王都-13
「さてと」
ツアレを拾ったところまで来たセバスは厚い鉄の扉に向き直る。扉は木に鉄板を両側から打ちつけ、さらに真ん中にも別の金属をはめ込んだ重厚なものだ。人が道具も無しに破壊するのは困難だと、一目瞭然で理解できるほどの。
セバスはノブを掴み、捻る。
途中で回した手は止まる。こういう店なのだ。当然、鍵が掛かっている。
「鍵開けは不得意なのですが……仕方ないですね。私なりの鍵開けといきましょうか」
セバスは困ったように呟くと、ノブを再び捻った。もしこの光景を見ている者がいれば、単にノブを回したんだろうな。そんな風に思えるほどの軽やかさだ。そこに不自然な力の入り方は無い。
しかし、そこにかけられた力。
それを測定したらどの程度のものになるだろうか。恐らくは人間では決してでないようなほどの力が込められていたのだろう。
金属が無理矢理曲げられる音が響き、耐え切れなくなったノブと鍵が大きく歪み、破壊される。そのままセバスは扉を開く。引かれた扉をそれで終わることなく、セバスはそのまま力を込めた。
蝶番が悲鳴を上げ、壁から別れを告げる。
かなりの重量があるだろう分厚い扉が――防御を考えて作られているはずの扉が、人間の常識外の力を受けて引っこ抜かれたのだ。
「なん! ……だ……?」
扉の直ぐは通路になっており、その奥の扉から顔を出した髭の生えた屈強な男がその光景を見て絶句した。
それは当然だ。
分厚い扉を片手に持っている老人がいたら、誰でもそんな表情を浮かべる。特にその扉の重量を知っている者ならなおさらだ。
「錆びてるのか、開きづらかったですよ? 来客のことまで考えて、扉には油を差しておいたほうが良いかと思いますね」
セバスはそう男に声をかけると、手に持った扉を後ろに放る。セバスの手を離れるまで、まるで紙か何かの重さしか持たないようだった扉は、空中で元々の重さを取り戻し、地面に落ちる時には騒がしい音を周囲に響かせた。
男は完全に惚けていた。
その間にもセバスは家の中に進んでいる。
「――おい、どうしたんだ?」
「――今の音は何だよ!」
男のいる後ろから別の男の声。
ただ、セバスを直視している男はそれに反応することなく、セバスに声をかけた。
「……ああ……い、いらっしゃいませ?」
完全に混乱に陥った男は、セバスが目の前まで来るのをぼっと眺める。元々こういうところで働いている人間だ。暴力には慣れており、色々な事態に対処するだけの覚悟は出来ている。しかし、目の前で起こった光景はあまりに常識から逸脱していた。
後ろから男の仲間が問いかけてくるのを無視して、男は媚いるようにセバスに笑いかける。生存本能が媚いることが最良だと考えたためだ。
いや、ここに来ている客の1人に仕える執事だと、必死に自分を騙そうとした結果かもしれない。
髭面の男が頬を引きつらせた顔で、必死に愛想笑いを浮かべるのは、あまり見栄え的にも良いものではない。
それはセバスにしてもそうだった。
セバスは微笑む。
優しげであり、微笑ましいものである。
しかしその目に宿る感情は好意的なものは一切なかった。
「退いていただけますか?」
ドガン。
いやゴバァン、だろうか。
人間が大きく吹き飛んだ、その際に上げる音というのは。
屈強な成人男性1人。それが武装しているのだ。全体重で85キロはゆうにあるだろう。
それが中空で冗談のように回転しながら、目にも留まらぬような速度で横に吹き飛んだのだ。男の体はそのまま壁に激突し、水の弾けるような音を盛大に立てる。
巨人の拳が家屋に叩きつけられたように、家が大きく揺れた。
立ちふさがっていた邪魔な男がいなくなったために、開いた扉の隙間から、セバスは身を滑り込ませるように中へと侵入する。そして後ろ手に扉を閉めると、優雅な動作で室内を見渡した。
敵地への侵入というよりも、無人の家屋を散策しています、そんな雰囲気で。
中には2人の男。
壁一面に広がった真紅の花を呆気に取られたように見ていた。つんとした匂いは血や内容物によるもの。
その中に僅かに酒の匂いがある。ナザリックでは決して見られないような安物の匂いだ。
セバスはツアレから聞いた、この家屋の間取りを思い出そうとする。彼女の記憶はボロボロであり、大したものが残っていたわけではないが、下に本当の店があるとは聞いている。
床を眺めるが、下に続く階段は巧妙に隠されているのか、セバスに発見することは出来ない。
自らが発見できないのであれば、知っている人間に聞けばよい。
そんな当たり前のことをセバスは行う。
「失礼。少し聞きたい事があるのですが?」
「ひぃ!」
声をかけられた男の1人が掠れたような悲鳴を上げる。もはや戦うとか、そういう言葉は一切頭には浮かんでいない。
入ってきたのは1人。つまり先ほどまでこの部屋にいた3人の男の中で、最も腕っ節の立つ男を殺したのは、この老人だということだ。
もしこれが普通に遭遇したのなら、これほどの怯えは見せないだろう。しかし、人間1人を容易く吹き飛ばし、壁でミンチを作るような化け物に対して、刃渡り60センチ程度の武器で戦いを挑む勇気なんかあるわけが無い。いや、それは勇気とは言わず蛮勇と呼ぶべきか。
セバスの外見が単なる老人、それも品の良さげなものだというのが、より一層恐ろしさを増している。見た目から化け物であれば、ああ、そういうものかと思えなくも無いが、まるで人間のような素振がより一層、異質さを感じさせるのだ。
男たちはガタガタと怯えながら、セバスから少しでの離れようと壁にもたれかかる。
「この下に用があるのですが、行く方法を教えていただければと思うのですが?」
「……そ、それは」
それを第三者にいうことは裏切りだ。粛清の対象になったとしてもおかしくは無い。
言うべきか、言わざるべきか。そんな男たちの迷いを、一太刀で断ち切る言葉をセバスは発する。
「あなた方は2人いますね」
ぶわっと男たちの額に脂汗が滲み、ぶるっと背筋が震える。
2人いるから1人はいらない。そう眼前の化け物がはっきり断言したのだから。
「あっ、あっ」
「あそこだ、隠し扉があるんだ!」
男の1人が恐怖のため、言葉を発せない間にもう1人が大声で叫ぶ。喋れなかった男の方が、喋った男に憎悪の目を向ける。自分の命が失われる可能性を知った男が、失う原因となった男に向けて然るべき目だ。
それに対して喋った男が向けたのは勝ち誇ったような目だった。
「あそこですか」
知って眺めてみれば、確かに周囲の床との間に切れ目のようなある。
「なるほど、感謝いたします」
にっこりと優しげに笑うセバスに話した男は希望を抱く。
ここから全力で逃げて、明るくなったら直ぐに王都の外に出る。もう、こんなやばい奴と会うような人生からは足を洗う。多少はたくわえもある。それで食いつなぎながらまともな職を探すんだ。
今までの人生を悔い、そして新たな生き方をすることを信じてもいなかった神に約束をする。もしこの王都で信仰心を高い順に選んでいたら、この男達はかなり上位に位置しただろう。
しかし、結局のところ、今までの人生の汚れというものはいつまでもへばりつくものである。
「では役目も終わりましたね」
セバスが微笑み、その言葉の後ろにある意味を直感した男達は青い顔でガクガクと震える。それでもほんの少しの淡い期待を抱き、言葉を口にする。
「た、たのむよ。こ、ころさないでくれ!」
「駄目です」
シンと部屋が凍りついた。2人の男はそろって目を丸くする。信じられない言葉を聞いたように。
セバスがぐるっと首を回す。ミシミシと間接が大きく鳴った。
「だって、話したじゃないか! なぁ、何でもするから助けてくれよ!」
「確かにそうですが……」セバスはため息混じりの息を吐き出し、頭を横に振る。「駄目です」
「じょう……だんですよね?」
「冗談だと思われるのは勝手ですが、結果は1つしかありませんよ?」
「……かみさ……ま」
僅かにセバスの目が細くなる。ツアレを拾った時の姿を思い出して。
そんなことに加担していた者に神に請い願う、そんな権利があるわけがない。そしてセバスにとっての神は至高の41人。それを侮辱されたような気がして。
「自業自得です」
その全てを断ち切るような、鋼の言葉に男達は自らの死を直感する。
逃げるか、戦うか。その選択肢を突きつけられた瞬間、男たちが迷わず選んだのは――
逃げの手である。
こんな化け物と戦ったって結果は見えている。それよりは逃げた方が少しでも生き残れる可能性がある。そう判断し、その判断は正しい。
数秒、いや1秒単位でだが、彼らの寿命は延びたのだから。
扉目掛け走り出した男達に、一瞬でセバスは追いつくと、くるんと軽く体を回転させた。疾風が男達の頭の辺りを通り抜け、男達の体は糸が切れたように床に転がる。ポンと2つの球体が壁にぶつかり、血の跡の残して床に転がる。
遅れて男達の、頭部を失った首からは大量の血が床に流れ出した。
「……自分が今までに行ってきたことを考えれば、どうなるかは自明の理でしょう?」セバスの視線が中空を彷徨う。「あなたもそうならないことを祈っていますよ。……さて、さて」
セバスは広がってきた血溜まりを避けるように、ゆっくりと歩き出す。回し蹴りで頭のみを蹴り飛ばすという行為自体、ありえないような速度と力だ、最も恐ろしいのはセバスの足を包むその靴に、一切の汚れが付いてないことだろう。
床に付いた隠し扉にセバスは足をたたきつけた。
金具の壊れる音。そしてぽっかりとした床が口を開ける。しっかりとした作りの階段を、ガランガランと意外に大きな音を立てて破壊された扉が滑り落ちていった。
◆
その部屋はそれほど大きくはない部屋であった。
がらんとした部屋には衣装タンスが1つ。そしてベッドが1つしかない。
ベッドは藁にシーツを引いたような粗末なものではなく、綿を詰め込んだマットレスを敷いた貴族が使いそうなしっかりとしたものである。ただ、機能性を重視したようなそれはさっぱりとした作りで、貴族の使用するものに良くありがちな装飾は一切施されていなかった。
そしてその上には裸の1人の男が座り込んでいた。
年齢的にも中年を大きく越えた頃だろう。体躯は暴食の名残がこびりつき、情けない体となっている。
顔立ちは元々が平均すれすれだったのにも係わらず、そこにたるんだ贅肉を付着したことによって、急激に点数が下がっている。豚のような――そういっても良い外見だ。豚は豚でも知性の欠片もない、侮辱の意味での豚だ。
彼の名はブルム・ヘーウィッシュという。
彼は振り上げた拳を下――マットレスにむかって叩きつける。
そして、マットレスのものとは違う音が響く。
ブルムの弛んだ顔に喜悦の表情が浮かんだ。手に伝わってくる肉がひしゃげる感触と共に、ぞわぞわとした心地良いものが沸き起こったのだ。
ブルムの組み敷いた下には、裸の女がいた。
顔は大きく膨れ上がり、所々で起こっている内出血が顔をまだらに染め上げていた。鼻はひしゃげ、流れ出した血が固まりこびりついている。唇も瞼も大きく腫れあがり、元々の整っていた顔立ちはもはや何処にもなかった。体にも内出血の跡は見られるが、それでも顔ほどではない。
先ほどまで庇うという意味で必死に持ち上げていた手はだらしなくベッドにたれ、水中に漂っているかのような姿だった。
どう見ても女の姿に意識があるようには思えなかった。
周囲のシーツにも飛び散った血が色を変えて付着していた。
「おい、どうした。もう終わりなのか? あぁん?」
拳を持ち上げ、下ろす。
ガツンと拳と頬肉、そしてその下の骨がぶつかり、ブルムの手にも痛みが走る。
ブルムの表情が歪んだ。
「ちっ。痛ぇじゃねぇか!」
怒気に合わせて、再び拳を叩きつける。
ゴツリという音と共にベッドが軋む。ボールのように膨れ上がっていた女の皮膚が裂け、拳に血が付着した。ねとりとした新鮮な血液がシーツに飛び、真紅の染みを作る。
「…………ぅぅ」
殴られてももはや女は動こうともしない。これだけの殴打を繰り返されれば命に係わる。それにも係わらず命があるのは、別にブルムが手加減しているからではない。女が死んだところで、処分代としてそれなりの金を払えば問題は解決するのだ。
そんな女が生きているのはベッドのマットが衝撃を受け流してくれているため。もし硬い床の上で殴られていたら、既に命を落としていただろう。
実際ブルムはこの店で数人の女を殴り殺している。
まぁその度ごとに処分費用を払っているため、多少は懐に堪えているというのが内心ではあったかもしれないが。
ピクリとも動かない女の顔を眺めながら、ブルムはぺろりと自らの唇を舐めまわす。
この娼館は特別な性癖を満たすにはもってこいの場所だ。普通の娼館ではこのようなことはまず出来ない。いやできるかもしれないが、かなりの金を取られるだろう。もし、領地持ちの貴族であれば、何のかんんの理由を付けて、平民を連れて行けるかもしれない。
しかしながら、彼にはそんなことは出来ない。
ブルムは元々は平民である。
単に自らの主人の貴族の目に留まり、取り立てられたに過ぎない。そのため、彼は金銭による報酬は貰っても、領地を持っているわけではないのだから。
奴隷がいた頃はよかった。
奴隷も財産だ。それを手荒に使うような者は軽蔑される傾向にある。財産を派手に、そして無駄に使いすぎるとそういう目で見られるのと同じ理由だ。
しかし、ブルムのような特殊な性癖を持つ人間にとってすれば、奴隷というのはもっとも手っ取り早く、己の欲望を満たすことの出来るたった1つの手段だというわけだ。
それが奪われてしまった以上、ブルムにとってすれば、こういったところで発散するしかない。もしこの場を知らなければどうなったことか。
ブルムの主人の貴族に、協力するようにと言われて正解だったということだ。
通常であればブルム程度の地位の人間では入れないこの店に、彼らの良いように権力を行使したり偽造したりすることで入れてもらっているのだから。
「感謝します――我が主人よ」
ブルムの瞳に静かなものが浮かぶ。ブルムの性癖や性格からは信じられないかもしれないが、彼は自らの主人である貴族のみには深い感謝の念を懐いている。
ただ――
ジワリと腹の底からこみ上げてくる炎――怒り。
自ら奴隷という、己の歪んだ欲望を失う原因となった女へと向けるもの。
「――あの小娘!」
怒りによって生じた、急激な容貌の変化は驚くほどのものだった。顔は紅潮し、目は血走る。
自らが組み敷いた女に、自らが仕えているはずの王家――王女の顔が重なった。ブルムは内面から吹き上がった苛立ちを拳に集めて、叩きつける。
ガツンという音とともに、再び新鮮な血が飛散する。
「あの顔を、ぐしゃぐしゃにしたら、どれだけ、気持ちいいかなぁ!」
何度も何度も女の顔を殴りつける。
拳が当たり、口の中を歯で切ったのだろう。驚くほどの量の血が、膨らんだ唇を割って流れ出す。
もはや女は殴りつけられたとき、ピクリと反応するばかりだ。
「――ふぅふぅ」
数度殴り飛ばし、ブルムは肩で息をする。額や体には油を思わせるようなてらてらとした汗が付着していた。
ブルムは自らの組み敷いた女を見る。もはや酷い有様という言葉を通り越し、半死半生より死の淵に数歩進んだところにあった。それは糸の切れた人形。
ごくりとブルムの喉がなる。
ボロボロになった女を抱く時ほど、興奮することはない。特に美しければ美しいほど良いのだ。美しいものが壊れている時ほど、嗜虐心を満足させてくれるものはないのだから。
「あの女もこういう風にしたらどれだけ気持ち良いか」
ブルムの脳裏に浮かんだのはついこの前行った屋敷に女の顔が浮かぶ。この国の王女、最も美しいといわれる女性に匹敵するだけの美貌を持つ女を。
勿論、あれほどの女をどうにかできるはずがないのは、ブルムだって分かっている。ブルムの性癖を楽しませてくれるのは、この娼館に落とされてきたような廃棄処分1歩前の存在である。
あれだけの美しい女であれば、よほどの貴族が大枚をはたいて買い込むことだろう。無論、そうなるようにブルムは動かなくてはならないのだが。
「ああいう女を一度は殴ってみたいものだな」
もしそんなことが出来たのなら、どれだけ楽しく、そして満足することができるか。
当然、無理だろうからの夢だ。
ブルムは自らの組み敷いた女に視線を動かす。裸の胸が僅かに上下に動いている。それを確認し、唇がイヤらしくつり上がった。
ブルムは女の胸を鷲掴みにする。込められた力に反応し、女の胸はぐにゃりと大きく形を変える。優しさなんかない、力を込めただけのものだ。痛いだけでしかないだろう。
ただ、当たり前のことだが、女の反応は全くない。その程度の痛みに、もはや反応できる状況ではないのだ。ブルムが組み敷いている女の、今現在人形と違うところは唯一柔らかいというぐらいだろうから。
ただ、ブルムはその抵抗の無さにわずかばかりの不満足さを得ていた。
助けて。
許して。
ごめんなさい。
もうやめて。
女の悲鳴がブルムの脳裏に浮かび上がる。
そう言ってるうちにやっちまうべきだったか?
ちょっとばかりの残念さを感じながら、ブルムは女の胸をもみ続ける。
この娼館に回される女の大半が精神的に壊れかかった状態で、大半が意識を逃避している状況である。それからすれば今日ブルムの相手をしている女はまだまともな方だったといえよう。
「あの女もそうだったか?」
ブルムの脳裏に浮かんだのは逃がしたと言われた女だ。色々と問題にはなったそうだが、ある意味外部であるブルムもそこまでは知らない。逃がしたとされる男がどのような運命を辿ったかとかに関しては聞きたいとも思わない。
ただ、この娼館にいた女を助けた男がいると聞いて、これほど馬鹿な奴がいるのかと呆れたぐらいだ。
どれだけの男に、場合によっては女や人以外のものに抱かれたかしれない女なんか庇うだけの価値があるというのか。特に会って話をした際、金貨数百枚もの大金を出しても構わない雰囲気をかもし出した時には笑いを堪えるので精一杯だった。
そんな価値があるのか、と。
「そういえば、あの女もいい声を出したな」
記憶を辿り、上げていた悲鳴を必死に思い出す。この娼館に回ってきたにしてはまだまともだった女を。
ブルムはにやけ、己の獣欲を満たすべく動き出す。組み敷いていた女の裸の足を片手で掴むと、大きく開く。ほっそりとした骨が浮かんでいるような足はブルムの手ですっぽりと包めるような細さしかない。
大きく開いた股の間にブルムは体を寄せる。
ブルムは己の欲望によって硬くなったモノを掴み――
カチリという音と共に、扉がゆっくりと開く。
「な!」
慌ててドアの方を見たブルムの視界に、どこかで見た老人の姿があった。そして即座にその老人の正体に思い至る。
あの館で会った執事だと。
老人――セバスはかつかつと気にもしないように部屋に入ってくる。ブルムはそのあまりにも自然な動きに、何も言うことができなかった。
何故、あの館の執事がここにいるのか。何故、この部屋に入って来るのか。理解できない事態に遭遇したことで頭が真っ白になってしまったのだ。
セバスはブルムの傍に立つ。そして組み敷いた女性を見てから、冷たい視線をブルムを送る。
「殴るのが好きなのですか?」
「な!」
その異常な雰囲気にブルムは立ち上がり、服を取ろうと動き出す。
だが、それよりも早く、セバスの行動は始まった。
パンという音がブルムの直ぐ傍で鳴った。それと同時にブルムの視界が大きく動く。
遅れてブルムの右頬が熱くなり、痛みがジワジワと広がりだす。
殴られた――いやこの場合は平手打ちをされたというべきか。そのことをブルムはようやく理解する。
「なっ!」
ブルムが何かを言うよりも早く、パンと再びブルムの頬が鳴った。そしてそのまま止まらない。
左、右、左、右、左、右、左、右――。
「やめろぉ!」
殴ることはあっても殴られることのないブルムは、痛みのため目の端に涙を浮かべる。
両手で顔を庇うように持ち上げながら後退をする。
両の頬からは熱せられたような痛みがジンジンと広がった。
「ひ、ひさま! こんなことをしてもよいとおもふのか!」
真っ赤に膨らんだ頬が、言葉をしゃべると痛い。
「してはいけないので?」
「はたりまえだ! はかもの! わはひがはれはとおもっていふ!」
「単なる愚者です」
ブルムが離れた距離を容易くつめると、パン! と再びブルムの頬が鳴った。
「はめろ!」
親に殴られた子供のように、ブルムは頬を庇う。
暴力行為が好きでも、殴る相手はいつでも無力な存在であった。抵抗できる、そして殴ってくる相手に対してブルムができることは一切無い。
たとえ、単なる老人であるセバスでも、ブルムは怖くて殴れないのだ。絶対に抵抗できないという確信が無い限りは。
そんなブルムの内心が理解できたのか。興味を失ったようにセバスの視線が動き、女性に向けられる。
「全く酷い有様ですね……」
女の直ぐにしゃがみこんだセバスの脇を、ブルムは駆け抜ける。
「はかは!」
ブルムの頭が熱を持つ。なんと愚かな老人か。
この館にいる者を呼び集めて、痛い目を見せてやる。自分という人間にこれだけのことをしたのだから、容易く許せるはずが無い。苦痛と恐怖を充分に味あわせてやる。
脳裏に浮かんだのは執事の主人である、あの美貌を持った女。
従者の失態は主人の責任だ。主従まとめてこの痛みの責任を取らせてやる。誰を殴ったか思い知らせてやる。
そう考えながら、たるんだ腹を上下に動かし、ブルムは外に飛び出る。
「はれか! はれかいないのか!」
大声で叫ぶ。
叫べはすぐに従業員の誰かが来るのは当然のことだ。
しかしその考えを、ブルムは裏切られることとなる。それを知ったのは通路に出たときだ。
静まり返っているのだ。
まるで人がいないように感じられるほど。
ブルムは素っ裸のまま、怯えたようにキョロキョロと見渡す。
通路にあるその静寂――異様な雰囲気がブルムに恐怖を与えた。
左右を見れば幾つもの扉がある。そこから誰も出てこないは当たり前だろう。特殊な性癖――それも危険なものを持つ者が多く来るこの店では、中の音が聞こえないよう、しっかりとした扉を使っているからだ。
しかしながら、何故誰も来ないのか。
ブルムがさきほどの部屋に案内される際、幾人かの従業員の姿を見た。どれも屈強な姿をしており、セバスなんていう老人とは比較にならないほどの立派な体躯をした者たちだ。
「はんで、でてこないんは!」
「――死んだからですよ」
静かな声がブルムの叫びに答える。
慌てて振り返ればセバスが静かな表情で立っていた。
「奥に数人いるようですが……大抵は殺しつくしたからです」
「ほ、ほんなわけはない! はんにんいるとおもってるんは!」
「……従業員らしき方は上に3人。下に10人。そしてあなたのような方が7人でしたね」
「…………」
何をこいつは言ってるんだろう。そんな顔でブルムはセバスを見る。
「当然、生きてる方もいますよ。ですがあなたを助けには来れないでしょうね。足を砕いて、腕をへし折ってますから」
「!」
「さて、あなたは生かして返す必要性を感じません。ですのでここで死んでいただきます」
刃物を抜くとか、武器を構えるとかの行動は一切セバスは取らない。ただ、黙って間合いをつめるだけだ。その極普通の行動にブルムは恐怖する。セバスの言った言葉が決して嘘ではないことを感じ取り。
「はて! はて! おはえ……いは、あははにほんのないはなひがある!」
損の無い話。そんなものは無い。とりあえずこの場の時間さえ稼げればそれで構わない。しかしセバスにそれに付き合う気は無かった。
「興味ございません」
「はらなんでほんなことをふる!」
こんなことをされる筋合いは無い。大体どんな理由があって自分が殺されなければならないのか。ブルムの思いはセバスに初めて届く。
「……あなたがやってきたことを考えても分からないのですか?」
「?」
ブルムは思い返す。何か、不味いことをしてるだろうかと。
そのブルムの表情に浮かんだ感情――罪悪感やそれに準じたものが浮かび上がらないことを読み取り、セバスはため息をつく。
「……そうですか」
セバスの発した言葉と同等の速度を持って、セバスの前蹴りがブルムの腹部を強く蹴り飛ばした。
「生きる価値が無いとはこのことですね」
内臓を幾つも破裂させ、悶絶死したブルムに言葉を吐き捨てる。それから奥――いまだ人の気配の残る方へセバスは歩を進めた。