神戸港を出た「笠戸丸」が約2万キロの航跡を刻み、サントス港へ到着したのは、今から110年前の1908年6月。「希望の大地」を目指したブラジルへの第1回契約移民781人のうち325人が沖縄県出身者だった。

 5日、サンパウロ州ジアデーマ市の沖縄文化センターで「ブラジル県人移民110周年記念式典」が開かれた。県系社会の礎となった1世らをしのぶ慰霊法要のほか華やかな祝賀パレードもあり、先人が伝えたウチナーンチュの心を未来に引き継ごうとの思いを新たにした。

 日本有数の移民県である沖縄は、戦前・戦後を通して多くの県人を海外へ送り出した。生活の基盤を海の向こうに移さざるを得なかった背景にあったのは貧困だ。

 県交流推進課がまとめた2016年度推計によると、世界のウチナーンチュは41万5千人余り。うち約16万3千人がブラジルに暮らし世界最大の県系社会を築いている。

 11年、初のブラジル公演で県系人の大歓迎を受けたBEGIN(ビギン)が、帰国後書き下ろした「国道508号線」にこんな歌詞がある。

 〈白いトラックをが待ってるぜ 家族 親戚 県人(けんじん)会(くゎぁい) 走るぜ508号線 国道508号線よ〉

 家族や親戚のように頼れる県人会は、すぐれて沖縄的組織といえる。気候も言葉も風習も違う異国では、ルーツを大切にすることが、困難に立ち向かう大きな力となったからだ。

 県系社会の発展は県人会抜きには語れない。

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 ブラジル沖縄県人会の前身である「球陽協会」は1926年に設立された。

 当時、コーヒー園での労働は過酷で思っていたほど収入も得られず、夜逃げする人が続出した。もともと数が多かった県人は逃亡者が多いように見られ、日本政府が沖縄県人に限り移民を禁止したのである。

 この時、差別的措置に抗議したのが球陽協会で、県系人一丸となった訴えによって禁止の解除を勝ち取った。

 その後も県人会は移民一人一人の心の支えとなり、沖縄コミュニティーの核として機能してきた。

 今、県系社会の中心は3世、4世に移っているが、三線や空手、エイサーといった沖縄文化への関心は高い。アイデンティティーのよりどころである文化や芸能は親から子へ、子から孫へと引き継がれている。

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 県系人1万6千人余りが暮らすアルゼンチンでは8日に、7千人近くが住むボリビアは12日に、移民110周年式典が開かれる。

 忘れてならないのは、戦後、破壊し尽くされた郷土沖縄の行く末を案じ、いち早く救援の手を差し伸べたのは海外移民の人たちだった。ブラジルなど南米からも多くの物資が届けられた。

 県の沖縄21世紀ビジョン基本計画には「世界のウチナーネットワークの強化」が盛り込まれている。

 移民の歴史を後世へ伝え、先人たちが紡いできた絆を太く大切にしていきたい。