、(中略)すべてのブッダが獲得した究極を要約した法門、すなわちエッセンスを弘通することを付属しています。それに対して、この総付属では、「この上ない正しく完全な覚り(阿耨多羅三藐三菩提)」の弘通を付属している。抽象的な表現で、その具体的内容がわかりにくいのですが、次に《この如来の知見と卓越した巧みなる方便に達して、この如来の知見と卓越した巧みなる方便を求めてやってきた》人びとにこの法門聞かせるべきだとあることからすると、巧みなる方便によって弘通することを付属しているように思える。
      橋爪:ということは、別付属と総付属では、内容に違いがあるということですね』


      菩薩が弘める法華経の違いはどのようなものか。
      橋爪:同じ法華経でも不惜身命で頑張って弘めなさいというのと、相手の能力を考慮して巧みなる方便を用いて弘めなさいというのでは、違うじゃないですか。地涌の菩薩のほうが、ハードルの高いことを付属されているんですか。
      植木:そうなりますね。地涌の菩薩の場合は、一番困難なことを付属されています。これまで、滅後の弘教を名のり出た人たちを整理すると、①自ら「サハー世界(娑婆世界)以外で」と条件を付けた人たち、②国土を指定せずに弘教を誓った人たち、③サハー世界で弘めると言ったけども、釈尊に退けられた人たち、④菩薩たちを退けた後で呼び出された地涌の菩薩たち――といった四段階にまとめられます。後になるほど、困難な条件を担うことになります。
      橋爪:地涌の菩薩が法華経を弘めるのは、娑婆世界ですか。
      植木:はい。①の菩薩は、「ただサハー世界以外で」と自分で条件を付けていたから、サハー世界以外ででしょうね。③は他の世界からやってきた菩薩ですが、サハー世界で弘めると言って退けられました。もとの自分たちの世界に戻るしかないでしょう。
      橋爪:じゃあ、地涌の菩薩と、その他の菩薩では弘める場所が違う。後者のほうが、軽めの任務なんですね。
      植木:そうなりますね。中国では、地涌の菩薩と、他の菩薩を区別するのに、弘教を担当する時代にも違いをつけました。それは、正しい教えが存続している正法時代、正しい教えが形骸化した像法時代、正しい教えが失われてしまった末法時代の三つです。後のなるほど悪条件になります。時代と世界の違いを合わせると、サハー世界の末法時代がもっと厳しく、次にサハー世界の正法・像法時代、次はサハー世界以外という順になるかと思います。従って、地涌の菩薩は、末法におけるサハー世界を担当するということになります。
      橋爪:でも、ちょっと苦しまぎれな感じがしますね。法華経の本文を読む限り、そう考えなきゃいけないというわけでもない』


      時代を経過すると宗教哲学も細分化をまぬがれず体系化していきます。滅後の時代区分はその典型ですが、地涌の菩薩の使命を強調するために、困難さのレベルを最高度に設定します。不幸なことは、そのような時代区分の根拠が宗教特有のものであっても、不思議と時代相を反映していることです。たとえば、武器や暴力といった生命否定の道具や手段が、精緻を極めて高度に発達。最終殺人兵器・核兵器の恐怖に喘いでいる現実は、仏教の時代区分とリンクしているでしょう。他者への慈しみと、他者との平和的関係が失われる時代なのです。
      また、本化と迹化の菩薩も、娑婆世界に共存共生していると考えることも可能です。妙法を中心軸にして、より近いところに地涌の菩薩のポジション、その外周をその他の菩薩のとりまく世界を想像できます。他宗教や無信仰の人々でも、菩薩的生き方をしていらっしゃる方は多くいると思われます。「自解仏乗」と説かれるように、高度な知性と献身的な行動にあふれた尊敬できる人々は、案外身近に存在するかもしれません。全体と部分という見方を敷衍すれば、たとえ部分観であっても妙法を活かす方法であるなら、社会変革の十分な動機になりえる力になるということです。迹化から本化へ、本化から迹化へ自由に行き来し、方便が秘妙方便と開かれるように、本と迹の共同行動が、真の平和を創造できるパラダイム転換になるかもしれません。他宗教の者であっても偏見や固定概念で判断しては、可能性の芽を摘むことになります。
      引用した文章の最後に、橋爪氏が述べているように、法華経には柔軟性があると思います。読む人によって、感じ方に相違が出てきて、答えが決してひとつではないというところに、人間とその行動を信じた肯定的な信頼感が醸成されます。万人性と謳われる所以です。そして、一時的に拒否しても、やがて法華経の万人を受け入れる包括性に、次第に魅かれていくことでしょう。日蓮仏法も法華経があればこそですが、解釈の多様性は、日蓮に固定的に依拠するものではないように感じております。また、学術的アプローチだけでなく、信仰者としての実践的チャレンジによって個人の生活上、あるいは社会への貢献を通じて、法華経の深いアダプタビリティ(適応性)と受容力がクローズアップされる時代が来るかもしれません。

      右手を取るのは、インドの習慣も影響しているかもしれませんが、詳しいことは推測する以外にありません。でも、誰かを励ますとき、手を取り、瞳を見つめ、相手を揺さぶるように、励ますのではないでしょうか。仏が全菩薩に法を付属し、「頑張るんだよ」と励ましている様子を思い浮かべることができます。手を取り合うことは、とても人間的行為であり、連帯を感じることでもあり、相手を気遣うことでもあり、決意を伝えることでもあるのです。うれしいことがあれば、手を取り合って祝意を伝えるのではないでしょうか。また承諾の握手でもあります。少なくとも、前向きの親愛の情感を伝える行為ではないでしょうか。
      頭に手を乗せる行為も、親が子どもを養育するような優しさがあります。菩薩の優秀さは釈尊の自慢なのです。親が子どもを自慢するような慈愛があります。法華経はとても人間的な経典なのですね。
      また、法華経には直接的な表現を避けている場合もあり、なぜそのような表現になったのかを推測する必要もあると思います。社会的背景や法華経を説くことの制限もあり、抽象的、あるいは思わせ振りな表現も必要だった背景を考えなければならないと、植木氏は述べております。このような言葉の制限は、第二次大戦時の牧口先生が、個人的な手紙をはじめ講演や指導、行動の意味をストレートに伝えることができない制約があったことを思い出させます。
      混乱と統制の時代に、法を弘める困難さを考えなければなりません。平和な時代にあって、命も危ぶまれる社会の脅威を想像することは知識としてはあっても、痛みをともなう実体験としての感覚を想像することは難しいように思います。法華経の流布は、傑出し忍耐強い菩薩でなければ、社会に広く安定して説くことはできないということを示しているように思えます。創価は強い使命感が薄らいでいるように感じておりますが、リーダーの不在はやがて、法を説く喜びと感動の不活性化、イベントの慣習化へと転落し、儀式化することでしょう。


      以前、大乗非仏説の記事も読みました。大乗非仏説か、非大乗非仏説かという二者択一のような問題設定の仕方は、ほぼ一般的な問題設定でもありますが、わたしは、法華経は釈尊と菩薩の師弟の共作のように思えて仕方ありません。その根幹となる思想は、万人に仏性を認める仏のものですが、しかし実際に経典の一字一句を書き表していったのは、実践に裏付けられた弟子たちの努力があったのではないでしょうか。事理に訳せば事の法華経は弟子が担うということ。植木氏も、法華経を説く一団は、非主流派であり、迫害を受けたと書いております。不軽菩薩は誰でもない、実際に法華経を説き苦難に襲われた弟子たちのことなのだと考えるようになりました。そしてきっと、乗り越えたのでしょうが、そのような苦労があっても、長い間に腐敗し衰退をまぬがれませんでした。純粋さに不純が混ざり、許容できないところまで変容していくプロセスは、時代や地域に関係なく方程式のようなものです。法が普遍的でも、安定し永続的に続いていく集団や組織は皆無なのです。


      長文になっても書く意味が十分にあると勝手に思いました。
      信仰の真実と喜びを開拓できれば、人間としても成長できるのではないかと、求道者の姿勢をいつも考えます。苦難に挑戦する姿勢こそ、法華経が伝えたかったことなのかもしれません。
      創価のなかでも友好的で有意義な対話ができることを、お祈りしております。



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