ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

ライターに向いてないのか、仕事全般ムリなのか

ここ数日なんだか気分が上がらないな、と思っていたら、原稿が3つあるからだった。どれも取材自体は楽しかったり興味深かったりしたんだけど、テープ起こしをして、文章にまとめるっていう行為に対して、すごく腰が重い。テープ起こしを外注できたら少しはマシになるだろうか。しかし、テープ起こしを誰かにお願いしたら、原稿料がすべて吹っとんでしまうので、自分でやるしかない。

というか、よく考えると、テープ起こし自体は嫌いじゃない。ライターの友人や企業からも定期的にテープ起こしの仕事はもらっていて、それは喜んでやっている。自分では取材準備を一切せず、著名人や人生で交わりえない人たちの話を聞けるのは楽しいことだし、おまけにお金までもらえてお得だ。収入的にも一つの柱だし、今後もじゃんじゃん引き受けたいと思っている。

 

じゃあなぜ取材後、その記録をまとめるという作業に対してなかなか身が入らないのかと考えると、たぶん、「取材」を終えた時点でどこかホッとしてしまい、仕事がひと段落した気分になるからだろう。いちどピリオドを打ったのに改めて「やる気」みたいなものを捻出するのはひどく難儀だ。寝起きの悪い子供を起こすのと同じように骨が折れる。

 

解決策としては、取材を終えてすぐテープ起こしをしたり、取材中に取ったノートを見返し原稿のアウトラインを作るなどがあると思うけど、僕はそれをしたことがほとんどない。取材に向けて高まりきった緊張は、取材後あっというまに弛緩し、僕はだらけきってしまう。

帰り道では缶ビールを空けるし、帰宅電車では本を読んだりNetflixを見たりする。そして日が経ち、締切直前になってようやく取材を振り返るのだ。

 

これではいけないなと思う。取材時には取材対象者がくれた情報の他にも、彼・彼女の仕草や感情の流れなどの副次的な、というか取材にあってはむしろこちらが本質的とも言える非言語的な情報があって、それはもちろん音声データには残らない。そして健忘の気がある僕は取材から日が経つにつれて当然のようにそれを忘れてしまう。取材時に話を聞きながら僕が感じたことや考えたことも失われていくだろう。そうすると、できあがる原稿のクオリティは下がるに決まっている(このときクオリティが一体どの状態からどんな状態へと下がるのか、という問題は置いておいて)。

だから、ほんとは取材の鮮度の高いうちに、冷凍保存しておかなくてはならない。冷凍保存は要するにテープ起こしであり、取材ノートの見直しやまとめだ。しっかりやろう、ほんとに、マジで。

 

 

というような悩みが最近あるのだけれど、上に書いたことはほとんど告げないまま、妻に「俺にはライターが向いてないのか、仕事が向いてないのかどっちなんだろうか。それを知るにはライター以外の仕事をするしかないのか」とグチったら、「仕事が向いてないんだと思うよ」と言われた。「だって、何もしない状況は苦じゃないんでしょ?」とも。

何もしてない状況が苦なのかどうかは僕自身よくわからない。退屈はイヤだ。退屈は辛いので、人と話したいときもあるし、いつだってぶらぶら散歩したいし、毎日銭湯・サウナに行きたいし、たまには本も読みたいし、映画を見るのもやぶさかではない。思いわずらうことなく、ぼうっとする時間もたくさん欲しい(《ぼうっとする》は退屈なことではなく、とてもエキサイティングだと思う)。

でも、「何もしない」がイコール「生産的なことを一切しない」であるならば、さっきの妻の質問にはイエスと答えよう。生産しない状態は、まったく苦ではない。むしろ産みの苦しみみたいなのにばかり苛まれるので、なるべくなら産みたくない。

 

産みの苦しみの果てには、快感があって、それを知ったら病みつきになったりもするんだろうか。苦の果てに快があった経験、僕にはあるだろうか。働いた後のビールより、まっさら元気なときに飲むビールの方がうまいよ。

まあ、たぶん、そういうことじゃないよな。

「高ければ高い壁の方が登ったとき気持ちいいもんな」って歌詞の意味を僕は知らない。知りたいのかな。