山小人(ドワーフ)の姫君 作:Menschsein
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エ・ランテル。冒険者組合長の執務室。その主であるアインザックの仕事は一向に進んでいなかった。
プルトン・アインザックは、かつては優秀な冒険者であった。壮年となった現在でも、その体と眼光に宿している覇気は衰えていない。冒険者組合に出入りする荒くれ者の冒険者も白金程度であるなら、アインザックが一睨みするだけで借りてきた猫のように大人しくなる。
冒険者は引退しているが、現役さながらの気迫を持つ。それは、アインザックが冒険者組合長となることができた要因の一つでしかない。アインザックが冒険者組合長となった最大の理由は、総合的な実務能力である。
エ・ランテルでかつて活躍した冒険者パーティーのリーダー。ラナー女王が冒険者組合の報酬規定などを整備する前は、冒険者への依頼など虚偽の情報が記載されている場合が多かった。表面上は採取依頼であるが、実質的にはその採取場所周辺に巣を作った魔物の集団の討伐依頼である場合などが多くあった。数日で終わるような簡単な依頼のはずなのに、エ・ランテルに二度と帰ってくることがなかった…… そんなことがアインザックが現役の頃は多かった。
アインザックは、チームリーダーとして情報収集に長け、生き残ってきた。アインザックの頭と体には、冒険者としての経験が染みこんでいる。薬草各種の適切な採取時期、魔物の繁殖期、雌の魔物が凶暴となる子育ての時期。どの魔物がどのような場所に生息しているか。
長年積み重ねられた経験則、冒険者の間で流れている情報、そして舞い込んでくる依頼。それらを総合的に判断して、アインザックは組合長として依頼のランクを決定していた。エ・ランテル周辺での依頼ということに限定すれば、依頼の難易度と報酬、リスクとリターンの精度は極めて高い。危険な依頼は、高いランクの依頼へと振り分ける。そしてそれが正確であるので、アインザックは、冒険者からだけではなく、護衛対象となる商人からも信頼も厚い。去年よりも護衛の依頼料が高いけど、まぁアインザックさんの判断だし、金を惜しんで命を惜しまないのは愚かだ、など依頼者側もアインザックの判断を信頼し、納得をしてくれる。
そんなアインザックの仕事は早い。依頼にも鮮度が重要ということを理解しているからだ。依頼の難易度の設定に時間を掛ければ掛けるほど、不測の事態が起きる可能性は増大していく。大概の依頼書は即断即決。長年の経験から、即断即決を躊躇う依頼などは、組合に来ている冒険者などから情報収集して、当日中に掲示版へと貼り出される。
そんなアインザックが、一枚の依頼書を机においたまま、ずっと腕組みをして天井を睨んでいる。それも、数時間も悩み続けて答えは出ない。
この依頼書は、組合長権限で却下するか……? だが、アダマンタイトからアダマンタイトへの名指しの依頼。それを却下するなど、古今東西例が無いな……。
組合長の机の上に置いてある依頼書の依頼主は、蒼の薔薇チームリーダー、ラキュース・アルベイン・デイル・アインドラ。やっかいなことに、王国の貴族でもある。
そして指名されたのは、“漆黒の英雄”モモンとその仲間、美姫ナーベ。
<都市リ・ブルムラシュールの真東のアゼルリシア山脈で、吸血鬼《ヴァンパイア》を発見。十三英雄の英雄譚《サーガ》にある“国堕とし”と外見が一致。“蒼の薔薇”と共同での討伐を依頼>
モモン君が追っかけているという吸血鬼《ヴァンパイア》の片割れである可能性が高いだろうな、とアインザックは思わざるを得ない。
どこの国からやって来たのかも分からない、この辺りでは珍しい黒髪のモモンとナーベ。モモン君が言っていたように、彼の旅の目的というのは、二体の吸血鬼《ヴァンパイア》を滅ぼすことだろう。モモン君はその過程で冒険者になったに過ぎない。エ・ランテルにやって来たのもの、ホニョペニョコという吸血鬼《ヴァンパイア》を追ってのこと。
かつてならば、即座にモモンを探し出し、吸血鬼《ヴァンパイア》の片割れを発見したという朗報をアインザックは伝えていただろう。“国堕とし”という伝説とも言える名を聞いても、モモン君ならば、という安心感はある。
しかし、今ではそれをアインザックが躊躇うのは、このエ・ランテルの状況だ。自らの目的を後回しにして、このエ・ランテルの人々と魔導王の間に立っていてくれている。
この依頼書をモモン君に渡した場合、モモン君はどう反応するのだろうか。
まずは、魔導王の統治を見極めてからにしましょう、と言ってエ・ランテルにこのまま留まってくれるか。
それとも、一時的にエ・ランテルを離れ、討伐に向かうと言うのだろうか。
討伐が終わったら、モモン君の旅の目的は終わるだろう。そうした場合、またエ・ランテルに帰って来てくれるのか? 彼にも故郷があるはずだ。そこに凱旋するのではないか?
モモン君にこの都市は救われた。これは揺るぎない事実だ。英雄と言われてもおごること無く、誰に対しても誠実に対応してくれる。“漆黒の英雄”モモンという冒険者として、人間としての器を目の辺りにして、自らの言動を改めた冒険者も多い。
屈指の実力を誇り、人格的にも優れ、エ・ランテルの住人は彼に対して多大な恩義がある。
この依頼書を、モモン君に渡すべきだ。アインザックの良心はそう訴える。
しかし、彼が一時的にであるにせよ、このエ・ランテルから離れるというのは、悪夢であると言って良い。
この都市には“漆黒の英雄”モモンがいる。いざとなったら、かの魔導王から住民を守ってくれる。そんな思いを抱いて、不安ながらも生活している住民が多いはずだ。いや、エ・ランテルの住人全てがそうだと断言してもよいくらいだ。精神的支柱であるモモン君が、都市を離れる。その影響は計り知れないし、悪い方にしか転がらない。“漆黒の英雄”モモンが、エ・ランテルにいて、魔導王の動きを絶えず監視しているということが重要だ。
トン・トンと、冒険者組合長の部屋の扉から扉を叩く音が聞こえ、間もなくして扉が開かれる。部屋に入ってきた人物は、エ・ランテル都市長パナソレイ・グルーゼ・デイ・レッテンマイアであった。息が荒く、顔から噴き出ている汗をハンカチで拭きながら部屋に入ってきた。
「フー。遅くなってしまった。それで、緊急の用件とはなんだね?」と、パナソレイはドシンとソファーに座った。ソファーに使われているウッドフレームがパナソレイの体重で悲鳴を上げた。
「この依頼書の件だ」
依頼書を一読したパナソレイは、「どうしてこの時期なんだ……」と、頭を抱え始める。
パナソレイの反対のソファーに腰掛けて、「まったくだ」とアインザックも天井を眺めながら呟いた。