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オーバーロード:前編 作者:丸山くがね
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王都-11


 クライムは黒い塊を手に持つ。プルプルと震えるそれは非常に柔らかい性質のもので、クライムの手の中で重力に引かれて平べったく姿を変えていた。

 そんな液体が詰まったような奇妙な玉を、クライムは自らの体――鎧に叩きつける。

 バシャっと音を立てるように広がった球体は、クライムの白いフルプレートメイルに黒色の斑を作る。先ほどのクライムが持っていたものは、黒い染料が入った玉。そういう認識が正しい光景であった。

 だが、それで終わりではない。そんな単なる玉を潰したわけではないのだ。


 クライムの鎧を汚した黒い染料がもぞもぞと動き、全身に広がるように鎧の表面を流れ出したのだ。そしてものの数秒でクライムの鎧は、一箇所の塗り残しも無く、輝かしい純白からつやの無い漆黒へと変わる。


 クライムが潰した球体こそ魔法の染料<マジック・ダイズ>と呼ばれるアイテムである。高位のものであれば、酸や炎、冷気等に対する抵抗のボーナスをくれるものもあるそうだが、クライムが使ったものは単なる色変えの効果しかない。

 これを使ったのも言うまでも無く、クライムの着用する純白のフルプレートメイルは目立ちすぎるためだ。だが、逆にこうやって色を変えてしまうと、通常のイメージが強いため、即座にクライムと結び付けられないというメリットもある。


「クライム」


 色変えが終わったのを確認し、準備が終わったと判断したのであろう。ラキュースが近寄ってくると、今回の計画の最終的な目標等の確認作業をはじめた。


 今回の仕事は4つの娼館を襲い、中に囚われている人の救出、そして内部資料の奪取である。その際、店の人間は優先的に掃討し、客は出来れば気絶程度で押さえる。客を助ける理由はレェブン候がこの一件を武器に脅して利用するためだ。

 4つの娼館への襲撃は、2つの店は蒼の薔薇がパーティーを2つに分けて対処。もう1つの冒険者パーティーがもう1つ。クライムは最後の娼館の監視に当たる。

 その後、襲撃の終わったパーティーがクライムと共に、最後の娼館に襲撃をかけるという戦法を取る。

 今回の仕事は非常に秘匿性が高く、貴族派閥の人間に知られてはいけない。そのため、大騒ぎになるような行為は出来る限り慎むこと。および情報が持ち出されることをなるべく避けること。


 クライムはラキュースの説明を受け、大きく頷く。


「了解しました」

「それじゃ、そっちも気をつけて」

「おう、話は終わりか?」

「ガガーラン様」


 少し離れたところで装備を確認している蒼の薔薇の一行――イビルアイ、ティアとティナ。その3人の元からガガーランが歩いてくる。

 装備も宿屋にいた頃とは違い、全身一級品の魔法のアイテムで身を包んでいる。

 スパイクの突き出した、どす黒い赤色のフルプレートメイルの胸の部分には、目のような紋様が書き込まれている。これこそ有名な鎧『凝視殺し<ゲイズ・ベイン>』だ。

 その小手の部分は少しばかり変わり、絡み合った一対の蛇が掘り込まれている。接触した相手を治癒させる力を持つ古代の一品、『ケリュケイオンの小手<ガントレット・オブ・ケリュケイオン>』。

 そして腰に下げた両手で使いそうなほど大きさのウォー・ピックは『鉄砕き<フェルアイアン>』。王侯貴族が着用しそうな真紅の豪華なケープは『真紅の守護者<クリムゾン・ガーディアン>』。鎧の下で見えないが『抵抗の上着<ヴェスト・オブ・レジスタンス>』や『竜牙の魔除け<アミュレット・オブ・ドラゴントゥース>』、『上位力のベルト<ベルト・オブ・グレーターパワー>』『飛行の靴<ウィングブーツ>』、『竜巻の頭飾り<サークレット・オブ・ツイスター>』を装備し、指輪にも強大な魔法の力が宿っていた。

 これが王国最強のA+冒険者パーティーの片割れの一員にして、最高峰の戦士であるガガーランのフル装備だ。


「何しにきたの?」


 冷たい言葉を返すラキュースだがその身を包む魔法のアイテムもガガーランに劣らず優れている。

 まずはその名を極限まで高めている魔法の剣――魔剣キリネイラム。バスタードソードほどのそれは、鞘に納まれているためその漆黒の夜空を思わせるという刀身を見ることは出来ないが、柄の部分だけでも非常に素晴らしい作りだというのが分かる。特にその柄頭にはめ込まれた巨大なブラックサファイヤの内部では、魔法の炎ごとき揺らめきが輝いていた。

 そして着用するフルプレートメイルは白銀と金によって作られたとしかいえない輝きを放ち、様々な部分に無数のユニコーンを刻み込んでいた。これこそ乙女のみしか着用できない、汚すこと適わずとされる『無垢なる白雪<ヴァージン・スノー>』。

 そんな輝かしいばかりの武装に対して、その背中を守る外套はネズミ色の木綿製のようなものだ。これは『ネズミの速度の外套<クローク・オブ・ラットスピード>』といわれる移動速度や敏捷性、回避力を上昇させる外見からは想像も出来ないほど強力なマジックアイテムなのだ。

 それだけではない。ガガーランに匹敵するほど、マジックアイテムを装備している。


 1つだけでも目が飛び出るほど高いそれらを、これだけ持っているのもA+冒険者だからこそだろう。


「おいおい、リーダーは言うこときついね。これから戦いに行く童貞に色々といいことを教えてやろうと思ってな」

「ど! ……はぁ。まぁいいけど、あの娘の所為でかなりの急ぎの仕事よ。あんまり余裕ある時間はないんだからね? とっとと終わらせなさいよ?」

「あいよ。でもよ、ラキュース。そいつ使って大丈夫なのか?」

「そいつ……ってキリネイラム? 別に大丈夫だけど……」

「そうか? まぁ、無理するんじゃねぇぞ? やばいと思ったらいつでも教えてくれよ」

「ええ? 良くは分からないけど、分かったわ」


 蒼の薔薇のメンバーの下に頭を捻りつつ歩き出すラキュースを見送り、ガガーランは懐から変わったものを取り出す。そしてそれをクライムに突きつけた。


「こいつを持っていけや」


 ガガーランが手渡してきたのはハンドベルだ。それも3つ。外見的には非常に似通っているが、そのベルの部分に刻み込まれた絵は全て違う。そしてクライムはそれが何か、そしてどのような時に使用するか聞いたことがあるため知っている。


「これは……」

「別に使うとは思ってないが、何かあったときの用心のためだ」

「しかし……」


 クライムが迷ったのは、このマジックアイテムは襲撃をかける彼らこそ使うべきものではないか、と判断したためだ。そんなクライムの心配をガガーランは鼻で笑い飛ばす。


「はん。こっちはティアとティナが二手に別れるんだ。盗賊系のアイテムの出番はないぜ。それよか、お前さんが持っていた方が良いってことよ」そこでガガーランは少しばかり声を落とす。「ただ、だからってそれを使おうとするなよ。状況を良く見て考えて使うんだぜ?」


 クライムが尋ねようとした、ちょうどその時、イビルアイの焦れたような声が飛ぶ。


「まだか、ガガーラン!」

「おう。今行くって!」


 くるっと再び視線を戻し、ガガーランはクライムに忠告を与える。


「俺達が先にお前のところに着いたなら問題はねぇ。でももう1つのパーティーって奴がついた場合、全然知らないお前を面倒な奴だと思う可能性は高い。そりゃ、異質な奴をパーティーに入れた場合、上手く動かなくなる可能性があるからな。その時は迷惑が掛からないようにするんだぞ?」

「はい。それは分かっています」

「なら、いいさ。まぁ油断すんじゃねぇぞ?」


 その言葉を最後にガガーランは仲間の方へ歩き出した。その大きな後姿を見送り、それからクライムは渡された鐘を見つめた。




 この世界においては基本的に、日が沈むと同時に寝るような生活が一般的である。これは明かりを灯すのもお金が掛かるという理由である。貧しい家庭からすれば、ランプを灯す油だって節約したいと思うのは当然だ。そのため、村落の生活というのは健康的なものとなる。

 ただ、都市のような場所にもなればそうではない。まず《コンティニュアル・ライト/永続光》が付与されたマジックアイテムが街頭代わりに使われているようなところは全然違う。そして一部の仕事というのは日が沈んでからが活動時間になるというものだ。華やかな歓楽街なんかまさにその通りだ。

 しかしクライムの向かった先、狭い路地にはそんな言葉は通じない。


 静まり返った路地をクライムは無言で、明かりを持たずに歩く。真っ暗な路地を明かり無しに歩けるのは、鎧のヘルムの部分が闇視の兜<ヘルム・オブ・ダーク・ヴィジョン>と同じ用法で作られているためだ。

 15メートル先までが限界だが、その細いスリットから覗く光景はまさに真昼の如しだ。

 ミスリルで出来ている鎧は、通常のフルプレートメイルほどの騒がしい音は立てないため、静かな雰囲気が壊れることは無い。腰に吊り下げたクロスボウが鎧にぶつかる音も大したものでは無い。

 よほど聴覚に優れた人物か優秀な盗賊でなければ、クライムの歩く音は家の中からでは聞き取ることは出来ないだろう。


 やがて、セバスがツアレを拾った場所を通り越し、数軒先まで行った所で、クライムは近くにあった家屋の扉に手を当てた。

 少しばかり力を入れ、ゆっくりと――出来る限り音がしないように押し開ける。その行動は扉が当然開くと知っている、そんな人間特有の迷いの無い動きである。

 扉が開かれ、モワリと古臭い空気が流れ出す。


 真っ暗ではあるが、問題なく見通せるクライムは、その中に滑らすように体を入れた。

 扉を後ろ手に閉めると、クライムはまずは耳を済ませる。音は何も聞こえてこないことを確認すると、クライムは次の手に移った。

 ゆっくりと歩き出したのだ。

 クライムの体重を受け、床がミシミシと軋む音を立てる中、注意深くクライムは歩を進める。床が木製である場合腐っている可能性がある。そうなるともし地下があったりした場合、底が抜けて天然の落とし穴が発動することもあるからだ。


 完全に真っ暗な室内は、クライムが歩くたびに舞い上がる埃とカビの匂いが充満していた。幸運なのはそれ以外の匂いがしないということだろう。

 都市内部にだってモンスターがいる。例えば1メートル級の大きさを持つジャイアントラットやジャイアント・コックローチなどだ。そういったモンスターはそれ特有の匂いを放つ。それが無いということはこの家屋にはいないということの現れである。


 そうやって充分に安全を確認すると、クライムは扉のところまで戻り、僅かな隙間を作る。そして伺うように外を監視しはじめた。残念ながら角度的な問題もあって、クライムの位置からでは目的の娼館はまるで監視できない。

 クライムが監視しているのは別の家屋だ。


 何故、別の家屋を監視するのか。

 その理由は簡単である。

 クライムが監視している家屋も、その娼館の一部だからだ。

 目的の娼館は2階建てではあるが、1階部分も2階部分も大した使われ方をしてはいない。本当に使われているのはその地下部分である。そう。本当の店舗は地下に広がっているのだ。

 そしてクライムが監視する家屋、それはその店舗のもう1つの入り口――非常用の隠し出口として存在すると、盗賊ギルドの調べで分かっているからだ。


 本来であれば通常の入り口として使われている家屋を監視するほうが良いと思うかもしれない。しかし、盗賊として優れた能力を持つティアが、先に周辺の様子を伺った結果、この家屋が一番安全だろうとみなしたのだ。

 ティアのような超越した盗賊系のスキルを保有する人間であれば、入り口の建物も監視できるだろう。しかしながらド素人であるクライムには逆立ちしても無理な話だ。そのため、この家に隠れて見張っているのだ。


 クライムの監視する家屋は外見的には周辺の家屋とまるで同じ作りであり、非常にぼろい外装だ。しかしながら中から明かりは一斉漏れ出てない。非常口であることを考えれば、人がいるはずなのだからそう考えるとかなりいじられている可能性はある。


 じっとクライムは動かずに外の光景を眺める。そして――


「クシュン」


 ――可愛らしいくしゃみを1つ。

 周囲を見渡し、それを聞いた人間とかがいないことを確認する。それから腰につけた皮袋からハンカチと非常に薄い布を取り出した。

 次にヘルムを取り外す。ヘルムを被っていたことによる闇視の効力が切れ、一気に闇が押し寄せる。クライムは一瞬で周囲を見ることは出来なくなっていた。

 しかしながら予期していたことだ。クライムは一切慌てずに行動を続ける。

 クライムはハンカチで鼻をかんだ。この家屋に溜まった埃で恐らくは真っ黒になった鼻汁がついたことだろう。数度繰り返して鼻をかみ、鼻のむず痒さが取れたことを確認すると、クライムはハンカチをたたむ。それから口や鼻を中心に布を巻きつけ始めた。そうやって布で完全に顔の下半分を覆うと、再びヘルムを被った。


 呼吸が若干苦しいが、埃を吸うよりはなんぼかマシだ。


 クライムの心境を言葉にするとそんな感じである。

 それから再び黙って外の光景を眺め始めた。


 そんな中思い出したのはある1人の老人だ。

 彼は非常に強かったし、目的はある意味一致している。しかしながら主人に迷惑がという発言があったように、巻き込むわけにはいかないだろう。そして何より正体の知れない第三者を巻き込むのは危険がある。

 信用できるとクライムはセバスを見ているが、この問題はラナーにまで発展しかねないものだから、力を借りるわけにはいかない。



 ただ黙って様子を伺う、そんな退屈な時間がどのくらい経過しただろうか。クライムは突如、異様な音を耳にする。

 重く巨大なものが放り出されるような音だ。

 響いた音色は金属製のもの。フルプレートメイルを着た戦士を放り捨てるような音に、クライムは慌てて外の様子を伺う。しかし、クライムの位置からでは何も見ることは出来ない。

 もう少し扉を開け放って様子を伺うべきだろうか。クライムは逡巡した。


 それが幸運を招いたのだろう。

 クライムが監視していた扉。それが開かれたのだ。中からの光を背中に浴びながら、1人の男が顔を出す。人相風体共にあまり良いとは言えないような男だ。そんな男の片手には金属の反射がある。抜き身のショートソードを片手にしているのだ。


「おい! 扉がぶち壊されているぞ!」


 外の様子を伺っている男は、中にいるのだろう者に声をかける。

 何の扉が壊されたのか。それは考えるまでも無く、入り口の扉だろう。あの鉄の扉が何者か、彼らの知らない人物によって破壊されたということだ。


 他の店を落とした人物達が来たのだろうか。だが、もしそうだとしたなら、何故クライムには何も教えないのか。冒険者がクライムがいると邪魔だから、教えないで攻略を始めたのか。はたまたは――。


「貴族派閥の人間が動いた?」


 クライムがここにいると知らない人間が動いた可能性だってある。そうなると推測されるのは貴族派閥の人間だ。

 不味い。

 クライムは焦りを覚える。

 もし貴族派閥の人間だった場合、内密で終わらせようという計画がぱぁだ。


 クライムは困惑しながらも選択を突きつけられる。

 どうするかである。貴族派閥に情報が漏れた場合、伯爵に手が回るだろう。そうなると王派閥の力が削がれるということになる。無論クライム本人の考えとしては、あのような外道な店の経営に係わっている腐れ貴族なんかどうなっても良い。しかし、王派閥の弱体化は望んでいないのだ。

 王派閥の弱体化はラナーにとって不利に働く。それを許せるはずが無い。

 クライムは決心する。

 ゆっくりと心を静める。ラナーの敵の排除に心は揺らいだりはしない。あの子供の時、拾われた恩義。そしてそれから育てられた感謝。そして愛情。ラナーの幸せのためならば、己の命を投げ打つ価値があるというもの。

 クライムは剣を抜き放ち、扉から躍り出た。狙いは様子を伺っている男だ。


 ミスリルの金属鎧とはいえ、流石に完全に音がしないわけではない。突然、自分の後ろで金属の音がしたことを受け、男は慌てて振り返る。

 しかしながらすべては遅すぎる。

 見えたのは剣のきらめきと、闇の中から姿を見せた黒い影のみだ。


 クライムの剣が振り下ろされ、頚部を切裂かれた男は血を噴出しながら路地に転がる。手から零れ落ちたショートソードがカランという音を立てた。

 クライムは男の生死を見届けるまもなく、家屋に飛び込む。明かりの満ちた部屋に飛び込んでも、魔法的な視野強化を受けていたクライムに問題は生じない。

 そこにいたのは男がもう1人。

 ショートソードと皮鎧というさきほどの男とまるで同じ格好だ。姿格好がラキュースの見せてくれた資料に載ってないことを確認し、一気にクライムは距離をつめる。


「な! なんだてめぇ!」


 慌てた男は室内に入ってきた黒い金属鎧を着たクライムに、ショートソードを突き立てようとするが、クライムはそれを容易く剣で弾く。

 そして上段から一気に剣を振り下ろした。

 ショートソードで止めようとするが、クライムの全体重の掛かった重い一撃を受け止めるにはあまりに不十分だ。ショートソードを弾き、そのままクライムの剣は男の肩口から入り込み、胸部に抜ける。


「ぎゃぁああ!」


 男の絶叫が響き、どさりと床に転がる。床の上でビクリビクリと体が痙攣している。

 クライムは致命傷だと判断し、即座に部屋の奥に飛び込む。そして誰もいないことを確認すると2階に駆け上った。


 それから1分。

 全部の部屋を見渡して他に敵がいないことを確認すると、再び入り口まで駆け戻ってくる。横目で床に転がった男がピクリとも動いてないことを確認し、外に飛び出る。僅かに切れつつあった息を整えながら、外に転がった死体を家屋の中に放りこむ。扉を閉め、水袋を取り出すと、中身を路地に溜まった血にすべて溢す。

 皮袋に入れられた水特有の匂いと、噎せ返るような濃厚な血の臭いが混じり、多少は血の臭いが薄れたようだった。流石に近くまで寄られると誤魔化せないが、距離があれば気にも留めないぐらいだろう。

 そうやって大雑把な後始末を終えると、クライムは慎重に入り口の家屋に向かった。


 路地には分厚い鉄の扉が転がっていた。扉は木に鉄板を両側から打ちつけ、さらに真ん中にも別の金属をはめ込んだ重厚なものだ。

 扉は凄い力でこじ開けられたのだろう。ノブの部分が異様な形にひしゃげていた。

 まず人間の腕力でこんな行為が出来るわけが無い。考えられるのは何らかの道具だ。いや、道具を使ったとしても普通の人間に短時間で出来る業ではない。

 そうなると考え付くのが魔法という存在だ。

 アイテムを破壊する類の魔法というのは存在する。それを使って蝶番や鍵を破壊してから放り出したとするなら――かなり重かっただろうが納得はいく。

 クライムは家屋内に目をやる。ぽっかりと口を開いた入り口から通路がそのまま続いており、奥に閉まった扉。

 人の気配は感じられない。そして聞き耳を立てても聞こえてくる音は無い。しかしながら侵入者がいることは確実だ。


 そのことを確認し、クライムは慌てて先ほど襲撃した家屋へと駆け戻る。

 扉を蹴破るような荒い動作で開き、中に飛び込む。そして血の匂いが立ち込める室内を見渡す。先ほど家屋内をぐるっと見渡したが、地下へ通じる扉や通路は見つからなかった。つまりは隠されているということだ。


 クライムは盗賊系のスキルを納めていないため、室内を見渡したぐらいでは発見することが出来ない。もしこの場に小麦粉のような細かな粉があって、時間があるならそれを振りまき、吹き飛ばして見つけるという手段を取っただろう。

 粉が隠し扉の隙間に入ることで見つけやすくなるという方法だ。しかし、手元に小麦粉が無ければ、それを巻き散らかす時間も無い。クライムがこうしている間にも謎の侵入者は歩を進めているのだろうから。

 だからこそクライムは懐からマジックアイテムを取り出す。取り出したのはガガーランに渡されたハンドベルだ。書かれた絵を見比べ、3つの中から目的の物を選ぶ。


 取り出したマジックアイテムの名前は、隠し扉探知の鐘<ベル・オブ・ディテクトシークレットドアーズ>。


 それを1度振る。持ち主のみに聞こえる涼しげな音色が広がった。

 その音色に反応し、床の一角に青白い光が灯る。それは点滅を繰り返し、クライムにここに隠し扉があるとアピールをするようだった。

 クライムはその場所を記憶にとどめると、この家の1階部分をぐるっと回った。そしてその場所以外に魔法に反応したところは無いと確認すると、元の場所に戻る。


 あとはこの隠し扉を開けて中に潜入するばかりなのだが、クライムは目を細め、隠し扉を眺める。それからため息を1つ付くと、再び3つのハンドベルを取り出した。

 今度選んだものは、先ほどとは違う絵のかかれたものだ。そしてそれを同じように振る。

 先ほどに似た、しかしながら違う鐘の音色が広がった。


 罠解除の鐘<ベル・オブ・リムーブトラップ>。


 あるかどうか分からない罠を警戒して使うには勿体ないのだが、戦士であるクライムに罠を発見解除する能力は無い。そして罠にかかった時の対処法も1人では上手く取れない可能性がある。それぐらいなら、1日の使用回数に制限はあるとはいえ、ここで1回ぐらい無駄に使ったとしても仕方が無い。

 他に問題があるとしたら、このマジックアイテムでも大掛かりな罠や魔法的な罠、そして難易度の高い罠を解除することは出来ない。ただ、そこまで大掛かりなものは無いだろうと判断してだ。

 そして、今回ばかりはクライムは読み勝ったようだった。


 ガチリという重い音が、隠し扉から響いたのだ。


 クライムは隠し扉の隙間に剣を差込、こじ開けるように開く。

 木の床の一面がぐわっと持ち上がり、向こう側に倒れる。隠し扉の裏側にはセットされたクロスボウが付けられていた。クロスボウに番えられた矢の先端部分が、明かりに照らし出され、金属とは違う奇妙な反射の仕方をした。

 クライムは場所を変え、クロスボウを眺める。

 先端部分に付着したのはヌラリとした粘度の高い液体のようなもの。十中八九、毒だ。

 もし無造作に開けようとしていたら、毒を塗られたボウが射出されていたことだろう。


 僅かに安堵の息を吐き、クロスボウを取り外せないか、クライムは調べる。残念ながらしっかりとセットされているため道具が無ければ外すことは出来ない。

 仕方なく、矢の部分だけ努力して取り外す。

 初心者の多くが行うミスの1つは。せっかく手に入れたというのに、使う際自分の体を最初に傷つけてしまうことだ。それを避けるため、クライムは最初っから自らの持っているクロスボウに矢をセットしておく。


 毒を使うことを忌避する人間は多い。冒険者の大半がそうだ。毒なんか悪役の使うものだと。

 しかしながらクライムはあまりその辺にこだわる人間ではない。特に自分が弱いということを知っている人間からすれば、ありとあらゆるものを使うのは至極当然だからだ。そんなクライムが普段、毒を使わないのは、ラナーに仕える兵士が毒を使っていては世間体があまりに悪すぎるためだ。

 しかしながらこのような危険な状況下で使わないのは、バカのすることだ。


 準備を終え、クライムは隠し扉の奥を覗く。

 そこそこ急な階段が下に向かって伸びており、その先は角度的に見ることが出来ない。階段も周囲も石で固められたしっかりとしたものだ。

 クライムは階段に一歩踏み込む。念のために剣で床を突っつきながら、そのまま1歩、2歩と歩を進める。


 非常に危険極まりない行為だ。

 戦士1人で潜り込むなんか気の狂った行為と思われても仕方が無い。

 しかし、これしか手段が無いのだ。

 入り口の方から入り込むという手段もあったが、その場合は先に潜入した相手が味方なら良いが、敵だった場合は得る物が無いということになってしまう。それどころか対立することになるし、こちらの扉から人を逃がしてしまうということになる。

 そうなると隠し扉の前で陣取り、逃げてくる者を捕まえるという方法もあるが、その場合は重要な情報を他の潜入者に奪われるだろう。消極的だが、最も賢いのは様子をそのまま黙って見ていて、何があったのかを伝えることだろう。

 しかしそれではラナーの不利益に繋がる可能性が高い。


 故に最も危険な手を取る。


 入り口から侵入した人間が引き付けている内に、こちらから入り込んで中の情報を回収するなり、貴族風の人間を捕まえるなりした方がメリットが大きい。問題は戦士であるクライムにどこまで盗賊の真似事が出来るかだ。

 階段を下りきると数メートル先に扉がある。

 注意深く床を突っつきながらクライムは進む。非常口通路にクロスボウ以上の罠を仕掛けるとは思えないが、それでも重武装をした戦士が落とし穴の1つで無力化するというのはよく聞く話である。それだけは避けなくてはならない。


 ちょっとの距離に充分な時間を掛けるという慎重さで歩を進め、クライムは扉の前まで到着した。クライムは盾を前に構えると、離れた場所から木の扉を剣で突っつく。それを数度。

 接触による罠の発動が無いことを確認すると、木の扉に耳を近づけ、中の音を聞き取ろうとする。

 やはりクライムには何も聞き取れない。


 再びマジックアイテムを使うか迷い、それから勇気を出してドアノブを掴み――捻る。

 しかし……動かない。


「鍵か……」


 残念そうにクライムは呟くと、3つのハンドベルの内、最後のハンドベルを振る。

 鍵解除の鐘<ベル・オブ・オープンロック>。


 魔法の力によって鍵は外され、かちゃりという音と共に、今度はドアノブが回る。

 クライムは僅かに扉を開け、中の様子を伺う。

 広間だ。

 部屋の隅には人が入れそうな檻や木箱といったものが幾つか置いてある。荷物置き場だろうか。それにしては少々広くも感じられた。

 向かいには扉の付いてない出入り口。クライムが耳を済ませてみると、遠くの方で騒ぎが起こっているのか少々騒がしい。

 隙間から見る範囲内に人気が無いことを確認すると、クライムは身を屈めるように室内に入る。そして中ほどまで来た辺りで――


「ふん。あちらが陽動で、こちらが本命かと思ったんだがな」


 突然掛かる声。クライムが視線を動かした先には木箱の陰から1人の禿げた男が姿を見せるところだった。別に転移したとか、透明化をしていたとかではなく、単純にクライムの知覚能力では感知できなかったのだ。

 男の上半身は裸で、筋骨隆々のその肉体には無数の刺青が掘り込まれ、地肌が見えないほどだ。

 その姿を見て、ゾクリとしたものがクライムの背中を走る。


 頭の中に浮かんだのはラキュースが盗賊ギルドで買ってきた情報の1つ。8本指という者たちに関してのものだ。

 クライムは即座にクロスボウを構えると、問答無用で射出した。


 毒の塗られた矢は男目掛け、中空を走る。

 狙った箇所は最も大きい胴体である。回避するか、木箱に隠れるか。その2つぐらいしか対処が無いはずなのに、男は第3の対処を取る。


「――ふん」


 男は容易くボウを手で掴み取ったのだ。そしてせせら笑うと無造作にほうり捨てる。

 カランという音が立ち、ボウが床に転がった。


「もういいぞ」


 その声に反応し、男とは反対側の木箱の陰からもう1人の男が姿を見せる。

 片手にはレイピアを持ち、中性的な美貌を持っていた。まるで友人を歓迎するような優しげな微笑をその整った顔に浮かべていた。

 ぴったりとしたハードレザーアーマーを着ているが女性用の胸の部分があるものではなく、男性用のものだ。


 クライムの喉を苦いものがこみ上げる。

 8本指のうち、クライムが勝てないと判断したのは3人。そのうちの2人が姿を見せたのだから。

 己の不運さには頭が下がる。

 4つ店があって、なんでここに上の2人がいるんだと。それともここが最も重要な店だったのか。だとすると他の侵入者に情報を持っていかれる前にどうにかしなくてはならないのだが……。

 クライムは頭を巡らせる。いや、それしか手段が無いからだ。


「何故、ここに?」


 2人に挟まれたクライムは油断なく両者を視界内に収めるように動きつつ、尋ねる。まさかこの場所にいつもいるわけではないだろう。それに他の侵入者があった時点でここに来ると読んでいたのか。


「《アラーム/警報》だよ。分かるかなぁ?」


 レイピアを持った男――外見上は――が嘲笑うように告げる。舌打ちを堪え、クライムは剣と盾を構える。


「やる気だってさ、ゼロ」

「……ふん。ここまで来たんだ。やる気に決まっているだろう。なぁ、侵入者?」


 クライムはそれには答えない。そして鞘に手を這わせ、1言だけ呟く。それに反応したのはほかでもない、クライムの持つ剣だ。それに魔法の力が突如宿ったのだ。剣に宿った白い光は神々しく輝く。


「へぇ。《マジック・ウェポン/武器魔化》と《ブレス・ウェポン/武器祝福》ってところかな? 同時に2つの魔法が掛かるなんて結構なマジックアイテムだよ、あれ」

「ふん。なら殺した後でより強くなれるということだ」

「ゼロは気楽だなー。凄いマジックアイテムを持ってるんだから強敵だとか考えないの? ねぇ、君。そんなアイテム何処で手に入れたの? くれたら命ぐらいは助けてあげても良いよ?」


 クライムはやはり返事をしない。助けてくれるなんて言うのは大嘘だと読めるからだ。


「そっか。まぁ良いや。それじゃどうする? 皆で掛かる? それともどちらかは向こうに行く?」

「ルベリナ」

「はーい、何?」


 非常に軽い口調で男――ルベリナがゼロと呼んだ男に返事をする。


「とっととこちらを片付けて、向こうの対処をするぞ」

「そりゃそうだよね。お客さんに迷惑かけてるもの。りょーかい」

「……壁を作って守れと命令してますし、時間は稼げてるでしょうけどね」


 突然新たな声が割り込む。


 まだいたのかとクライムは慌てて確認をする。先ほどのルベリナの『皆』という発言には違和感を感じていたが、これでそういうことかと納得もできた。やはり同じように木箱の後ろから男が姿を見せたのだ。

 クライムの記憶にも当然ある。クライムが勝てるかどうかギリギリのラインの男で、名前をサキュロントと言ったはずだ。

 確かに彼1人だけなら勝算はある。しかしながらこの状況下ではまるで無いとしか言いようが無い。

 ただ、ある意味劣った存在が戦闘に参加するというのはクライムにとって悪いことばかりではない。そこが弱点となるからだ。

 しかし、そんなクライムの甘い期待は即座に破棄される。


「君は壁際で見てるんだね。邪魔になるといけないから」

「了解です、ルベリナさん」


 ルベリナの命令を受けて、サキュロントが壁際によったのだ。それは戦闘に参加する態度ではない。


「というわけで、君さぁ。2人しか相手をしないけど、寂しくないよね?」

「ふん。何を話しているんだか」クライムが何も言わないのを見て、ルベリナに叱咤交じりの声をゼロは上げた。「そいつに喋る気はないのは一目瞭然だろうが。とっとと片をつけるぞ」

「まぁまぁ。もうちょっと待ってよ、ゼロ。そろそろだからさ」


 ――ガチリという音が重く響く。

 クライムが入ってきた扉から聞こえる音だが、後ろを見る余裕はない。しかしその音が何かは予測は出来る。


「……びっくりした? 自動式の鍵だよ。開いてから一定時間ごとに鍵が自動的に閉まる仕組みになってるんだ。ドワーフ細工の一品だよ。凄いでしょ」


 楽しそうなルベリナの声。

 つまり喋るかけていたのは時間を稼ぐためだったのかと、クライムは判断する。

 後ろの逃げ道は閉ざされ、つまりは逃げる道は強者2名を乗り越えた先にあるということ。いや、もう1つ。

 クライムはハンドベルを取り出すチャンスを油断無く伺う。懐に手を入れた段階で敵に何をする気なのかばれる。つまりはチャンスは一度。それを見逃してはいけない。


「ところで、君さぁ。見たところ戦士だよねぇ。どーやって扉開けて入ってきたの?」

「……さぁね」


 ルベリナの顔が大きく歪んだ。


「はっははは」突然の哄笑。「――反応するなんて、君、馬鹿だねぇ。ここでは無視するのが一番なのに、図星を突かれて反応しちゃったね。……ゼロ、彼は何らかのアイテムを保有しているよ。鍵を開けることの出来るね」

「ふん。ならそのチャンスは与えん」


 ずいっとゼロが踏み出し、歩き出す。その歩運びは堂々としたもので、挑戦者を迎え入れる王者のものだった。

 それに対してクライムは剣と盾を構えたまま、ゆっくりと後退をする。目的は壁である。2人に攻撃されるのは仕方ないが、それでも攻撃される範囲を狭めようというのだ。

 だが、そんなクライムの行動は2人とも読めている。左右から挟みこむように、そしてクライムの直線状に向かいの入り口を配置して。


 走って向かいの入り口まで走るのは愚だ。

 背後からの一撃を食らうだけ。そう判断したクライムはまずはルベリナを相手にすべしと考え、動き出す。


「へぇ、まずは私? 良い考えだねぇ」


 ルベリナとゼロ比べて僅かでも勝算があるのはルベリナだ。ただ、そのクライムの判断はルベリナからすれば不快な行動でもある。

 ダンとルベリナが踏み込み、クライムの顔を覆うヘルムがガリガリという耳障りな音を響かせる。


「へぇ、良い鎧じゃん」


 頬の辺りに響く振動を無視し、クライムは剣を振る。しかしルベリナには届かない。既に剣の届かない間合いまで離れているのだ。入りと出の速度が桁を外れている。いやクライムがそう思うだけで、ガゼフやガガーランといった超一級からすると大した速度でもないのだろう。しかし今戦っているのはクライムだ。

 まるで中空に浮かんだ鳥の羽を相手にしているように捉えることが出来ない。

 クライムはそう思い、ルベリナを睨む。


「残念だな。頬を貫通させてやろうと思ったのに」


 頬の辺りへの攻撃は、外れたものやクライムが回避したものでなく、狙ったもの。頬では致命傷にならないということを考えれば、ルベリナの性格の一端がつかめようというものだ。


「おいおい、こっちに注意を向けすぎるのは危ないよ?」

「――ふん!」

「ごっ!」


 ルベリナに注意を払っていたクライムの肩口に衝撃が走り、それに押されるようによたよたと横に歩く。盾を引き上げ、その後ろに隠れるように睨む。細いスリット状の限定された視界の中に、追撃の一手を加えようと飛び込んでくるゼロの姿。


「っ!」


 ゼロの踏み込みにあわせて、クライムは剣を振り下ろす。

 ゼロはクライムの剣の腹を横から叩き、方向を変えさせると、腹部めがけ拳を叩きつける。

 グワァンという激しい音。それは金属と金属のぶつかる音のようでもあった。


「がはぁ!」

「はいはい、こんどはこっち!」


 よたよたと後退するクライムの太ももに辺りから、ガリガリという音が何かが走り抜ける衝撃が響く。クライムは声のあった辺りに適当に剣を振るう。

 しかし触れる感触はない。

 闇雲に振るう剣では届くわけが無い。冷静な戦士としての感覚がそう叫ぶが、振るわなければ更なる追撃を食らう可能性だってある。無駄な剣の振りは疲労を誘うが、この状況ではするしかないのだ。

 ヘルムの下でクライムは顔を歪めながら、敵のいる場所を捉えようと周囲を確認し始めたところで、視界の隅で何かが動くのを捕らえる。慌てて盾を構えようとし――


 金属音と共に胸部に強い衝撃と痛みが走る。

 よたよたと後ろに後退しながら、自分の全面に盾を構えつつ視線を飛ばす。そこにいたのは予想通り拳を突き出したゼロだ。

 胸部を殴られた衝撃で呼吸が乱れる。殴打系の攻撃は内部に浸透するようにダメージを伝える。魔法の掛かったフルプレートだから耐えれるものの、クライムが受けたダメージは小さくない。


「ふん。ルベリナ、遊びすぎだぞ? ほかに殺さなくてはならない奴がいるんだ」

「ええ? ああ、そうだよねぇ。侵入者がいるんだったね。ちょっと忘れてたよ」


 ルベリナの言動にわずかな殺意が混じる。つまりはこれからは本気になったということか。

 クライムは必死に呼吸を整えようとする。服の下から噴きあがった汗がダラダラと流れているのが感じ取れた。実戦は幾たびもこなしたことがあるが、これほどの死を目視しながらの戦闘は初めてだ。

 すさまじい勢いで精神力が削られていくのをクライムは感じていた。そして無駄な行動やダメージが体力を奪っていくのも。


「もういい。疲労し始めたこいつならお前でも安全に殺れるだろう。参加しろ、サキュロント」

「はい、ゼロさん」


 ゆっくりと今まで様子を見ていた男が壁際から離れ、囲むような位置に動き出す。抜き放ったのはショートソードだが、その刀身にはぬらりとした輝きがあった。

 クライムの左手がダランと力なく垂れる。持った盾が非常に重く感じられた。肩口から伝わる赤熱感は折れてはいないこそ、ヒビぐらいは入っていそうだった。胸部、腹部からも同じようにジクジクとした痛みが響く。


 囲まれ、ゆっくりと距離が迫る。一息の距離になったとき、3者の攻撃は確実にクライムの命を奪うだろう。


 クライムは喉に苦いものを感じていた。

 これが死の味か。


 クライムは自らの体が震えるのを感じていた。

 ラナーの下に帰れないと、心が泣いているのか。


 死というものを前にした時、人は殉教者の心になるという。それは戦闘中にあっては諦めに似た感情だ。そしてそういう者は次の攻撃で命を失う。それは至極当然だ。戦闘は命の奪い合い、諦めた人間が命を奪えるはずも無いのだから。


 しかし――クライムの剣を握り締めた手からは力が抜けない。

 この剣はラナーから貰ったもの。それを手放すことは出来ない。

 クライムの脳裏に自らが最も愛する女性の像が浮かぶ。



 クライムは突如ヘルムを外し、床に落とす。甲高い音を立ててヘルムが床を転がった。そして自らの主人にわびの言葉を呟いた。


「――ふん」

「――あらまぁ」

「――誰だ?」


 8本指の3者は眼前でクライムが行う行動に、何かの意味があるのかと注意深く様子を伺う。諦めた人間の行動にも良く似ていたが、クライムの目に宿る闘志は死を受諾した者のものではない。

 クライムは自らの鼻や口の周りを覆っている布を取り外し、喉に絡まった死という味を唾と一緒に吐き出した。


「何を負けた気になっているんだろう」


 クライムは嘲笑する。それはこの出来すぎな状況を作った運命に対してだ。

 クライムは力を込め、肩口まで盾を持ち上げる。痛みなんか我慢だ。

 そう、クライムはいつだって我慢してきた。痛みを堪え、厳しい訓練に耐え、嘲笑に耐え、愛している女性を失うだろう未来に耐え。

 そして耐えながらも1歩1歩進んできたのだ。恵まれた人間が階段飛ばしで昇っていく中、クライムは1段1段、時間をかけながら昇ってきたのだ。

 ならばこの場もクライムが昇るための階段にしてやればよい。


 そしていつもの様に勝って、ラナーの後ろに立ちに行けば良いのだ。


 ニヤリとクライムが成長しきってない顔に獰猛な笑みを浮かべる。

 それに対してゼロとルベリナは僅かに、本当に僅かにだが警戒心を浮かべる。先ほどまでにあったのは確実な勝算だった。それが今では圧倒的な勝算になっていると感じたのだ。


「スペルタトゥー起動」


 ゼロのキーワードの詠唱により、刺青にほのかな光が浮かぶ。


「ふーん。2つ目のタトゥーの発動とは……結構、本気? サキュロント下がってるんだね。ちょいっと厄介な敵になったみたいだ」

「……何も変わってないみたいですが?」

「ふん。だからお前は下なのだ」


 コォオオと、息を吐きながら、ゼロは体内の熱を爆発的に燃やす。全身が赤くなり、凄まじい力が貯められているのが目視できるようだった。


「先に行くよ、ゼロ」


 ダンとルベリナが踏み込み、むき出しとなったクライムの顔を目掛けレイピアを走らせる。遊びを捨て本気となったルベリナの一撃は、容易く鎧を貫通する。クライムの鎧は非常に硬いがそれでも貫通できる自信があった。

 しかしながら、不安が1つだけルベリナの頭を過ぎる。


 盾と鎧は同時には貫通できないのでは、という思い。


 貫通しないで止められれば、圧倒的に不利になるのはルベリナだ。

 だからこそクライムの無防備となった頭を狙う。

 盾で受けたならそのまま貫く。剣で弾いたなら、そのまま滑らして貫くという狙いで。


 クライムはその『心臓貫き<ハート・ペネトレート>』と呼ばれるレイピアを前に、顔を逸らせるように回避行動を取る。

 ルベリナの顔に冷酷な笑みが浮かぶ。そのまま剣先を跳ね上げて頭部を貫通してやると。


 一瞬の後――剣先が肉に突き刺さる感触。しかし血は思ったよりも吹き上がらない。


「なっ!」


 ルベリナの驚く声。

 ハート・ペネトレートの剣先が貫いたのはクライムの頬。同時にクライムが頭を動かし、更に頬の奥へと剣先を進める。剣先が反対側の頬を貫いた後でクライムは歯を動かし、噛み締めた。

 ガリガリという歯が削られるような感触が、ハート・ペネトレートを伝わってルベリナの元に届く。


「ほほほかんふうさせはかったんはろ」


 口からぼたぼたと血を吐き出しながらクライムはそう、ルベリナにつげ、全身の力を込め剣を振るう。


「まずっ!」


 ハート・ペネトレートを引き戻そうにも、痛みを無視して1人の人間が全力で歯を噛み締めている力の方が強い。引き戻すことを止め、レイピアを手放そうとするが、全ては遅すぎる。クライムの剣はルベリナに目掛け走り、そして――。


 ――もし相手が1人であれば勝利を収めただろう――。


 クライムの体は大きな音を立てて吹き飛ぶ。

 鎧を着た1人の男性の体が中空に浮かび、数メートル吹き飛ぶのだ。それがどれだけの一撃かは語るにはおよばないだろう。


「油断のしすぎだ」


 豪腕でクライムに一撃を食らわせた姿勢で、ゼロがルベリナに呟く。


「ああ、助かったよ、ゼロ」


 ルベリナは床に転がっていたハート・ペネトレートを拾い上げる。ゼロの一撃を受けた衝撃でクライムの頬から離れたのだ。

 血と唾液、そして僅かな噛み跡。魔法の剣にこれだけの跡を残すというのだから、一体どれほどの力で噛み締めていたのか。

 ルベリナは床に転がったクライムに視線をやり、驚くような光景を目にする。


 ゆっくりと立ち上がるクライムの姿だ。ゼロの一撃を受けて、それもまともに受けて立ち上がる。そんな人間は滅多に見れるものではない。


「ゼロ! お前こそ遊んでいるじゃないか!」

「いや、これは驚いたな。鎧のお陰か、何かは不明だが、死なないとは頑丈な」


 がはっという声と共に、立ち上がりつつあったクライムが血反吐を吐き出す。半死半生。そんな言葉が相応しい姿だ。目はうつろで、右手も左手も力なく垂れ下がっている。顔は裂けたのか、酷い有様だった。

 しかしそれでも、戦うという意志がそこにはあった。


「殺すぞ! こいつ! サキュロント、お前も何を見てるんだ! 参加しろ!」

「は、はい!」


 余裕が無くなった声でルベリナが叫び、3人がクライムに迫る。


 耳鳴りのする耳に聞こえる声。それに反応するように、荒い息でクライムはそれを迎撃せんと剣を持ち上げた。勝算は非常に無いが、それでも負けるわけにはいかない。

 勝ってラナーの元に戻らなければならないのだ。

 ぐらんぐらんと揺れる視界の中、クライムは必死に敵を見据える。剣先も揺れているが、それでもまだ戦える。

 クライムは睨みつけ、そして――




「――1人に対して複数とはあまり良い趣味とは言えませんね」


 そんな静かな声が響いた。

 剣を抜いて殺し合いをしている最中だというのに、誰もが動きを止める。そしてありえないようだが眼前の敵から視線を動かし、声のした方に向けた。そんな無防備な姿を見せながら、誰も不意を打とうとはしない。

 それは全員が全員、その声から圧倒的な力を感じ、その人物の確認こそを何よりも優先したからだ。敵から目を離してでも。


 全員の視線が交わった先、そこに立つのは1人の老人だ。

 執事風の燕尾服を着用したその人物に汚れは一切見受けられない。ここが自らが仕える主人の館であるといわんばかりの綺麗な格好であり、自然な態度だ。しかしながら赤い靄でも纏っているかのように、濃厚すぎる血の匂いを漂わせていた。

 室内の全員の視線を浴びながら、老人は歩を進める。コツリと靴が乾いた音を立てた。何をしたわけでもない。単に足を部屋に踏み入れただけだ。


 殺意も敵意も何も感じられない。


 だが、ゼロ、ルベリナそしてサキュロント。その3人は見えない圧力に押されるように、無意識の内に1歩後退する。その老人が足を踏み入れただけで、部屋が小さくなったような迫力があったのだ。


 クライムは何故、その人物がそんなところにいるのは分からなかった。だから、声を上げる。


「ぜ――じじょうぉ」


 危うく老人――セバスの名前を言いかけ、クライムはとっさに浮かんだ呼び方を叫ぶ。サキュロントがいる以上セバスの正体はばれている。しかしクライムはそんなことを知らないため、正体を隠そうとしたのだ。

 そんな配慮を含んだ呼びかけに、セバスは苦笑いを浮かべた。


「……さて。私の――弟子がお世話になったようですね」すっとセバスが腕を差し出し、自分の方に招くようにジェスチャーをする。「お相手をしてさしあげましょう。――さぁ、掛かってきなさい」


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